こんにちは、ちゃむです。
「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
142話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 熱狂のあとの静寂
首都の社交界はしばらくの間、「家門同士の絶対的な主従関係を越えた、二百二十一話分にも及ぶ叙事詩のような小説の恋」の話題で、文字通り狂ったように熱狂していた。
しかし、その波乱万丈な物語の主人公であるクロードとメロディの二人が正式に結婚して落ち着いてからは、あれほどまでに都を騒がせていた世紀のスキャンダルに、もはや興味を示す者など誰もいなくなった。
常に刺激的な話題を飢えた獣のように求める一部の不届きな貴族たちは、クロードの周囲を未だにしつこく探り、ロニやジェレミアの存在を都合よく使って新たな醜い噂を流そうと水面下で陰湿に動いていたが……。
残念ながら、その二人の誠実な若者は、都の退屈な貴族社会の不純な期待をことごとく裏切り、あまりにも健全で、真っ当すぎる美しい生き方を選び続けていた。
そうしてさらに穏やかな時が流れ、人々の飽きっぽい関心は、自然とボルドウィン家の末っ子であるロゼッタへと移っていくことになる。
彼女は、天から与えられた生まれ持っての快活さと、見る者すべてを瞬時に惹きつける華やかな魅力によって、あっという間に首都の気難しい貴族たちを虜にしてしまった。
その圧倒的な人気は、彼女が二十二歳という大人の女性になった今も衰えることなく続いており、現在では首都でもっとも多くの夜会や茶会への招待を受ける、時代の寵児の一数えられていた。
彼女を特に熱烈に寵愛する高貴な者の中には、八年前に先王から王位を譲り受けて即位した、若き皇帝その人も含まれている。彼は公務の時間が許すたびに、ロゼッタへ個別に優しく声をかけ、二人きりで共に過ごす特別な時間を設けるほど、彼女の存在を特別視して重んじてきた。
また、ロゼッタの影の側近としては、あの王子オーガストの存在も決して欠かすことができない。
今やロゼッタは、名実ともに首都でもっとも強大な影響力を持つ、高貴な令嬢と言って差し支えなかった。
それにもかかわらず、彼女自身は相変わらず、一人になると「あの上流階級の贅沢な暮らしなんて……人生はどこまでも苦難の連続だわ」と、小さく独りごちるのをやめなかった。
彼女が、すべてを手に入れた身でありながらそんなふうに人生の生きづらさを感じる理由は、大きく分けて二つある。
そのうちの決定的な一つは――義理の姉となった、あのメロディのこれからのことが、あまりにも心配でならなかったからだ。
それは、ある麗らかな日の午後のことだった。
「ねえ、メロディ。私ね、ちょっと大真面目に考えたんだけどさ」
ロゼッタは、すでに丸七時間も冷たい机に向かってペンを走らせ続けているメロディの背後へと足音を消して回り込み、その華奢な肩を包み込むようにしてくるりと回り込んだ。
「……あら、どうしたの、ロゼッタ?」
メロディが一度持っていたペンを執務机に置き、疲れた顔を上げて振り返ると、ロゼッタは自らの両腕を優しく伸ばし、彼女の白い首元から後ろ抱きにするようにして、ぎゅっと愛おしそうに抱きしめた。
「どう客観的に考えてもさ、メロディって、うちのクロードお兄様に完璧な“結婚詐欺”に遭ったと思うのよね」
「ふふ、まあ。結婚詐欺だなんて、おかしなことを言うのね」
メロディはロゼッタの温かい腕の中に一瞬だけ自らの頭を心地よさそうに預け、いつものように楽しそうに鈴を転がすように笑った。
けれど、ロゼッタの表情は大真面目であり、決して冗談のつもりなどではなかった。比喩でもなければ、からかいの世間話でもない。どう考えても、メロディがクロード・ボルドウィンという冷徹な男に“結婚詐欺”の被害に遭わされたのは、紛れもない事実だったからだ。
「よく聞いて、メロディ」
ロゼッタは、何時間も重いペンを握り続けていたせいで、かすかに赤くなっているメロディの小さな手を、そっと自らの両手で引き寄せた。
「メロディは今、この広大な公爵家の絶対的な女主人の役職として、毎日身を粉にして働いているのよね?」
「ええ。ありがたいことに、皆様に支えられてね」
当然のことではあるが、ボルドウィン公爵は依然として、自らの新たな公爵夫人(実母の代わり)を正式に迎えるような動きは一切見せていなかった。少なくとも現状の政治的状況を見る限り、その予定があるようには到底思えなかった。
そのため、メロディはクロードと結婚した直後のうら若き頃から、二十八歳になった現在に至るまで、この広大すぎる公爵邸と、首都にある広麗な邸宅、そのすべての内政と財政をたった一人で完璧に取り仕切っているのだ。
「それに、あの頑固なヒギンスおじい様とおばあ様が正式に現役を引退してからは、あなたが家宰(総執事)の膨大な仕事まで、すべて兼任しているでしょう?」
「ええ……。だから、事実上、家の中のすべての運営があなた任せになっているのよね」
「それだけじゃないわ! あなた、その過酷な仕事の合間を縫って、あの超難関と言われる国家記録官の試験勉強まで、今も夜通し続けているじゃない!」
「いつその公式の試験が国で開催されるか分からないから、今のうちに最善の備えをしておきたいのよ」
「……仕事の量が、あまりにも多すぎると思わないの!?」
「そうかもしれないけれど……でも、大好きなボルドウィン家のためですもの、大丈夫よ」
メロディは、自らの疲れた手を優しく包み込んでくれたロゼッタの手の甲に、そっとお礼の口づけを落とし、聖母のように柔らかく微笑んだ。
「一日は、誰に対しても平等に二十四時間もあるのですもの」
「もし私がクロードお兄様の立場だったら、大好きなメロディを、こんなふうに毎日の激務で苦しめたり絶対にしないわ!」
「うーん……別にクロード様が、私を不当に苦しめているわけではないのよ、ロゼッタ。私はただ、自分が心から愛して選んだ大切な仕事(義務)をしているだけだから……。だから、たぶん私がこの世界で他の誰と結婚していたとしても、きっと同じような仕事尽くしの生活になっていたと思うわ」
「だからって、お兄様があなたを都合よく囲い込んだあの“詐欺”の罪が、綺麗に帳消しになるわけじゃないわよ。本当にひどい男だわ」
「でもね……もし、その激務のおかげで、ロゼッタがいつもこうして心配して、私のことを後ろから温かく抱きしめてくれるのだとしたら……。私、こんなに幸せな“詐欺”なら、これから先何度だって喜んで引っかかってもいいかもしれないわ」
そのメロディのあまりにも甘く愛おしい言葉に、ロゼッタは思わず「もう……っ」とくすくす笑ってしまった。けれどすぐに、愛しさが限界を迎え、メロディの白い首元に自らの顔を深く埋めると、ぶんぶんと激しく首を振った。
「だめ! 私は、大好きなメロディを、こんなに苦労させるつもりでボルドウィン家に迎え入れたんじゃなかったのよ!」
「じゃあ、ロゼッタの中では、一体どんな完璧な計画だったの?」
「あなたを、世界で一番幸せにするつもりだったの! この世の誰よりも――」
「一番、ね?」
「……もう、笑わないでよ、メロディ」
メロディは、自らの身体に子供のように甘えて寄りかかるロゼッタの柔らかい頬をそっと優しく撫で、いたずらっぽく微笑んだ。
「そのあなたの大切な計画なら、もうずっと、ずっと前の日に完全に成功していると思うけれど?」
「……う」
そのあまりにも優しい、曇りのない言葉を真っ正面から向けられ、ロゼッタは完全に言葉を失ったまま、可愛らしく唇を尖らせるしかなかった。
「私ね、今度はロゼッタのことを、本当に心の底から幸せにする計画を、自分がちゃんと実行できていない気がして……それが、ずっとあなたの姉として心配なのよ」
「私は十分に幸せよ。……まぁ、世界で二番目くらいにはね」
「でも、それは――」
メロディは、彼女の言い訳を優しく遮るように自らの身体をさらに寄せると、ロゼッタの両頬を愛おしそうに包み込むようにして抱きしめた。
「――ロゼッタ。今日は、他ならぬあの『エヴァン』に直接会う、約束の日でしょう?」
「……そ、そうだけど」
「数ヶ月の遠征を経て、実に三か月ぶりに会うんだもの。おめかしの準備は良くって?」
メロディの問いかけに、ゆっくりと小さく頷くロゼッタの表情は、先ほどまでの堂々とした態度が嘘のように少し照れくさそうで、それでいてどこか隠しきれない嬉しさに満ちあふれていた。
気づけば、二人の若い女性の頬は、お互いの熱によって隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。
「……うん、行ってくるわ」
「ふふhっ、可愛いわね」
いつもは首都の社交界で女王のように堂々としているロゼッタが、恋人の名前を出されただけで目に見えて初々しく恥ずかしがっている姿があまりにも可愛すぎて、メロディは思わず椅子から立ち上がり、ロゼッタの細い腰をぎゅっと力強く抱きしめてしまった。
その、姉妹の熱のこもった愛情深い抱擁の最中――メロディの執務室の扉が開き、公爵クロードが少しだけ中へと顔を覗かせた。
だが、彼は最愛の妻と、義理の末妹が繰り広げているその“熱い(?)抱擁の現場”を目にすると、立派な大人の夫としての美徳を遺憾なく発揮し、何一つ野暮な言葉を発することなく、そっと音を立てずに扉を閉めてその場を離れていくのだった。
今から、およそ八年前のこと。
先代の皇帝は、当時の皇太子が正式に成人したのと同時に、かつて民と交わした約束通り、惜しげもなくその絶対の玉座を退いた。
皇室の頂点から吹き込んできたその劇的な時代の変化の風は、この国の魔法科の分野にも、多大なる影響を与えることとなった。
その影響を直接受け、ほぼ同じ時期に、若き「魔法士ボルドウィン(ジェレミア)」もまた、偉大なる先代の魔塔主オーウェンの後を正式に継ぐこととなったのだ。
若くして、世界中の英知が集まる知識の魔塔を率いる最高権力者の立場となったジェレミアは、就任当初から現在に至るまで、諸外国の優秀な魔法士たちとの魔法技術の交流の場を広げることに、自らのすべての心血を注ぎ続けてきた。
一方、彼の唯一の弟子であるエヴァンもまた、師の背中を追って弱冠二十歳にして栄誉ある「最高位魔法士」の称号を得たのは言うまでもなく、今では正式に十八歳の成人となり、彼自身の専門分野である「魔力石のエネルギー運用」に関する、独立した国家級の研究を若くして推し進めていた。
「だからね、エヴァン。研究のための地方への出張や、他国への遠征が増えるのは、これからの魔塔の発展のためにも仕方のないことだって、私は頭では十分に分かっているのよ。……ねえ、エコ?」
ロゼッタは、魔塔へと向かって軽快に走る馬車の中で、自らの膝の上に我が物顔でちょこんと座る、不思議な黒猫エコの柔らかな毛並みを、愛おしそうに優しく撫げてやった。
ロゼッタが〈ピシス〉として完全に覚醒し、魔塔の重要人物として出入りしている事実が公になって以降、この知性を持つ猫エコは、堂々と公爵邸の敷地内を歩き回り、家を訪れる高貴な来客たちを玄関で出迎える重要な役目まで、正式に担うようになっていた。
幸いなことに、公爵家の人々は、この人間の言葉を理解する不思議な猫エコのことを、決して不気味がって嫌うようなことはしなかった。いや、正確に言えば、普段は無口で頑丈な鉄のボルドウィン公爵の広い肩の上に、この小さな黒猫が堂々と座り込んで寛いでいるその微笑ましい姿を一度目にして以来、屋敷のすべての使用人たちが、確実にエコを愛するようになっていたのだ。
「それでも……昔の暗暗とした日々のことを思えば、こうしてまた、エヴァンとまともに会えるようになっただけでも、私は神様に深く喜ぶべきよね?」
ロゼッタの膝の上で、エコは「にゃあ……」と深く人間の女性のようなため息をつき、さらに身を低くして前かがみに丸くなった。ロゼッタが今、何気なく口にした「昔」という短い言葉の裏にある、あの血を吐くような過酷な記憶が、はっきりとその胸に浮かんだからだ。
ロゼッタがかつて、過酷な運命の末に〈ピシス〉として完全に覚醒し、死の淵を奇跡的にかすめ、クリステンスの静かな領地での長い療養生活をすべて終えて首都へと戻ってきてから――。
ロゼッタは、自らの命を救ってくれたエヴァンと再び会って、その本当の気持ちを伝えるため、死に物狂いで必死の努力を重ねてきた。厳格な公爵の前に何度も頭を下げ、ようやく魔塔への立ち入りの許しを勝ち取り、自ら足を運んだほどである。
しかし、当時のエヴァンは、自らの研究室の部屋に閉じこもったまま、決してロゼッタに会おうとはしなかった。そうして、扉一枚を隔てたまま、互いの顔も合わせられない残酷な時間が、虚しく三か月も過ぎていった。
拒絶されたという深い心の傷が、ロゼッタの胸に今なお鋭く残る中、彼女はあの日の朝、自らの唇を噛み締めて呟いたのだ。
「――もう、これが本当に最後よ」
そう自らに言い聞かせ、彼女はすべてを終わらせる覚悟で、エバンの研究室の前へと赴いた。
『ねえ、エヴァン』
頑なに固く閉ざされた冷たい木製の扉に、自らの額をそっと預け、彼女は消え入りそうな小さな声で、縋りつくように部屋の奥へと囁いた。
『お願いだから、今日は……その扉、開けてくれないかしら?』
扉の向こうの暗闇から、明確な返事は何も返ってこなかった。
ただ、突然の彼女の来訪に、どうしていいかわからず激しく戸惑っているのか、エヴァンが部屋の内側から、扉の取っ手にそっと触れているらしい、かすかな金属音だけが、カチャカチャと静かに響いていた。
『エヴァン……っ』
『……あ、お、お嬢様……だ、だめです』
『会いたいの、どうしても』
『僕は……これ以上、僕の呪われた力でお嬢様を傷つけたくないんです!』
『そんなの、もう、十分に傷ついてるわよ……!』
『ご、ごめんなさい! ぼ、僕の暴走した魔力が、今日に至るまでまだお嬢様の身体を苦しめているなんて、僕は夢にも思いもしなくて……っ!』
『そういう話をしているんじゃないの! 私は、ただ――』
『ぼ、僕がすべて悪かったんです! これからは絶対に、お嬢様の視界に入る近くには行きません。ですから……ですから、もうお帰りください!』
扉の向こうで、ロゼッタの悲痛な話に心を激しく揺らされないよう、エヴァンは自らの両耳を両手で強く塞いだまま、彼女を遠ざけるための決意を改めて固めていた。
だが、その言葉の途中で、彼はある決定的な「異変」を肌で覚え、思わず自らの言葉を白白と切った。エヴァンは、耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろす。
「……え? いま……お嬢様、何て……?」
実のところ、その時点に至るまで、ロゼッタは魔塔の利権に関わるさまざまな“大人の交渉(?)”をジェレミア様と重ねながら、彼が自らの意志で扉を開けてくれるのを、何ヶ月も辛抱強く待ち続けていたのだ。その中には、一介の魔法士であるエヴァンが思わず揺らぎかねないほど、甘く魅力的な特権の提案もいくつか含まれていた。
それでもエヴァンは、彼女の身の安全を守るため、決して心を動かさず、ロゼッタとの絶対的な距離を頑なに保ち続けてきた。自分の不吉なそばに彼女がいて、良いことなど一つも起こらない――これまで起きた悲劇が、すべてその正当な証明だと頑なに信じ込んでいたからだ。
……それなのに。
「ひっ……、……う、うっ……」
固く閉ざされた扉のすき間から漏れ聞こえてきたのは、他ならぬ、彼女のかすかな「嗚咽」の泣き声だった。
その、生まれて初めて聞く彼女の弱々しい泣き声に、エヴァンは自分でも驚くほど理性を失って動揺し、次の瞬間には、あれほど頑なに閉ざしていた扉を、自らの手で勢いよく乱暴に開け放ってしまっていた。
『――お嬢様!!』
扉を開けた先にいたロゼッタは、溢れ出る涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、冷たい床の上に小さくしゃがみ込んでいた。おそらく、彼と扉越しに話している間中、ずっと声を殺して泣き続けていたのだろう。
『あ、あの……お願いですから、泣かないでください。ね? 僕が、僕が悪かったですから……っ』
エヴァンは、もう二度とお嬢様には会わないと神に誓った決意など一瞬でどこかへ忘れ去り、しゃがみ込む彼女の目の前に自らも向き合って座り込んだまま、どうしていいかわからずにただオロオロと手を彷徨わせるしかなかった。
『エヴァン、嫌い。……本当に嫌いよ、大バカ者……っ』
ロゼッタは両手で真っ赤に腫れ上がった目元を乱暴に拭い、そのまま涙で濡れた白い顔を、彼のローブに擦り付けるようにしてこすった。
『ぜ、全部……お嬢様に嫌われるのは、僕のような人間なら当然のことです、お嬢様』
震える低い声で返されたその諦めの言葉に、ロゼッタは今度は怒りでいっぱいの顔のまま、勢いよく顔を跳ね上げた。
視線が真っ正面から合った瞬間、エヴァンはびくりと大きな肩を跳ねさせ、慌ててその綺麗な目を逸らそうとする。
しばらくの間、自らの涙の手で彼の顔をじっと見つめていたロゼッタは、やがて、相変わらず涙声で鼻をすすりながら、決定的な一言を口にした。
『……抱いて』
「え……っ?」
一瞬、自らの耳の錯覚を疑いながら、エヴァンは硬直したままもう一度彼女の瞳を見た。すると、ロゼッタは自らの両腕を彼の前に向かって真っ直ぐに突き出し、再びわがままに叫んだ。
「――抱いてって言っているのよ、エヴァン!」
その白い手が自らの肩に触れそうになり、エヴァンは恐れ多さのあまり、床を強く蹴って慌てて後ろへと後ずさった。
「わ、私のような身分の者が、恐れ多くもお嬢様にそんな不敬な真似……っ! あ、あの、とにかく泣かないでください、お願いします! ど、どうすればその涙を止めてくださるのですか……っ」
エヴァンが拒絶すればするほど、ロゼッタの泣き声は次第に大きくなり、ついには過呼吸で息が乱れるほどに激しくなってしまった。そこまで追いつめられては、エヴァンもこれ以上、自らの身勝手な意地を張り続けることなど土台無理な話だった。
「ど、どうかもう泣かないでください……! お嬢様がそうお望みなら、僕は、僕はこの命に代えても何でもいたしますから! はい……っ!」
「……本当に……? 私の言うことなら、これから全部、一つ残らず聞いてくれるの?」
彼の降伏宣言を聞き、少しだけ落ち着きを取り戻して投げかけられたその切実な問いに、エヴァンは慌てて何度も大きく首を縦に振った。
「ほ、本当です! 一体、どうすればお嬢様の気が済むのでしょうか!?」
『……私のお願いなら、何でも聞いてくれるって、今自分で言ったじゃない』
ロゼッタはそう小さく呟くと、彼の広い肩口に自らの額を完全に押し当てたまま、白い指先で彼の黒いローブの衣服をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で強く掴んだ。
『……う……っ』
エヴァンは一瞬、あまりの至近距離にすべての言葉を失った。もはや、逃げ場などどこにもない、絶対的な距離。彼女の小さく震える身体の体温が、ローブを通じてそのままダイレクトに自らの胸へと伝わってくる。
『……お願いだから、エヴァン』
か細く、けれど自らに対して絶対に逃げ道を与えない、聖女の声音だった。
しばらくの間、二人の間に重い静寂が落ちる。
やがて、エヴァンは諦めたように小さく、優しく息を吐き出すと、すべての呪縛を解くように意を決して、ロゼッタの華奢な背中へと自らの大きな腕をそっと回した。
『……わかりました。……ほんの、ぎゅっと、ですよ?』
その腕が触れた瞬間、ロゼッタの身体がびくりと嬉しそうに跳ね、次の瞬間には、彼の胸の中へと壊れんばかりの力でしがみついた。
『……う、ううっ……、……ひくっ……』
堪えていた激しい嗚咽が、すぐ耳元ではじける。
エヴァンは自らの不器用さに戸惑いながらも、彼女が二度と自分の前から逃げ出さないように、そしてその繊細な心を二度と壊してしまわないように、どこまでも慎重に、優しくその背中を大きな手で抱きしめ続けた。
『……ほら、ちゃんとこうして抱いていますよ、お嬢様。もう、絶対に離しませんから……』
ロゼッタは言葉を返す代わりに、彼の暖かい胸元にその顔を深く埋め、ぎゅっと自らの腕にさらに力を込めた。
『……約束、よ……?』
『……はい。僕たちの、絶対の約束です』
彼の声は、これからの未来への恐怖で、未だにかすかに震えていた。
それでも、その若き魔法士の腕は確かに、今度こそ逃げることなく、彼女のすべてを優しく包み込んでいた。
「……おいで、ロゼッタ」
「……うん」
エヴァンは、相変わらず大人の男性としてはぎこちない様子ではあったが、しばらくの間、ロゼッタの背中にそっと愛おしそうに腕を回して、自らのほうへと強く抱き寄せてやった。
「ほら、できましたよ。だ、大丈夫……ですよね? もう、そんなふうに泣かない、ですよね……?」
彼が安心させるようにわずかに身体の距離を取ると、ロゼッタはふいに顔を上げた。涙で真っ赤に染まった瞳で、じっと彼の端正な顔を見つめながら。
エヴァンは、その熱い視線に耐えかねたように、もじもじと身をよじりながら尋ねた。
「つ、次は……僕が、お嬢様のために何をすればいいんでしょうか?」
そう問われると、ロゼッタは小さく満足そうにうなずいた。
「うん」
「ま……何なりと、お申し付けください」
「私ね、エヴァン。――あなたのことが、大好きなの」
不意に突き落とされたそのあまりにも真っ直ぐな告白の言葉に、エヴァンは完全に思考を奪われて言葉を失い、その場で石のように凍りついてしまった。
彼の胸の内にあるそんな激しい動揺など知る由もなく、ロゼッタは彼のローブの裾をさらにぎゅっと強くつかみ、一文字ずつ決定的な言葉を続けていく。
「私……エヴァンのことが、世界で一番、すごく好きなの。とても、とても……愛しているわ」
『……ねえ、エヴァン。あなた、私のこと……せめて、半分くらいは好きになってくれた?』
『……』
彼女のその、血を吐くような切実な問いかけに対し――若き魔法士は結局、今日に至るまで、何の明確な答えも彼女に返してはくれなかった。
そしてそれこそが、ロゼッタがすべてを手に入れた当代随一の令嬢となりながらも、今日に至るまで、一人になると「人生はどこまでもつらいことばかりだわ」と、寂しげに独り言をこぼすようになった、二つ目の、そして最も深い愛の悩みとなったのである。