こんにちは、ちゃむです。
「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
163話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 互いを守るため
クラリスは着替えを済ませるや否や、事態の詳しい状況も飲み込めないまま、マクシミリアンの執使室へと突き動かされるように向かった。
「私、公爵様のお役に立てます。それは、公爵様ご自身が一番よく分かっているはずでしょう!」
漆黒の鎧を隙なく身に着けたマクシミリアンは、最後に厚手の革製手袋を手首へとはめ、毅然とした足取りでクラリスの前へと歩み寄った。
「夏の魔物は、災厄と呼ばれる」
「……」
「生まれたばかりの飢えた子どもたちを、腹いっぱい食わせようとする彼らの執念は、何よりも強い。死に際でさえ人間をその爪で掴み、北の城壁を越えて投げ飛ばすほどにな」
「……だからこそです!」
クラリスは、どうしてもマクシミリアンの傍を離れるわけにはいかなかった。
彼は、どこまでも重い責任を背負うに足る、真の血統たる人物だった。どれほど危険な獣たちが群れを成して押し寄せようとも、自らの命が脅かされる最悪の瞬間が訪れようとも、決して退かない――そういう過酷な生き方を選ぶ人なのだ。
クラリスは、そんなマクシミリアンの峻烈な横顔を、これまでずっと尊敬し、憧れてきた。けれど今は、その気高さの果てに彼がどうなってしまうのか、それがただ恐ろしくて仕方がなかった。
「わ、私は……公爵様のことをよく知っています。だから、今のセリデンにはゴーレムが必要なんです。危険な瞬間に、真っ先に前に立って、公爵様を守ってくれる盾が……」
必死に彼を説得しようとする言葉は、いつの間にか、隠しきれない震えを帯びていた。
「正直に……話す、クラリス」
マクシミリアンは、彼女の華奢な両肩を、痛いほどの力で強く掴んだ。
「お前がここにいる限り、私は――ただ、お前の無事だけを最優先に考えてしまう」
「公爵様……」
「結局は、万の民や兵の命よりも、お前個人の安全を優先することになる。残念だが、それが私の本心であり、そういうものだ」
「私は、どうなったって絶対に大丈夫です!」
意地を張るように叫んだ彼女の言葉に対しても、マクシミリアンは悲痛な面持ちで静かに首を横に振った。
「この場にいる誰よりも、私にとってはお前が大切だ。だが……何万の命を預かる戦場という状況において、私のその私情は、決して正しいことじゃない。しかも私は、この地で、あまりにも多くの生死を決断しなければならない立場にあるのだ」
クラリスは、胸を突かれるような思いで、ようやく彼が何をそこまで心配しているのかを正しく理解した。
マクシミリアンは、クラリスへの深い情愛のせいで、万が一の極限の場面において、総大将としての正しい冷徹な判断ができなくなることを何よりも警戒し、恐れていたのだ。彼が下すたった一つの命令に、数十、数百の騎士の命が懸かっていると考えれば、その不安はあまりにももっともなことだった。
だが、その合理的な正論を、クラリスの心が素直に受け入れられるかどうかは、また全く別の問題だった。
マクシミリアンは最後に、愛おしそうにクラリスを静かに見つめ、それから執使卓の上に無造作に置かれていた、何本かの長剣の中から重厚な一本を無言で手に取った。
「君の存在や、君が持つゴーレムマスターとしての偉大な力を疑っているわけじゃないんだ」
「…………」
「マクラッド卿と一緒に、一刻も早くセリデンの本邸へ戻っていなさい」
マクシミリアンは一瞬、鋭い目を窓の外へとやった。
外で待機していた騎士たちが、にわかにざわめき立ったからだ。緊迫した空気の中、誰かが荒々しく息を吐く、切迫した気配がここまで聞こえてくる。
直後、重々しい足音とともに、ノックの音すら省いて乱暴に扉が開け放たれた。
血相を変えて現れたのは、側近のベンスだった。
「公爵様。夜明け前に北の城壁の向こうへ先行していた、我が領の精鋭偵察隊が戻りました。ただ……」
そこでベンスは、室内にいるクラリスの存在に気づき、ハッとして言葉を切り、様子をうかがうようにその場に立ち止まった。
「……どうやら、言葉で聞くよりも、公爵様ご自身の目で直接ご覧になるのがよろしいかと存じます」
「すぐに向かう」
「はっ」
マクシミリアンは、クラリスへと静かに視線を向けた。短く、しかし確かに――私の決断を信じてくれと、理解を求めるような切実な眼差しを彼女に送り、ベンスと共に執使室を後にした。
クラリスは彼らが去ると同時、窓辺へと素早く駆け寄った。
あの偵察隊は、定期的に危険な北の城壁の向こうへ出向いており、この領地で魔物と対峙した経験が最も豊富な猛者たちだった。それなのに。
広場に戻ってきたのは、セリデンの不屈の旗を掲げた数頭の馬と、赤く染まった幌の一部を残すだけとなった、無残な姿の荷車だけだった。人影は、どこにもない。
事態の深刻さを察したマクシミリアンは、即座に北の城壁近郊の開拓村だけでなく、馬を走らせれば一日以内に到達できるすべての周辺の村々へ、一刻を争う緊急避難命令を下した。
『コオ……』
風の微かな言葉を聞いたのだろうか。それとも、遠く離れた別の同胞の石の警告を聞いたのだろうか。
クラリスのポケットの中で、マランが静かに、しかし重く告げた。
この一帯は、これから数日のうちに、血で血を洗う修羅場になるだろう、と。
かつて、偉大なゴーレムたちが無残に崩れ落ち、多くの命が消え去った、あの災厄の年のように。
「君! どうしてまだこんな場所に留まっているんだ!」
マクシミリアンが部屋を出てから、さほど時間も経たないうちに、今度はノアが血相を変えてクラリスを探しに現れた。彼は今もなお、頑なにあの白い仮面をつけたままだった。
「ここをすぐに離れ、本邸へ避難しろと公爵に言われなかったのか?」
足早に歩み寄ると、ノアは焦れったそうにクラリスの手首を掴んだ。
「マクラッド卿も、もうすぐ馬車の荷造りを終えるはずだ。一秒でも早く急いでくれ」
「あ……」
クラリスは彼に引かれるままに二、三歩進み――そして、ハッとしたようにその場に強く足を踏み留まった。
「ノアは……ノアはどうするの?」
「もちろん、僕はここに残る。これほどの規模の戦いになれば、必ず高位の魔法使いが必要になるからね」
その瞬間、クラリスの胸の奥に芽生えた、どうしようもないほど不可思議で切実な感情を、一体どう言葉に表せばいいのだろう。
マランは、静かに告げていたのだ。ここはまもなく、大きな惨劇の舞台になり、夥しい命が失われる修羅場になるだろう、と。
彼女の本心としては、たとえノア一人だけでも、何が何でも安全な後方へ避難してほしかった。だが、マクシミリアンや、この土地を守るために命を懸ける騎士たちの立場を思えば、ノアのその勇敢な決断には、ただ心から感謝するしかなかった。白いローブをまとった最高峰の魔法使いが彼らと共に前線にいてくれるというだけで、それは戦う者たちにとって、十分すぎるほどの絶対的な戦力であり心の支えになるのだから。
「少女! 頼むから歩いてくれ」
ノアは再び彼女を促すように歩みを早めようとした。しかし、クラリスの脚には鉛でも仕込まれたように力が入り、どうしてもそこから動くことができなかった。
「ねえ、ノア……マランが言っていたの。これから、本当に恐ろしいことが起きるって……」
「そんなことは、もう百も承知だ。公爵が選抜した最高峰の精鋭が、一人も生きて戻れなかったんだ。最悪の魔物の巣が記された地図だけでも、こうして持ち帰れたのが奇跡に近いほどの幸運だったんだよ」
「……私が今、とても身勝手で、悪いことを考えているのは分かっているわ。でも……私は……ノアが……」
(ノアが、この残酷な戦いに巻き込まれ、傷つき、死んでしまうかもしれないのなら、そんな戦いなんてどうなってもいい――)
そんな、魔法使いとしての彼の誇りを踏みにじるような身勝手な言葉は、どうしても口にできなかった。
けれどクラリスは今、マクシミリアンのあの時の胸中を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。自分をここから力ずくで遠ざけようとしたあの冷酷な判断が、どれほど深い不安と、失いたくないという怯えから生まれたものだったのかを。
「心配しないで、少女」
クラリスの心の迷いを敏感に察したのだろうか。ノアの手が、掴んでいた彼女の手首からそっと滑り、その掌を包み込むようにして、指先をひとつずつ愛おしそうに絡め取った。
「……もしかして、君はまた、僕を殺すつもりかい?」
それは、去年のうららかな春の日に、彼が冗談めかして口にした言葉だった。あの時、魔力暴走に怯えるクラリスを、彼はそうやってからかうように宥めてくれたのだ。当時の彼女は、『縁起でもないことを言わないで!』と本気で声を荒らげたものだった。
「僕の命は、最初から少女の手の中にある。今までも、そしてこれからもずっとね」
ノアは、生まれながらに世界を揺るがすほどの強大な魔力を宿した魔法使いだった。そんな彼を完璧に制御し、繋ぎ止められるのは世界でクラリスただ一人だけ――その言葉は、決して彼女を安心させるための虚勢でも、慢心でもなかった。
だが、たとえそれが世界の真理だとしても、クラリスがノアの身を心配せずにいられるはずがなかった。
「だから、僕のことは心配しなくていいんだよ」
「そんなの、無理に決まっているでしょう! どうして私が、ノアのことを心配しないでいられるの!?」
クラリスは、どこまでも淡々と自らの心配を制そうとするノアの態度がもどかしく、少し恨めしそうな表情で彼を見つめた。
「私が……どれだけノアのことが……好き――ううん!」
(好きなのに! こんなにも大切なのに!)
クラリスは、思わず感情の衝動に任せてこぼれそうになった本物の告白の言葉を、寸前で唇を強く噛んで飲み込んだ。そして、いつの間にか頬を伝ってこぼれ落ちていた冷たい涙を、凍える指先で乱暴に拭った。
「……いま、何て言ったんだ?」
ノアの声音が、わずかに震えた。
「ノ、ノアはね、すっごく、すっごく大切な『いい友達』だから、だから心配してるって言ったの!」
「……ああ、そうか」
彼は誤魔化すように、少しだけ顔を背けた。けれど、白い仮面の向こう側で、見えていないはずの彼の耳の付け根が、夕焼けのようにわずかに赤く染まっているのを、クラリスの目は見逃さなかった。
「僕がついに、本格的に正気を失い始めたのは間違いないな……。そ、その……あんな緊迫した状況で、都合のいい幻聴まで聞こえるなんて」
――幻聴。
……いいえ、違った。私は確かに、あなたのことが――。
けれど、明日の命すら分からない未来のないこの状況で、そんな無責任な言葉を口にするのが、なぜかどうしようもなく嫌だった。だから、クラリスは彼のその切ない誤解を、あえて正すことができなかった。
「とにかく、もう行ったほうがいい。そろそろマクラッド卿も、出発の準備を終えている頃だろう」
彼は、強く掴んでいた彼女の手を、今度は壊れ物を扱うように慎重に離した。
彼の手が離れた瞬間のその空間が、ひどく寒々しく、空虚に感じられた。
一歩、また一歩と、前線へ向かって先に進んでいくノアの引き締まった背中を、クラリスは呆然と見つめていた。二人の距離が少しずつ、致命的に広がっていくのを感じていたそのとき――。
胸の奥底から怒涛のように込み上げてくる本当の想いを、彼女はもう、限界まで抑えきれなくなった。
クラリスはドレスの裾を翻して駆け出し、彼の背中に飛びついた。
「……少女!? な、なにを――」
驚いて振り返ろうとした彼の言葉を待つこともできず、クラリスはその細い腰に必死に腕を回し、後ろから強く、強く抱きついてしまった。
「……好き。ほんとうに、大好きなの」
彼の背中越しに、速く打つ心臓の鼓動が聞こえるほど近くで、そう静かに囁きながら。
けれど、身を寄せるようにして、ひとり胸の内でだけ囁いたその決定的な言葉は、決して彼の耳に届く仕様にはなっていない。だからクラリスは、あまりの切なさに大声で叫んでしまいそうになる想いを必死に押し殺しながら、彼の背中にもう一度だけ、声にならない告白を告げた。
「……本当に、あまり無理をしないでくださいね」
ノアは深く、深く愛おしそうにため息をつくと、ゆっくりと振り返り、ついにその大きな両腕でクラリスの頭を優しく、ぎゅっと自らの胸へと抱き寄せた。
「もう……僕が君に、すっかり骨抜きにされて惚れ込んでいることも、とうに分かっているだろう?」
クラリスは、その言葉にぱっと視界が明るくなったような顔で、腕の中からノアを見上げた。正直に言えば、最近のノアの態度を見て、彼の気持ちはもう自分から冷めてしまったのではないかと……一人で夜中に悩んでいた時期もあったのだから。
「もちろん、こんな非常事態だからね、君のその優しい抱擁を一つ一つ勘違いしたりはしないさ。うちの少女は、大切な友だちを心から思いやれる、誰よりも心の優しい人だって、僕はちゃんと知っているからね」
(――たまには都合よく勘違いしなさいよ、この大馬鹿で鈍感な魔法使い!)
クラリスはそう心の中で激しく毒づきながら、再び愛おしさが込み上げ、彼の――その硬い胸元を小さな拳で、こん、と可愛らしく叩いた。
なぜか、今のノアの優しい気持ちが、痛いほど分かってしまった。結局のところ、すべてのすれ違いの問題は――自分の本当の、一番大切な本心を、プライドや恐怖のせいきちんと口にできない、自分自身にあるのだと分かっていながら。
「少女は、永遠に僕の、生涯最初の特別な友だ」
「…………」
「……それから、クラリス」
ノアは深く身を屈めると、彼女のおさげ髪に触れるほどの近さで、クラリスの耳元へ顔を寄せた。仮面の奥で、彼の唇がわずかに動く吐息の音が聞こえるほどの近さだった。
低く、とろけるような美しい囁き声が、彼女の鼓膜へと落ちてくる。
「――好きだよ、クラリス」
それは、少し前に彼女が彼の心臓の音に向けて囁いた言葉と、まったく同じ、狂おしいほどの響きを持っていた。
だからだろうか――クラリスは、自分の今の一世一代の告白に対する、彼からの最高の返事を聞くことができたのだと、幸せな錯覚に囚われてしまった。
指先にぎゅっと愛おしい力がこもり、彼女は言葉の代わりに、思わずもう少しだけ強く、彼の温かい身体を抱きしめ返すのだった。
セリデンの本邸へ向けて避難するための、領民たちの馬車や荷車の列は、遥か地平線の先まで長く、遅々と続いていた。
あまりにもゆっくりとしか進まない馬車の速度にもどかしさを覚え、体力のある若者たちの中には、いっそ馬車を降りて自分の足で歩くことを選ぶ者も少なくなかった。
ひゅっと、クラリスは息をのんだ。
彼女は移動中、何度もハッとしたように顔を上げた。風の通り抜ける気配の中に、わずかに血なまぐさい、戦場の臭いが混じって流れてきたような気がしたのだ。
「クラリス、大丈夫?」
隣に座っていたユジェニーが、彼女の顔色の悪さに気づき、そっと小さな手を握ってくれた。
「……ありがとう、ユジェニー」
「座り心地、悪くない? 私は昔からこういう安物の固い荷台には慣れてるけど、貴族の魔導士様には少し酷じゃないかしら」
ユジェニーは茶目っ気たっぷりに肩をすくめて笑った。
二人は今、避難馬車の最後部に取り付けられた、荷物置きを兼ねた小さな簡易座席に、並んで腰掛けていた。クッションの効いた楽な馬車の内部の席は、すべて体のお不自由な老人や、小さな子どもたちに真っ先に譲ってきたのだった。
「ええ、まったく問題ありません。これくらい、なんともないわ」
クラリスが答えた、その直後だった。長く続いていた馬車の列が、ガタリと音を立てて前行から完全に停止した。
何事かと細い首を伸ばし、クラリスは馬車の前方の様子を覗き込んだ。
前方では、見事な軍馬にまたがった王国の正規騎士たちが、避難民の荷車や馬車を、強引に道の端へと誘導している最中だった。
「おい、もう王都からの援軍が来てくれたのか!?」
避難民の中から、誰かが弾んだ希望の声を上げ、続いて周囲から一斉に安堵のため息が漏れた。
「間違いない! 国王陛下と我がマクシミリアン公爵様のご寵愛は、やはり噂通りに深いらしい。私たちのために、これほど早く軍を動かしてくださるなんて!」
期待に満ちた民衆の声が、波のように次第に高まっていった。王城の精鋭兵がここに合流してくれれば、北の城壁から迫り来る魔物の大群など、すぐに残さず打ち払われる――民の誰もが、そう信じて疑わなかった。
あちこちで歓声と、王家への万歳の声が連なり、やがて小高い丘の向こうから、きらびやかな王家を象徴する大旗が翻った。
「……バレンタイン王子ですね、きっと」
クラリスは、以前セリデンの本邸で目にした彼の美しい紋章を思い出し、わずかに顔を曇らせた。
(もしかするとバレンタイン殿下は、王都へ向かう途中で北の城壁の危機の知らせを聞き、急いで私たちを助けるために引き返してきてくれたのかもしれない)
そう思うと、彼の優しさが涙が出るほどありがたくもあったが、あの凄惨な修羅場へと、戦闘の専門ではないバレンタインまでもが過酷な戦いに赴くのだと思うと、どうしても胸の不安が募った。
人々の大歓声が天を突くほどに高まる。
クラリスはバレンタインの姿をいち早く見つけようと、さらに爪先立ちになって背伸びをした。
しかし。
彼女の抱いた淡い期待は、次の瞬間に残酷に裏切られることとなった。
「――偉大なるセフィスの主、ライセンダー・セフィス殿下に礼を捧げよ!」
先頭に立つ近衛騎士の威圧的な号令に、民衆は驚き、慌ててその場に頭を垂れながらも、さらなる称賛の声を上げた。
「ライセンダー殿下、万歳!」
「偉大なるセフィスの正統なる王、万歳!」
だが、隊列の最前列で白馬を猛烈に駆るライセンダーは、自分に向かって必死に手を振る哀れな避難民たちに一瞥もくれぬまま、ただ一点だけを見つめ、セリデンの前線へ向かって全速力で駆け抜けていった。
その冷酷な横顔は、まるで――すでに何かの恐ろしい結末を冷徹に見据えてしまった者のようだった。
呼吸の数を忘れてしまうほどの不吉な不安が、じわりとクラリスの全身を包み込んだ。彼女はゴーレムマスターとしての本能で、直感的に悟っていた。
あのライセンダーは、決して魔物と正当に戦うためにこの地へ来たのではない。むしろ、北の城壁が崩壊するというこの未曾有の混乱そのものを、自らの血塗られた目的のために利用するつもりなのだ。
そして、もしかすると――過去の王宮の闇に、さらに別の都合のいい嘘を塗り重ねるつもりなのだろう。
[クラリス! 危ない、戻れ!]
その瞬間、彼女の懐から引っ張り出された、鮮やかな緑色の宝石が、精神の底から真っ直ぐ彼女に向かって叫ぶように呼びかけてきた。
その宝石の中に宿る彼が、一体何を言おうとしているのか、クラリスにも痛いほど分かっていた。
「分かってるわ、バレンタイン王子殿下は……」
あのライセンダーという男は、どんな国家の事態になろうとも、自分の子飼いの騎士や兵を、民のために前面に押し出して戦わせるような高潔な真似は絶対にしない。己の本当の歪んだ出自とは無関係に、手に入れた“王子”という絶対的な地位そのものを、異様なほど、病的なまでに大切にしている――だからこそ、この混乱を利用するのだ。
だが、先ほど通り過ぎた王家の猛烈な隊列の中に、肝心のバレンタインの姿はどこにもなかった。
「――ごめんなさい、ユジェニー! 私、行かなきゃ!」
クラリスは驚くユジェニーに慌てて謝ると、止まっていた馬車の荷台から、地面へと勢いよく飛び降りた。
彼女は、避難する人々の長い行列の流れとは完全に真逆の方向――すなわち、ノアとマクシミリアンが待つ、あの死地へと向かって走り出した。
もちろん、彼女の細く不器用な脚の速さでは、先ほど馬に乗って走り去った騎士や、駆ける兵士たちの速度には到底及ばなかった。
それでも彼女は、周囲に避難する人々の姿が完全に視界に入らなくなる地点まで、必死に息を切らして走り続け、そしてポケットからマランの石を呼び出し、大地を走らせた。
眩い黄金の魔力の光に包まれたマランは、やがて頑強な成人男性ほどの背丈にまで一瞬で成長し、クラリスをその広い、安心できる背中の上へと乗せた。
『そんなに前線へ近づかなくても、俺たちが蹴散らしてやる。まだ、お前のような優しい奴を、あの血臭い戦いに巻き込みたくはないからな』
マランは頼もしく首を振ると、大地を割るような猛スピードで前線へと駆け出した。
まるで、馬に乗っているかのように見えていた遥か地平線との物理的な距離が、みるみるうちに縮まっていく。
クラリスは正面から叩きつけられる激しい暴風を全身に受けながら、まだ何も見えない、けれど確実に破滅の足音が迫る不気味な森の奥を、ただじっと、強い覚悟を宿した瞳で見据えていた。