公爵邸の囚われ王女様

公爵邸の囚われ王女様【164話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【公爵邸の囚われ王女様】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介となって...

 




 

164話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 真実への足跡

マランがクラリスを降ろしたのは、北へと続く獣道の脇にある、小さな沢のほとりだった。

いつの間にか小さな姿へと戻ったマランは、彼女の掌に軽やかに飛び乗る。

「コォ。」

騎士たちが馬に水を与えている――そんな知らせとともに。

「ありがとう。」

クラリスはマランの表面にそっと口づけを落とすと、絡み合う木々の間を慎重に抜けていった。

ほどなく、疲労の色を隠しきれない騎士団の兵たちが見えてくる。

この猛暑の中、全速力で駆け続けたのだ。体力が削られるのも無理はなかった。

誰かが調理をしているのだろう。火にかけられた肉の、香ばしい匂いが漂ってくる。

北へと急行していたライセンダーの騎士団――その一団は、確かにこの場所で足を止めていた。

外から見れば、夜になるまで無我夢中で走り続けそうにも見えたが、どうやら一時的に休憩を取っているようだった。

「どうして、そんなことをなさるんです? 私たちとは、身分が違うというのに」

ほどなくして、どこからか舌打ちするような声が聞こえてきた。

「あなたたちは、王子殿下の騎士ではないのですか?」

「いい加減にして、先に王都へ向かいなさい。静かについて来なさい。誰かが命を落とす場面を見たいわけではないでしょう」

慎重に歩みを進めていくと、年老いた侍従が騎士たちに何かを執拗に問い詰めているのが見えた。それは、バレンタインの屋敷で何度か顔を合わせた、まさにあの侍従だった。

騎士たちは困惑した表情で侍従を見やり、やがて互いに合図を交わすと、火を起こしていた場所へと引き返していった。

「あ……」

ひとり残された侍従は、舌打ちをして頭を振ると、すぐに水場へと戻っていった。その手には、ずっしりとした革製の水筒が握られている。

「無礼な連中め……王子殿下に、水ひとつ満足に差し出せないとは」

「王子殿下は、どちらへ?」

背後からかけられた声に、彼は眉間に皺を寄せたまま吐き捨てるように答えた。

「知るか! 殿下への礼儀というものを、これっぽっちも分かっていない連中ばかりだ。このことを大王妃殿下がお知りになったら、あの筋肉馬鹿どもは全員――」

いつもの調子でまくし立てていた言葉が、ふと途切れた。

ようやく異変に気づいたらしい。水筒を抱えたまま、ゆっくりと振り返る。目を大きく見開いて。

「……あ、いや。き、君がどうして……」

「セリデンへ戻る道で、王子殿下の旗を見かけました」

「なっ……ああ、もう、本当に……!」

彼は頭を抱え、心底うんざりしたように声を上げた。だが同時に、彼の表情には彼女の登場を心から喜んでいるような色も滲んでいた。

「やはり、君が王子殿下のご恩を知らぬはずがないと思っていた!」

「バレンタイン王子殿下が、ご自身の旗を掲げた騎士団と共にいらっしゃらないはずがありませんからね」

「そうだ、その通りだ。だが……あの無礼極まりない連中は、王子殿下をどこへ連れて行ったというのだ?」

抑えきれない怒りを滲ませ、彼は乾いた手で拳を強く握りしめた。

「一体、何があったのですか?」

「……それがな」

勢いよく語り出そうとした侍従は、突然言葉を詰まらせた。今になってようやく、クラリスが部外者であることを思い出したのだろう。

「どうか話してください。王子殿下に水を差し出すことすらできないほどの事態であれば、ただ事ではありません」

ためらっていた侍従は、しばし周囲を警戒するように見回したあと、クラリスを近くの木の陰へと導いた。

「まあ……いずれにせよ、お前は殿下に害をなすような子ではない。だから、話しても構わんだろう」

彼はそう前置きしてから、バレンタインが北の城壁を離れたあ後の出来事を、簡潔に語り始めた。王都へ向かって移動していたバレンタインとその供の騎士たちは、道中でライセンダーの一団と遭遇したのだという。

「陛下が、急に王都の外へ出られたって?」

「そうだ。しかも、様子がどうにも妙でな」

王は三度も城壁の外へ足を運んだという。だが、そのたびに付き従った騎士は、せいぜい二名ほど。しかも、何が起きているのか問いただしたバレンタインに対し、王は一切の説明をせず、ただ騎士へ命じて――彼を馬車へ押し込ませた。

「それからだ。王が“後に続け”と合図したもんだから、下にいた騎士たちは理由も分からぬまま、ここまで付いてきた」

彼は首を横に振り、困惑を隠さなかった。

「いったい、何が目的なのか……さっぱり分からん。ただ、どうやら魔物が押し寄せている、という話は――」

「その件で北へ向かわれた、というわけではありませんよね。もしそうなら、騎士を二人だけ連れてお出かけになるはずがありませんから」

クラリスは、慌ただしく馬を走らせていたライセンダーの姿を思い出した。護衛も随行も十分に整えぬまま王城を飛び出してくるほど、彼には差し迫った使命があったのだろうか。

「そうだ。もしその程度のことなら、王子殿下がわざわざ出向かれる必要はなかった。正義感の強いバレンタイン王子なら、喜んで魔物退治に赴かれただろうからな」

「ええ。王子殿下がご心配なのです」

「そういうことか……なるほど。いや、違うな」

彼は、それ以上話すまいとするように手を振った。だが、じっと見つめるクラリスの視線に抗えず、再び口を開いた。

「侍従の間では、殿下が……あまりお体の具合がよろしくない、という噂がありまして。だから――……まあ、少しばかり言葉を選ばずに言うなら、だが」

彼は声を落とし、周囲を気にするようにして続けた。

「正気を……保っておられない、ということだ」

「……あ……」

クラリスは、かつてマクシミリアンが口にした言葉を思い出していた。

――私は、これ以上目を背けないと決めた。たとえ、今この瞬間もライセンダーが危機に晒されていようとも。

もしかすると、ライセンダーの心は、とうに取り返しのつかないほど壊れてしまっているのではないか。そんな考えが、胸をよぎる。

「いずれにせよ、この状況をセリデン公爵に伝えてこい。いいな?」

「え……?」

「そのために、あれこれと荷を持たせたんじゃないのか。馬はどこに繋いでいる? ともかく、兵たちはここで今夜は休むだろう。その間に急げ」

そう言うと彼は、クラリスの肩を軽く押しのけ、何事もなかったかのように兵士たちの輪の中へと戻っていった。まるで、先ほどの会話など存在しなかったかのように。

クラリスはすぐには動かず、木に背を預けたまま、もうしばらくその場で待つことにした。

「まだ、見つからない?」

実のところ、侍従と話す前に、クラリスはマランにバレンタインの行方を探ってほしいと頼んでいた。

待ち時間が少し長くなるうちに、森にはいつの間にか夜の闇が降りてきた。クラリスは大きな木に背をもたせたまま、ゆっくりと地面に座り込んだ。

そして、少し前の記憶を改めて掘り起こしてみる。

王宮で、ライセンダーと顔を合わせたときのことだ。これまでは、その記憶をただ「恐怖」として受け止めてきた。しかし、彼の精神が万全ではないという話を聞いてからは、これまで気づけなかった別の一面が、見えてきた気がした。

クラリスは、自分を締めつけていた手をほどき、静かに拳を握り直した。

『手が……痛むな』

そう呟いたときに浮かべていた、あの寂しげな微笑み。あれはいったい、何を意味していたのだろうか。

しかも彼は、その表情を自分に許してはいなかった。ほんの一瞬で感情を消し去り、クラリスを突き放すような冷酷な言葉で塗り潰してしまったほどに。

考えてみれば、一国の王女の死を、あそこまで切実に望むのは不自然だ。まるで、彼女の死そのものに、別の意味があるかのように。

――そして、それは……。

『マクシミリアン公爵様と、関係している』

そう確信した、その瞬間。

がさり。

すぐ近くで聞こえた物音に、クラリスははっとして、息を潜めながら身を起こした。

金属が擦れ合う、嫌な音。それに続いて、たいまつの炎が揺れ動く気配。周囲を警戒する騎士、あるいは兵士が、松明を掲げて辺りを見回しているのだろう。

彼らは警戒して周囲を窺う様子だった。もしかして、誰かに見張られていることに気づかれたのだろうか。

ざく、ざく。

足音が、さらに近づいてくる。

「殿下はどこにいらっしゃる? 本当に一人で逃げたというのか?」

「物騒なことを言うな。そんなことをしたら、お前も私も王妃殿下に首を刎ねられるぞ」

ちらりと見えた騎士たちは、王家の紋章を身につけていた。彼らは、ライセンダーと共に現れた騎士たちなのだろう。

クラリスは周囲を見回したが、気づかれずに移動できそうな道は見当たらなかった。彼女は鞄から、赤い石を取り出した。ノアの身体から分け与えられた石だ。そっと口づけをすると、石はすぐに小さなゴーレムへと姿を変えた。

クラリスが何も言わないうちから、ゴーレムは彼女をひょいと抱え上げると、無言で一度だけ頷いた。

次の瞬間、音もなく跳躍したゴーレムは、クラリスのいた場所とは真逆の方向へ、地を裂くような勢いで駆け出す。

――ザザッ。

茂みを掻き分ける鋭い音。その異変に気づいた兵士たちが、慌ててその方向へと走り出した。

クラリスは周囲が静まり返るのを待ってから、湿り気を帯びた森の奥へ、慎重に足を踏み出した。どうやら、兵士たちが集まっている場所からは、もう少し距離を取ったほうがよさそうだ。

『……大丈夫』

そう自分に言い聞かせながら、震えそうになる心を必死に押さえつける。

たとえ、ここで誰かと鉢合わせになったとしても、言い訳はいくらでも用意できる。避難の途中ではぐれてしまい、道に迷っただけ――それで十分だ。今は戦闘の真っ最中というわけでもない。騎士たちが、武器も持たない一人の少女を、そう簡単に捕らえたりはしないはず。

……そう、信じるしかなかった。これ以上、事を荒立てて王のもとへ連れて行くわけにはいかない。

――きっと、何も起こらないはずだ。

そう思いながら大きな木を回り込もうとしたクラリスは、ふと足を止めた。突然、周囲の空間が一気に開けたような感覚に襲われたのだ。

そこは、森の中でも不思議なほど木の生えていない空き地だった。これまで木々に遮られて見えなかった月明かりが、草の上へ淡く、そしてはっきりと降り注いでいる。

その中央に、一人の人物が立っていた。

ライセンダーだった。

逃げなければならないことは、分かっていた。それでもクラリスは、虚ろな目で宙を見上げる彼の、どこか寂しげな横顔から、目を離すことができなかった。彼はいつも恐怖を振りまく存在だったが、今の彼は、まるで別人のように見えた。だからといって、その姿がまったくの別人だと言い切れるかといえば、そうでもなかった。

『ライセンダーは……本当に、優しい子だった。虫一匹の命すら尊び、夏の庭園では足元の草花を踏むまいと、つま先立ちで歩き回っていたほどに』

今のライセンダーは、まるで――マクシミリアンが記憶している、あの頃の姿そのままに見えた。

さあ……。

湿った風が吹き抜け、木々と草葉をかすかに揺らす。その風の流れに導かれるように、ライセンダーはクラリスがいるはずの場所へと視線を向けた。

「兄さん?」

一瞬、純粋な喜びを帯びた声で、彼は呼びかけた。

だが当然、クラリスから返事があるはずもない。まだ彼女は、木陰の奥に身を潜めている。そのためライセンダーは、期待と戸惑いが入り混じった眼差しで、しばらく同じ場所を見つめ続けた。

しかし、闇に目が慣れていくにつれ――そこにあるのが、彼の求める“その人”のシルエットではないと悟った瞬間。

「……なんだよ」

低く、困惑を滲ませた声が、森の静寂に溶けていった。彼は、彼女がよく知っているライセンダーの姿へと戻っていた。

「兄上の可愛い小さな侍女が、どうしてこんなところにいるんだい?」

彼は大きな歩幅で、彼女の前へと近づいてきた。距離が縮まるにつれ、彼の瞳に宿る不気味な光がはっきりと見え、クラリスの胸は嫌な予感に締めつけられる。

「……ああ、僕の弟のせいかな?」

あっという間に目の前まで来た彼は、深く腰を落として視線を合わせた。間近で見るその顔は、ほとんど別人のようだった。かつては、この世で最も美しい男だと称えられていたというのに……。今では目の下は濃くくま取りされ、肌もくすみ、生きている人間とは思えないほどだった。

「まあ、王子を捕まえて隣にいさえすれば、少しは生き延びる可能性もあるだろう。何より、お前に惚れて正気を失っている男を一人救うくらい、そう難しいことでもないだろ?」

彼は、どうにかしてクラリスの心を和らげようとしているようだったが、なぜか――その姿は、見ているこちらの胸まで痛ませた。

クラリスは、マクシミリアンがなぜこれほどまでにライセンダーを気に掛けてきたのか、ほんの少しだけ理解できた気がした。彼はきっと、自分自身を何度も傷つけなければ、生きていられない人なのだ。罪悪感という刃を、繰り返し自分に突き立てながら。

「陛下……もう、やめてください。痛……いじゃないですか」

純粋な心配から零れた言葉に、彼は一瞬、片目を伏せ、まぶたがわずかに震えた。

「公爵様は……」

もう一度、勇気を振り絞って口にしたその声は、先ほどよりも、切実さを帯びていた。

クラリスは悟った。彼が、本当に長い間、マクシミリアンを待ち続けていたのだということを。

「ずっと……陛下のこと、心配していました」

その言葉に、感情を失っていたはずの彼の顔に、初めて、はっきりとした血の気が差した。

――怒りにも、動揺にも似た色。

だが、それはほんの一瞬だった。彼はすぐに、そんな自分を戒めるように、はっとした様子で視線を逸らし、慌てて表情を引き締めた。感情を見せることそのものが、彼にとっては「してはならない過ち」なのだと言わんばかりに。

「戯言はやめろ!」

「本当のことです」

「はっ、真実だと?」

彼は片手でクラリスの胸ぐらをつかんだ。だが、袖口から覗く彼女の細い腕では、彼女を思うように引き寄せることすらできなかった。

「公爵にとって、真実など何の価値もない!」

「…………」

「俺を心配しているだと? そりゃそうだろうさ! 俺は……俺を……地獄に突き落として、一人で生きろと言って去っていったんだからな!」

「その日のことを、後悔しているとおっしゃっていました」

「違う。嘘だ」

彼は再び激しく首を振った。ひどく怯えているようにも見えた。

「そんなはずがない。あの人は俺を捨てた。こんな愚か者が王位に就く姿を見るくらいなら、北の魔物と一緒に生きる方がましだと思ったに違いない!」

「殿下が治めていらっしゃる土地を、安全に――……君のためだ」

「うるさい!」

ライセンダーは、彼女の手を掴んだまま強く振った。けれど力が入らなかったのだろう。引き寄せられたのは、掴まれていた袖口がわずかに乱れただけだった。

「お、俺がどれだけ――どれだけ我慢してきたと思ってるんだ! 兄さん……いや、公爵が幸せそうにしてるのを、俺が見逃してるとでも思ったのか!?」

感情が堰を切ったように溢れ出し、その勢いのまま彼は言葉を吐き出した。だが、不意に何かに気づいたように、ライセンダーは言葉を止め、じっとクラリスを見つめた。

「……そうか」

「……?」

「兄さんに、何か持っていけばいいんだな」

思いついた瞬間のようにそう言うと、彼はクラリスの手を離し、何度も頷いた。まるで自分の考えに感心したかのように。

「手ぶらで会いに行くなんて、礼を欠く。兄さんが好きなものを持っていけば……きっと喜ぶ。そうだろ?」

意味ありげに目を細めて問いかけるその視線に、クラリスは、言葉を返すことができなかった。彼の中で何かが、――少しずつ、だが確実に、危うい方向へ傾き始めているのを感じ取っていたからだ。

シュッ。

彼は長剣を抜き放った。

「可愛い侍女の首を持ち帰れば、俺を少しは見直してくれるだろう」

「それに……殿下は、さらに深く傷つくことになります」

「お前に何が分かる!」

彼は長い腕を振りかざし、クラリスに向かって剣を真っすぐ突き出した。王族として相応の剣の扱いは身についているようだったが、その動きはどこか危なっかしい。クラリスがわずかに身を引くだけで、容易にかわせるほどだった。

彼は剣の重さに振り回されているかのようにふらつき、腕を十分に伸ばすこともできず、彼女の速さについてこれなかった。

「兄上の愛を受けてきたくせに!」

それでも彼は諦めず、再びクラリスへ剣を振り下ろす。

「それは俺のものだった! 俺が……俺が受け取るはずだったのに……!」

今度は、正確に彼女の頭上を狙って剣が振り下ろされた。

刃が迫るその瞬間、クラリスは身を沈めてそれをかわす。切り揃えられた剣先に、髪の毛が数本だけ切り取られ、宙を舞った。

やがて剣は近くの木に深々と突き刺さり、ライセンダーは驚きのあまり、思わず剣を手放した。

「お、お前! どこでそんなものを学んだ!? なあ!?」

斜めに木へ突き立っていた剣は、力なく抜け落ち、地面に音を立てて転がった。

「公爵は正気か!? 罪人にあんな真似をするなんて! 本気で生かすつもりだったとでも言うのか!」

激昂して詰め寄った彼は、今度はクラリスの襟元をつかみ上げた。

「俺が行って、全員殺してやる」

「……うっ……!」

「シシィもお前も、そして兄上まで……」

しかし、勢いよく始まったその脅しは、ほどなく失速した。襟元をつかむその手から、次第に力が抜けていき、やがて小刻みに震え始める。

「……あ、あ……」

彼は、何かに怯えているかのようだった。

クラリスは、そっと彼の手首をつかんだ。袖口に付けられたカフスの装飾がかすかに揺れ、クラリスへと語りかけてくる。その宝石は、幾度となく持ち主の涙と向き合ってきた末に、ひとつの物語を伝えてきた。

【殿下は、何度もご自身を傷つけてまで消えてしまいたいと願っておられました。実行に移されたことはありませんでしたが……どうか、このか弱き方を救ってください】

クラリスは、改めてライセンダーを見つめた。彼が自ら命を絶てなかったのは、ただ心が弱かったからではないのだろう。むしろ――。

「……本当に、強いお方なのですね。殿下は」

遅れて訪れたその気づきに、クラリスは胸を締めつけられながら、静かにそう呟いた。

彼女は、彼の手の甲をそっと握った。震えるその手は、見ているだけで胸が痛むほど冷え切っていた。

「嘘の中で生き続けるのは、本当に耐えがたいことです。そんな場所では、誰だって簡単に壊れてしまうでしょう」

それでも、ライセンダーは十年以上もの年月を生き抜いてきた。決して好きとは言えない立場で、望んでもいない偽りの栄光を背負わされ、終わりのない疲労に苛まれながら。

「殿下は……死を選び、その凄惨な苦しみから逃げ出すこともできたはずです。けれど、決してそうなさいませんでした」

クラリスは、彼の手を握る力を少しだけ強めた。

「……もし自ら死んで消えてしまえば、母上はどんな手を使ってでもセリデン公爵様を、そしてあなたが心から愛していないご兄弟を、殺してしまうでしょうから」

「……!」

「あ……本当に。公爵様のお言葉は、その通りです」

逃げようとする彼の手を、クラリスは強くつかみ、むしろ自分の方へと引き寄せた。

「殿下は、とてもお優しい方でした」

そう言って彼女は、冷え切った彼の手に自分の頬をそっと寄せ、慰めるような温もりを伝えた。

「ば、馬鹿なことを言うな!」

「でも、殿下が兄君のことを心配して、命を絶たずに踏みとどまっていたのは事実でしょう?」

真正面から見つめて問いかけられ、彼は、

「……あ……」

と、かすれた声を漏らしたまま、唇を噛みしめた。

「かつて公爵様が王都を去られたのも、真実が明るみに出れば、殿下が危険にさらされると恐れたからなんです」

「……もう、やめろ」

「お二人は、本当は互いを守りたかっただけなんです。それだけの想いだったんですよ」

「やめろと言っている!」

彼は乱暴に手を振りほどき、少し前に地面へ落とした剣を慌てて拾い上げた。震える指で剣を握りしめた彼は、クラリスを――乾いた笑みを浮かべて見つめた。

「それでどうした? もう全部終わったって言うのか!」

「いいえ、違います」

「俺は役立たずの屑として、年だけを重ね、結局は狂い落ちた。そして、この先に残された未来は……死しかない」

彼は、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「母上が、なぜ俺をここへ送ったのか、わかっているか? 正気を失った俺が振り下ろす刃で、兄上が喜んで心臓を差し出すとでも思ったのだろう」

「……殿下」

「そして兄上を殺した後の俺が……喜んで自ら命を絶つことも、母上はすべて承知の上だったはずだ。それが……俺に残された最後の役目というわけだ」

そうなれば、唯一の王位継承者はバレンタインとなる。だが彼は、まだ成人には達していない。

――そのため、摂政という名目のもと、アメルダは今以上に大きな権力をその手に収めることになる。

「もう……すべて終わった……」

彼は全身の力を失ったように、がくりと身を投げ出した。

「過去に戻れたら、どれほどよかっただろう……。もし、それが叶うのなら……」

夢を見ているかのように呟きながら、彼はそっと目を閉じた。

――今、彼はどの時間を思い描いているのだろう。きっと、マクシミリアンと共に穏やかに過ごしていた、あの頃ではないか。唇の端に浮かんだ淡い微笑が、それを物語っていた。

「……時間は、巻き戻せません。殿下」

クラリスは、彼へ向かって一歩踏み出した。わずかに驚いた彼は、反射的に剣先を持ち上げ、彼女を牽制する。

「その必要はありません。真実は、いずれすべてを正しい形に戻してくれますから」

それでもクラリスは歩みを止めなかった。鋭い剣先が、少しずつ後方へと押し戻されていく。やがて彼の目前まで辿り着いたクラリスは、まっすぐ彼を見据えて、静かに告げた。

「私が、その真実を探し出します」

そう口にした瞬間、クラリスは一つの答えに辿り着いた。

(ああ、そういうこと……真実が必要な六人が揃うまで、保存魔法を維持しなければならない、というわけね)

その六人のうち、五人まではほぼ確信していた。マクシミリアン、バレンタイン、ユジェニ、ノア、そしてクラリス。

残る一人が誰なのかだけは、これまでどうしても判然としなかった。

――だが、今なら分かる。

「真実……か?」

その言葉を口にしたライセンダーの表情には、かすかな憧憬が滲んでいた。

同時に、大きく「コオ」と鳴き声を上げるマロンが、クラリスの肩へと飛び乗る。反対側の肩には、赤いゴーレムが軽やかに跳ね上がった。

 



 

 

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