こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
82話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 陰鬱な最奥での再会
公爵城に滞在していたのはほんの短い間だったはずなのに、ユリアにはまるで何年もの歳月が流れたかのような錯覚を覚えていた。
いつもより深く、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように息をついたユリアの前に、誰かが静かに立っているのが見えた。見慣れた、だがこの陰鬱な場所に最も不釣り合いな高貴な輪郭。
「ユリア」
陽光を受けて美しく輝く金髪。遠くからでも一目でそれと分かる広い肩幅と、均整の取れた高い背丈。
ユリアが瞬時に相手を見分けられたのは、別に彼に対して特別な感情を抱いていたからではない。ただ、その男――エノク皇太子は、どこにいようとも嫌でも周囲の目を引いてしまう、規格外の容姿をしていたからだ。
「皇太子殿下……? どうしてここに……」
「ちょうど近くに来ていてね。君がここに向かったと耳にしたから」
優しい声音でユリアを呼び止めたエノクは、それ以上の余計な言い訳を重ねようとはしなかった。ただでさえ疲弊しているユリアに、これ以上の気遣いという名の負担をかけたくない――そんな彼の無言の優しさが、痛いほど伝わってくる。
深い緑色の瞳が、じっとユリアの姿だけを映し出していた。感情を押し殺したような無表情、血の気がないほど白く透き通った肌。人らしい温かみをあえて排除したようなその佇まいは、周囲を拒絶しているようでもあった。
「ユリアが、またここでつらい思いをしたんじゃないかと心配だったんだ」
「……私は大丈夫です」
返事はすぐに口から出た。そう、本当に大丈夫だったのだ。だが、それこそが歪な問題だった。
「ジキセンお兄様の……脚が、魔物に切り落とされたんです」
乾ききった声が、自分の口から零れ落ちる。実の兄が戦場で重傷を負い、今も激痛に苦しんでいるというのに、ユリアの心は凪いだ海のように何も感じていなかった。傍から見れば、血も涙もない異常な人間だと思われても仕方がないだろう。特に、妹想いで知られるこのエノク皇太子の前なら、なおさらだ。
――少しくらいは、悲しそうな顔を作ったほうがいいのだろうか。
どれだけ嫌っていた相手であっても、実際に破滅した姿を目にすれば気分が悪くなるものだ、と普通の人間なら思うはずだ。けれど、ユリアにはどうしてもそう思えなかった。
「プリムローズ公爵は、私ならあの切り落とされた脚を治せるかもしれないと思って呼んだのです。それ以外は、特に何もありませんでした」
大層な騒動があったわけではない。ただ、かつて絶対権力者だった父親が、プライドを捨ててユリアに「元通りにできないか」と必死に縋りついてきただけだ。どうせ他の誰かに治療を丸投げするのだろうと思っていたのに、まさか自分に直接頼み込んでくるとは思わなかった。
――お願いだ、ユリア。他の誰でもない、お前の実の兄なんだ。
あの公爵の言葉は、それなりに切実な響きを含んでいたのだろう。イバフネ教の“聖女”とまで呼ばれたリリカですら、救うことができなかったのだから。
「……父は言っていました。“今、信じられるのはお前だけだ”と。でも私は、少し時間が欲しいとだけ告げて、あの部屋を後にしたのです」
ユリアの手首を掴んできた、あの老いた父親のすさまじい熱。縋るような哀れな感触。幼い頃は、そんなふうに父に甘えられるだけで、世界が輝いて見えた気もする。けれど今のユリアの胸に去来するのは、凍りついた乾いた笑いだけだった。
――ジキセンがいなければ、プリムローズ公爵家は後継者を失って終わる。
――でも、だから何だと言うのです? 私はもう、とうの昔に“プリムローズ”の人間ではないのに。
公爵は、最後の希望の光に縋るようだった。ジキセンの部屋を公爵城の暗い最奥へ移した後も、周囲の警備や魔術環境を細かく確認していたのが印象に残っている。ジキセンの事故以来、あの男はずっと張り詰めていたのだろう。やつれ果てた顔と、眠れていないのが一目でわかるほど赤く充血した目を見ていると、嫌でもそんな事実を察してしまう。
リリカのように露骨に甘えて愛情を示さずとも、結局、ジキセンはあの男にとって、世界でたった一人の後継者だったのだ。自分のすべてを継がせるべき、たった一つの誇り。
ユリアは、冬の舞踏会での出来事を思い出していた。一度家を飛び出し、他人のようになって再回した娘に対し、妙に他人行儀で、それでいて傲慢だったプリムローズ公爵の姿を。
――この父親に向かって、お前は最後まで“公爵様”などと他人行儀に呼ぶつもりか。
――だが、お前がどれだけ拒絶したところで血の繋がりは変わるものではない。家族という縁は、お前が嫌だと言って簡単に断ち切れるほど軽いものではないんだ。
あの時の公爵は、むしろ後継者としての価値(ユネト)が増えた娘を見て、内心では喜んでさえいた。家を追い出した際にはユリアの悪評が広まるよう裏で手を回していたくせに、今さら父親面をする。彼女の身を心配していたというより、ただ思い通りにならない娘への不快感と怒りをぶつけていただけだったのだ。
――もし私が、大陸に轟くユネト商会の代表じゃなかったら、あなたたちは見向きもしなかったくせに。
望むものを何でも与えられ、リリカに甘やかされて育ったジキセン。爵位も家門も、与えられるすべてを当然の権利として受け取ってきた。対してユリアには、プリムローズ公爵から無償で与えられたものなど、何一つとしてなかった。
「ユリア、本当に大丈夫か?」
エノクの静かな声に、ユリアは思考の海から引き揚げられた。
もう傷は十分に抉られ、これ以上痛みようもないほどに麻痺してしまっていた。
『大丈夫です』と微笑んで答えたところで、この人は何をしてくれるのだろうか。ユリアはふと、自分がエノクにとっては「人助けが好きな、少し変わったお嬢さん」程度に映っていたのだと思い出した。より多くの人に、安価で確実な薬や化粧品を届けたい――そんな前世の知識に基づいた大義名分を、彼に何度も熱心に語っていたのだから。
他人の心配ばかりして、自分の傷には妙なほど無頓着な人。
そう心の中で呟きながら、ユリアはエノクに軽く頷いてみせた。すると、エノクの広い肩からふっと張り詰めた力が抜け、いつものように柔らかな、包み込むような笑みを浮かべた。
「君が無事だったなら、それで本当によかった」
「……本当に“よかった”のかどうかは、少し微妙ですけどね」
「え?」
「どれだけ完璧に縁を切ったつもりでも、かつて“お兄様”って呼んでいた相手があんなふうに無残に壊れると……やっぱり、少しは気分が悪いものなんですよ」
エノクの隣を歩きながら、ユリアは胸の奥に押し込めていた本音を、ぽろりと零した。
「エリクサーを使えば、もしかしたらジキセンの脚を完全に元に戻せるかもしれません。ダニエル錬金術師が作った、世界に数本しかない貴重な秘薬ですから。……でも私は、その貴重な薬を、あんな男のために使いたいとは、どうしても思えないんです」
エノク皇太子は、ユリアが前世で実の家族に冷酷に殺された事実など知らない。だから、この冷酷な突き放しは理解されないかもしれない。過去の凄惨な記憶をすべて打ち明ければ違うのだろうが、ユリアにはまだ、そこまで彼にさらけ出す勇気はなかった。
――血も涙もない、気味が悪い女だと思われても仕方がない。
そう覚悟して彼の返答を待っていると、意外にも、エノクの表情はどこまでも静かで、深く落ち着いていた。
「……それでいいと思います。ユリア」
非難の色も、戸惑いの陰りすらもない声だった。その絶対的な肯定の穏やかさに、ユリアは思わず足を止め、丸く目を見開いた。
「君の複雑な事情は僕にはわからない。ですが、君を何度も傷つけた者たちのもとへ向かったと聞いて、生きた心地がしなかった。心でも身体でも、また君が傷つけられるんじゃないかと、それだけが怖かったんだ」
「殿下……」
「もし君が“もう十分に傷ついた、だから何もしてやりたくない”と思っているのなら、その決定で何一つ間違っていません」
ユリアは、自分の過去の恨みを細かく説明しなかった。「エリクサーを使いたくない」という、冷徹な結論だけを口にしたに過ぎない。それなのにエノクは、まるで彼女の魂の本質まで見透かしたかのように、ユリアが一番欲しかった言葉だけを静かに差し出してくれたのだ。
「……殿下は本当に、他の人のことはどうでもいいんですね。私以外は」
ユリアの肩が、驚きでぴくりと揺れた。そんな恐ろしいほどに甘く、偏愛に満ちた台詞を平然と言ってのけた当人は、まるで気にした様子もなく、そのまま自然な動作で彼女を高級馬車へと促した。
これ以上、公爵家の門前で暗い立ち話を続けるわけにもいかない。エノクに優しく急かされるようにして、ユリアは彼のエスコートに従い、馬車へと乗り込んだ。
揺れの極めて少ない最高級の馬車は、彼女が心地よいと感じる速度で、静かに公爵邸を離れて走り始めた。
流れる景色を眺めていると、対面に座るエノクが静かに口を開いた。
「……亡くなった、私の母と兄の話は聞いたことがありますか?」
ユリアは黙って頷いた。社交界にどれほど疎い人間であっても知っているほど、帝国ではあまりにも有名な悲劇だった。エノクの最高の後ろ盾であったジェリエル皇太子妃と、前皇太子ケンドレンの、あまりにも突然の不可解な死。その陰惨な事件で生き残ったのは、幼いエノク皇太子と、まだ物心もつかない妹のビビアンだけだった。
「私は、あの事件の本当の犯人を知っています。――私の実の父親です」
「……え?」
ユリアは思わず息を呑み、小さく声を漏らした。表向きには、不幸な馬車の転落事故として処理されていたはずだ。だが、真実は血塗られた身内の謀殺だったということなのか。
エノクは遠い過去の闇を見るように、視線を宙へと向けたまま、淡々と静かに続ける。
「長い間、その呪縛に苦しみました」
現皇帝ジェステラは、実の息子であるエノクを廃嫡同然に皇宮の最奥へと遠ざけ、代わりに都合の良い公爵家を後継者として指名しようと画策したという。エノクはその後の血生臭い出来事を簡潔に語ったが、ユリアは前世の知識から、彼が語らなかった別の真実も知っていた。
家族を理不尽に失った幼い少年に、皇宮という怪物たちの巣窟でどれほど過酷な責務と命の危機が押し付けられたのかを。そしてエノクが、それをただ一人で黙々と耐え抜いてきたということを。周囲が、彼のことを「冷酷で残酷な皇太子だ」と恐れをなして囁くほどに。
「……つらかったのは、当然です。殿下」
「そうでしょうか」
「その地獄をたった一人で耐え抜いたこと自体が、常軌を逸するほど凄いことです。普通の人なら、とっくに心が壊れて狂っていてもおかしくありません」
ユリアのまっすぐな言葉に、エノクはわずかに目元を和らげ、笑みを浮かべた。静まり返っていた彼の冷徹な表情に、ようやく柔らかな光のような感情が差し込んでいく。
「突然、こんな暗い昔話をしてしまって君を戸惑わせたかもしれない。ですが私は……あの絶望の淵にいた頃、君に少しだけ助けられたことに、どうしても今日、礼を言いたかったんだ」
「礼、ですか? 私は殿下の過去に、何も関わってはいませんが……」
「いいえ、ユリア。父の偽りの葬儀の日――あの日、僕は皇宮の片隅で、ある一人の子供に出会った。その子がかけてくれた言葉があったからこそ、僕は狂わずに耐えられたんだ」
「……え? でも、それがどうして私に繋がるのですか?」
「ユリア。あの時、暗闇の中で僕を静かに慰めてくれたのは――他ならぬ、君なんだよ」
開いた馬車の窓から、やわらかな春の風が吹き込んできた。かつて、ユリアの肌を凍らせるほどに冷たかったフィアスト帝国の冬の風も、今ではもう、あの頃の牙を完全に失っていた。
季節は巡る。どんなに長く、残酷な冬であっても、いつかは必ず終わりが来るのだ。
「私が……あの高貴な葬儀場で、幼い頃の殿下に出会っていたというのですか?」
「そうだ。あの時の君の、飾り気のない言葉が、僕にとって唯一の救いだった。あれがなければ、今の僕は存在しなかったかもしれないと、本気で思うほどにね」
その言葉を聞いた瞬間、ユリアの胸の奥底に、濁った水底から泡が浮かび上がるように、ぼんやりとした古い記憶の断片が浮かび上がってきた。
確かに、誰かに出会った気がする。誰もいない静かな回廊で、今にも世界に絶望して泣き出しそうな顔をした、綺麗な金髪の少年に。
だが、それが本当に過去の確固たる記憶なのか、それともエノクの美しい話から脳内が勝手に想像した都合の良い情景なのか――今のユリア自身には、どうしても明確な判別ができなかった。
「私、昔から誰かを上手に励ますような気の利いたことを言った覚えなんて、全くないんです。昔も今も、そういう風に人に寄り添うのは得意じゃなくて……」
今だって、エノクの壮絶な過去を特等席で聞きながら、ありきたりな慰め一つ言えない自分なのだ。ユリアはしばらく真剣に考え込み、ためらいがちに口を開いた。
「もしかしたら……私ではなく、別の心優しい令嬢だったという可能性はありませんか?」
「ははっ」
エノクの口から、思わず吹き出したような、少年のような笑い声が返ってきた。
「す、すみません、笑わないでください。でも、もし人違いだったらどうしようと思って……。私、自分でも全く覚えていないくらい昔のことなのに、そんな大層なお礼を言われるのって、なんだか落ち着かなくて」
エノクは肩を小刻みに震わせながら、本当に楽しそうに笑っていた。その穏やかな笑い声に、ユリアは今までプリムローズ公爵城で張り詰めていた心の枷が、少しずつ和らいでいくのを感じながら、困ったような顔で彼を見つめた。
時々、この完璧な皇太子は、本当に変なツボで笑う。けれどユリアには、彼がなぜそんなに嬉しそうにしているのか、理由がさっぱり分からなかった。
「はは……つまり、君は“僕の勘違いなんじゃないか”と言いたいわけだね?」
「だって、もしこれまで殿下が私に数々の親切をしてくださった理由がその思い出だったなら……殿下が致命的な勘違いをしている可能性もあるじゃないですか。だから、あんまり笑わないでください」
ユリアは少しむっとしたように、不満げに頬を膨らませて続けた。
「後になって、本当にお礼を言うべき本物の女の子が現れたらどうするんです? 私、そんな責任取れませんよ。これまで殿下からいただいた数々の好意だって、私にはまだ返しきれていないのに……」
「くっ……くく……」
エノクはとうとう堪えきれず、片手で顔を覆い、肩を激しく揺らしながら俯いてしまった。
「殿下?」
「……すみません。ただ、その頑なな言い方があまりにも君らしくて、愛おしかったんだ」
「今の会話のどこに笑う要素があったのですか? 正直に言うと、皇太子殿下ってたまにすごく変です」
真顔で、大真面目にそう言い放つユリアに対し、エノクはなおもしばらく心地よさそうに笑いを止められなかった。
ようやく笑いを収めたエノクは、まだ少し名残惜しそうな表情のまま、声音を落として静かにユリアへ話しかけた。
「先ほど、フリムローズ公爵家の話を僕にしてくれたね。ジキセンの足を治せる方法(エリクサー)があるかもしれない。でも、治したいとはどうしても思えない、と」
ユリアはなぜ急にその冷酷な話題に戻るのか分からなかったが、小さく頷いた。
「……はい。変な人間だと冷れ目で見られるかもしれませんけど、本当に、一滴も使いたくないんです」
血の繋がった家族を捨てて出てきたというのに、胸の奥には罪悪感など微塵もなく、妙なほどに清々しい解放感があった。あれほど彼らに執着され、利用されるほどの圧倒的な力を、自分が今持っていること自体が不快でならなかった。
長い間、本当に苦しかった。
――プリムローズを出れば、お前には何も残らない無価値なゴミだ。
そんな呪いの言葉を幼い頃から何度も父親に聞かされ、そのたびに完璧なリリカの存在に押し潰されそうになってきたのだ。役立たずどころか、一族の厄介者のように扱われ続けて――それでも今は、自分の力でユネト商会の代表として堂々と立っている。
「今まで、私が苦しんでいる時に見向きもしなかった人たちをすべて置いて出てきたのに……少しも後悔していない自分がいるんです」
ユリアはぽつりと、自分自身を確かめるように呟いた。
「家族だからって、必ず無条件に愛し合わなければいけないわけじゃありません。時には、赤の他人よりも遠く、憎み合う関係になることだってあります」
エノクの口元に、かすかな、だが深い共感を湛えた苦笑が浮かんでは消えた。
「僕がそう考えるようになったのは……“父親”という存在を、どうしても家族だと思えなかったからかもしれません」
エノクの口から出たその「父親」という言葉は、どこか冷たく、不自然に響いた。先ほど、自分の母と兄を殺した犯人だと語った時から感じていた違和感。エノクにとって「父親」という存在は、単なる遺伝子上の血縁以上の意味を、1ミリも持っていないのだろう。
だからこそ、今の彼の言葉は、ただ目の前のユリアを慰めるためだけの薄っぺらい綺麗事ではなく――彼自身が血塗られた皇宮の痛みの中で、戦って辿り着いた本音なのだと、ユリアはぼんやりと感じ取っていた。
以前のユリアなら、「エノク様は優しい人だから、傷ついた私を気遣って合わせてくれているだけだ」と一歩引いていたかもしれない。けれど、今は違った。今の言葉は、相手がユリアだったからこそ、彼が誰にも見せない魂の裏側をさらけ出してくれた本音なのだと、自然に分かったのだ。
「先ほどもお話しした通り、あの人は母と兄を事故に見せかけて、何のためらいもなく殺しました。……理由はただ一つ、自分の生み出した別の愛息を皇位の近くに置きたかったから。それだけのくだらない理由でね」
皮肉めいた冷徹な声音に、ユリアは思わず息を呑む。
「家族の温もりだなんて感じたこと、一度もありませんよ。思い出らしい思い出もない。たまに都合よく酒に酔って、気が向いた時に僕の頭を雑に撫でられたことがあるくらいで……それが、あの男との記憶のすべてでした。だからでしょうか。あの人が死んだという報せを聞いた時、私は少しも、涙一つ流せなかったんです」
エノクは静かに、どこか寂しげに目を伏せた。
「だから、ユリアに聞いてみたい。……実の父親の死を何とも思わないようなこんな私は、君から見て、血の通わない怪物でしょうか?」
「……そんなわけ、絶対にありません」
「そうですか? ですが僕も、父が死んだ時、何も感じなかった。……なのに、どうしてユリアは、自分自身には呪いのように厳しくあたるのに、僕に対しては、僕が一番欲しかった優しい言葉を言ってくれるんでしょうね」
その瞬間、ユリアの脳裏に、時間という砂に深く埋もれていたあの日の記憶が、鮮烈な色彩を伴ってふっと浮かび上がった。
――なら、殿下も怪物じゃありませんよ。
――え?
――妹が怪物じゃないなら、皇太子殿下だって怪物じゃないです。
そうだ。間違いない。あれは、亡き皇子の、あの重苦しい葬儀の日だった。
空は今にも涙を流しそうな黒い雲に覆われ、肌にまとわりつく湿った空気が漂っていた。今にも激しい雨が降り出しそうな空模様だったが、周囲に集まった貴族の大人たちは皆、仮面をかぶったような妙に乾いた表情を浮かべていた。
退屈だったのか、それともその重苦しい空気が嫌だったのか、あの日、幼いジキセンがやたらとユリアにしつこく絡んで、嫌がらせをしてきたのだ。ユリアは彼の隙を見て、人混みから静かに逃げ出した。
その皇宮の冷たい回廊の片隅で、彼女は一人の、うずくまる金髪の少年を見つけたのだ。
周囲の大人たちが感情を押し殺した醜い顔をしている中、その少年だけは、子供ながらに鮮烈で、気高い存在感を放っていた。感情を読み取れない嘘つきな大人たちとは違う。平静を装ってはいるが、傷つき、今にも大声で泣き出しそうな顔をしていた、あの少年――。
過去の記憶の旅から完全に意識を戻したユリアは、目の前に座る、立派に成長したエノクをじっと見つめた。
『前に、ユネトの街を案内した時……私が怪物の話をした途端に、彼が急に声を上げて笑い出したのは……そういう理由だったのね』
あの孤独な葬儀場で、絶望していた彼と出会った子供は、間違いなく自分だったのだ。
胸の奥の、最も柔らかい場所が、かすかに、温かく揺れる。ユリアは今になってようやく、その大切な出会いの記憶を思い出した自分自身に、少しだけ苦笑した。
彼女は、虐げられていた幼い頃の自分が好きではない。正確には、その頃の記憶を振り返ること自体が、拒絶反応を起こすほどに辛かったのだ。特にリリカがプリムローズ家に現れてからというもの、あの時期のユリアの精神は常に不安定だった。多感な年頃に、愛されるべき人生のすべてを理不尽にひっくり返されるような出来事が起きたのだから。
――実の妹には言えないような冷たい本音を、どうして、初対面の自分にはそんなに簡単に言えるんですか?
リリカばかりがフリムローズ公爵や兄の愛情を独占し、自分はどんどん小さく、価値のない居候のような存在になっていく。そんなふうに、自分の存在意義を見失いかけていた、暗黒の時期だった。
それなのに、何の役にも立たないと自分を責めていたあの頃の私が、知らないうちに、目の前の誰かに「生きるための力」を、確かに与えていたのだ。それは、他の誰でもない――目の前にいるエノク皇太子のことだった。
「殿下。今日、わざわざ危険を冒してまで公爵家まで私を迎えに来られた理由が、ようやく分かった気がします」
ユリアは、この重苦しい場にそぐわないほど、少女のようにはっきりと、軽やかな笑みを漏らした。
あの日の小さな出来事が、彼にとってそれほどまでに命を繋ぐ大切な救いだったからこそ。彼は皇宮の激務を放り出してここまで、長い道のりをわざわざ、ユリアの盾となるために訪ねてきてくれたのだ。
「幼い頃の私の、あの生意気な言葉が、ずっと殿下の孤独な心の慰めになっていたのですね」
幸い、あの頃の少年のように、今にも世界に絶望して泣き出しそうな顔はしていなかった。その代わりにエノクは、誰もが畏怖する、穏やかで落ち着いた完璧な大人の男性へと成長していた。
けれど、ユリアの前にいる時だけは、彼は相変わらず、彼女に嫌われないかと不安そうな少年の気配を、どうしても隠しきれずにいた。
「今の私、あの時の、傷ついていた殿下にそっくりですね」
照れたように、それでも愛おしそうに優しく笑うユリアを見て、エノクは彼女がすべての過去を思い出したことを、その緑の瞳を大きく揺らして察したようだった。
「……今度は僕が、君の確固たる慰めになりたかったんだ。ユリア」
静かな、確信に満ちた声が、春の暖かな日差しのように馬車の中に柔らかく降り注いだ。ユリアはきっと、この瞬間の彼の表情を、死ぬまで一生忘れないだろうと思った。
過去と現在が、今ここで美しく重なり合う。
かつてユリアの言葉に命を救われた少年が、今度は男として、その時以上の絶対的な肯定の言葉を、傷ついた彼女の元へと返してくれているのだ。
「もし今、ユリアが“実の家族の不幸を喜んでいる自分は怪物なんじゃないか”って、自分を責めて思い詰めているのなら……それが、何よりも心配だったんだ」
ユリアはその言葉を聞き、しばらく心地よい沈黙に身を委ねた。
「そうですね。あの日、殿下に偉そうな慰めの言葉をかけた私も、同じように、自分は無価値なんだという間違った思い込みをしていたみたいです」
そして少ししてから、肩の重荷が完全に取れたように、すっきりと微笑んだ。
「今の私は、驚くほど気分がいいんですよ。殿下」
前世の記憶に囚われ、彼らへの復讐を果たしたとしても、最後に残るのは虚しさだけだと思っていた時期もあった。しかし、実際にジキセンの破滅を目にしてみれば、まったくそんなことはなかった。むしろ、ユリアの胸を満たしたのは、暗い喜びとすさまじい高揚感だった。すべてを自分の手でやり遂げたという、圧倒的な充足感が、不思議なほどユリアの心と身体を温かく包み込んでいた。
ようやく、本当に分かった気がしたのだ。
そう、私はあの地獄のような公爵家の中で、誰かに本音を全部さらけ出して、認められたかったのだと。
ユリアにとっても、彼らとの過去の記憶のすべてが、恨みや怒りだけで満たされていたわけではなかった。
――そうだ、ユリア。お前のために、一流の細工師に特別に頼んだルビーなのだ。
――当然でしょう? あなたはこのプリムローズ公爵家の、大切な令嬢なのだから。
――ユリアがそれを嫌がるなら、私はそれでいいのよ。
ラディエタから見事なルビーを贈られたこと。自分のために、母が何度も励ましてくれたこと。自分の嫌いなものを、誰よりも細かく覚えていてくれたこと。
――ねえユリア、前にあなたが気になるって言っていた本、これじゃないかしら?
――私がこの家にいるのに、誰があなたに手を出すっていうの。守ってあげるわ。
――この席は本当に退屈ね。あなたも暇でしょう? 一緒に抜け出しましょう。
ユリアをいじめていた他家の令息たちに代わって、烈火のごとく怒ってくれたこと。幼い子供には退屈すぎる晩餐会の席で、顔を見合わせて、一緒に小さないたずらをして笑い合ったこと。
――あの人たち、私の前でプリムローズ公爵家のことを悪く言っていたじゃないですか。
ハダモットは、あのリリカと一緒になって誰かの噂話を聞き、それを痛快だと感じていた時期もあった。人と人との関係というものは、白と黒、善と悪のように、そう簡単に割り切れるものではないのだから。
けれど――。
『そんな些細な温かい記憶が過去に一瞬あったとしても、最後に私を裏切り、冷酷に殺したのは、他ならぬあの人たちだった』
結局、都合よく捨てられて、致命的に傷つけられて。その痛みの記憶をどうしても忘れられず、前世の私は“家族”という生ぬるい幻名に縋りつき、その代償として命を支払わされたのだ。
沈んでいたユリアの瞳に、今、再び冷徹で力強い光が宿る。
「私だって、いらない縁を自ら捨てることも、過去を綺麗に整理することもできる、一人の強い人間です」
ユリアを引き止める機会など、前世の彼らには十分すぎるほどあったし、関係を修復できるチャンスだっていくらでも転がっていたはずだ。それなのに、彼らは結局、今世でも全く同じ破滅の結末を自ら選んで迎えたではないか。
『母を助けるために私の手で誕生させたユネトがここまで大きく成長し、リリカを牽制するために始めた製薬事業が、結果として今、大陸中の多くの平民たちにこれ以上ない良い影響を与えている』
復讐という一つの決意から始まったことが、巡り巡って、ユリアをさらに大きな存在へと成長させていた。彼らに植え付けられた傷はあまりにも深く、今でも消えないけれど――彼らのいないこれからの人生の方が、はるかに鮮明で、輝きに満ちている。
「私は今、可哀想な被害者なんかじゃありません。むしろ、すべてを成し遂げた達成感すら感じているんです」
もう少しだ。前世から続いていた、私の初めての目標の終わりが、ようやく目の前に見えてきた。
「……それでいい。僕は、いつでも君のすぐ傍で応援しているよ」
エノクがそっと、誓うように囁いた。
「あの日、凍えそうな葬儀場で君から受け取った大切な慰めを、今度は僕が、すべて君に返し終えるその時まで。何があっても、君の味方だ」
ユリアは窓の外の、光に満ちた帝都の景色を見つめた。
これからの彼女の輝かしい未来の隣には、きっと、このエノク皇太子がずっと寄り添っているのだろう。