こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
138話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 長老会
ドフィンが応接室を出た後、ブラウンスは窓辺に立ち、密かに彼の去っていく背中を見送っていた。
「それにしても、ルシファーという男を見つけ出せたのは幸運だったな。まさか大公の牢の入っていたとは……。危うく永遠に取り逃がすところだった」
ルシファーについては、キャサリンの足取りを追う中で、偶然その存在を突き止めた。
キャサリンが最後に目撃された裏路地で、彼女を連れ去るルシファーの姿を見たという情報があったのだ。
その時、キャサリンの傍らには、まだ幼い子どもがいたという話も聞いている。
その証言を耳にしてから、半ば正気を失ったように、彼を追い続けていた。
「大公に借りを作ってでも、連れ戻す価値のある男でなければならない」
ブロノスは苛立たしげにカーテンを引き、再び椅子へと腰を下ろした。
そして、控えていた秘書を呼び寄せる。
「聖女が偽物だという噂が、テレシアで広まっていると報告があったな?」
「はい。あまりに急速に拡散しており、断定はできませんが、状況から見てテレシア発である可能性が高いかと――」
「……油断できないな。」
つい先ほど、“噂を知っているのか”と問いかけてきたドフィンの顔を思い出しながら、ブラウンスは苛立ちを隠さず、机を拳で叩いた。
もし本当に、噂の発端がテレシアにあるのだとしたら。
ドフィンは、ラヴィエンヌが偽物だと知っている――そう考えるのが自然だ。
「……いや。知るはずがない。」
いくら考えても、自分に私生児がいるかもしれないという事実を、ドフィンが知っているはずがなかった。
まして、それが“大公の娘”だなどという、出来過ぎた偶然を信じる理由もない。
そう自分に言い聞かせながらも、ブラウンスは完全には疑念を捨てきれなかった。
「まずは、ルシファーが来てからだ。キャサリンの行方も、そこから探せばいい。」
――その時だった。
窓ガラスに、コツン、と嘴が当たる音がして、伝書鳩が飛来した。
伝書鳩から手紙を受け取り、すぐさま目を通したブロノスの表情は、読み進めるにつれて次第に険しさを増していった。
「資格試験……だと?」
ただでさえ頭を悩ませることばかりだというのに、さらに問題が積み重なり、思わず神経質な声が漏れる。
「まったく……一つとしてまともに片付かないな」
解決の兆しも見えぬまま、厄介事ばかりが雪だるま式に膨れ上がっていく。
そんな感覚に、ブロノスは苛立ちを覚えずにはいられなかった。
手紙には、ラビエンヌが罠を仕掛け、神殿へエスターを呼び寄せようとしていると記されていた。
だが、仮にそれが成功したとしても、所詮は場当たり的な対処にすぎず、根本的な解決にはならない。
「ギルドの幹部を呼べ」
「どの程度の依頼をご予定でしょうか?」
「最上級の難度だ。報酬は、惜しむなと伝えろ」
ブロノスの声には、もはや一切の迷いはなかった。
親子関係をめぐる訴訟は、あくまで最終手段に過ぎない。
できることなら、誰にも知られぬままエステルを連れて来たかった。
どうにかして密かに連れ出すことさえできれば、今、絡み合っているすべての問題は一気に解決するはずなのだから。
「承知しました。」
ブラウンス公爵家には、代々受け継がれてきた残忍なギルドが存在していた。
ブラウンスは、今回神殿から戻ってくるエステルを、その者たちに攫わせることを決めたのだ。
「……もともと俺の娘だというなら、連れて来るのも当然、俺の自由だろう?」
ブラウンスの唇には、歪んだ笑みが貼りついたまま消えなかった。
家門のためにも、そしてブラウンス自身のためにも聖女の座には、ラヴィエンヌが座っていなければならなかった。
エスターは、月に一度の救護活動のため、保護所を訪れていた。
いつものように双子はそれぞれの役目へと散っていき、エスターは聖花の世話をするため上階へ向かう。
「こんなにも豊かで、生命力に満ちた聖花は初めて見ました」
「そうですか?」
「はい。お嬢様の聖力がいかに優れているか、毎日驚かされております」
パラスは、膝の高さまで育った聖花の群れを見渡し、心から感嘆の声を漏らした。
エスターはその称賛に照れたように微笑みながら、黙々と浄化を終える。
「ここで回復された方々は、また皇宮へお送りください。私は下を見て回ります」
他の領では患者が溢れているというのに、テレシアでは、もはや重症者を探すのも難しいほどだった。
エステルがいるからなのか、それとも保護所の存在そのものが理由なのかは分からないが、少なくともこの場所では疫病が広がる気配はなく、いつの間にか沈静化していた。
それでも、保護所を訪れる人の数は増える一方だった。
最近になって、エステルの評判がますます高まっていたからだ。
「……あっ、転びそう。」
階段を下りていたエステルの視界に、人にぶつかりながらよろよろと歩く一人の老婆が飛び込んできた。
ぼろ切れのような服を身にまとい、足取りもおぼつかない。
どう見ても、体調が良さそうには見えなかった。
心配になったエステルは、すぐに駆け寄って老婆を支え、室内へと案内した。
「おばあさん、大丈夫ですか? どこか具合が悪くていらしたんですか?」
「やれやれ……このところ、どうにも足が言うことを聞かなくてねぇ……」
老女は、つい先ほどまで引きずっていた脚を、もう一度手で軽く叩きながら、力なく言った。
「私が診てあげるわ」
エスターは老女を椅子に座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。
もちろん、警戒を怠ったわけではない。
彼女は治療に入る前、必ず先に相手の気配を読む。
少しでも引っかかる気配があれば、直接聖力を使わず、薬で対処することにしていた。
だが、この老女からは、エスターに害を成そうとする気配は一切感じられない。
「……ん?」
老女の皺だらけの手を取り、聖力を巡らせて身体の状態を確かめていたエスターは、思わず小さく首を傾げた。
脚の気脈が詰まっているか、あるいは何らかの病があるのだろうと考えていたのに、体内のどこにも異常は見当たらなかった。
それどころか、身にまとっている服は古びて色あせているというのに、握ったその手だけは、あまりにも若々しく、きめ細やかだった。
荒事を一度も経験したことがなさそうな、きれいな手をしているのが目に入り、エステルは思わずこの老人を疑い始めた。
「おばあさん、本当に具合が悪くて来られたんですか?」
エステルの澄んだ声を聞きながら、老人はかぶっていた古い帽子をゆっくりと脱いだ。
顔が露わになり、その目と目が合った瞬間、エステルは思わず息を呑んだ。
あまりにも澄みきった眼差しだったからだ。
「……あなたは、どなたですか?」
予想していなかった存在だと直感したエステルは、思わず一歩後ずさった。
その反応を見た途端、ヴィクターが素早く前へ出て、エステルと老人の間に立ちはだかった。
「怪しい人物ですか?」
「……よく分かりません。」
エステルが戸惑っていると、シャロンが鋭い視線を向けながら、ずっと腰を低くしていた体を静かに起こした。
「私の脚に異常がないと、どうしてすぐに分かったのです?」
その瞬間、声色も口調もがらりと変わった。
ついさっきまでとは別人のようで、エスターは思わず身構える。
――間違いない、貴族だ。
立ち居振る舞いの端々に、貴族特有の気品が自然と滲み出ている人物だった。
「詰まりが一切ありませんでした。ですから、治療の必要はなかったんです」
「確かに。しかし、それをあれほど短時間で見抜くのは容易ではない。普通の神官なら、痛いと聞けばまず聖力を使うものだ」
シャロンはエスターの答えに納得しつつも、隠しきれない驚きをその表情に浮かべていた。
「神殿から来られたのですか?」
エスターは、もしかするとこの老女は神殿から送り込まれた試金石なのではないか――そんな考えがよぎり、胸騒ぎを覚えた。
「……そうとも言えますし、違うとも言えますね」
含みを持たせたその言葉が、場の空気をさらに張り詰めさせた。
曖昧な返答に、エステルは目を細めた。
「少しの間、別の場所で静かにお話しできますか?」
「まずは、あなたが誰なのか名乗ってください。」
「わ、私は……」
シャロンは懐から身分を証明する徽章を取り出し、エステルに見せた。
「神殿長老会の一員、シャロン・ド・パルセンドです。」
その赤い徽章を目にした瞬間、エステルの瞳が大きく揺れた。
(初めて見る……)
数えるほどしか存在しない神殿長老にのみ与えられる赤い徽章。
それを持っていれば、帝国内のどこであっても自由に往来できると言われていた。
噂には聞いていたが、厳重に秘匿されている長老会の人間を実際に目にするのは初めてで、エステルは戸惑いを隠せなかった。
「実は、ここ数日間、保護所にいるあなたのことを見届けさせてもらいました」
そう言われ、驚きはしたものの、“ずっと見ていた”という言葉に、エスターははっきりと眉をひそめた。
「……どうしてですか?」
「確かめたかったのです。あなたが本当に、啓示の主に相応しい方なのかを」
そこまで聞いて、エスターはこの人物がラビエンヌの差し向けた者ではないと悟った。
もし本当に彼女の側の人間であれば、ここまで率直に話すはずがない。
「神殿の公式な立場ではありません。あなたに会ってみたくて、私個人の判断で動いただけです」
シャロンは、なおも疑念を向けるエスターの視線を正面から受け止め、懸命に弁明した。
――どうせ、いずれ向き合うことになる。
エスターは、先日こっそり訪れた大聖堂のことを思い出し、いっそ話を聞いてみようと腹をくくって、静かに頷いた。
「こちらへ来てください。」
誰かに話を聞かれる心配のない小さな部屋へとシャロンを案内し、向かい合って腰を下ろした。
万が一の事態に備えて、護衛たちには事前に指示を出しておき、シャロンと自分の間にはヴィクターを立たせた。
「では、話してください。わざわざ二人きりで話したい理由は?」
「あなたが聖女だという事実を、すでにご存じなのでは?」
シャロンはエステルをじっと見据え、低い声で問いかけた。
エステルは表情を一切変えず、何も知らないふりをした。
「何のことか分かりません。」
「その手袋……資格を隠すためのものではありませんか?」
保護所に来るときは決して外さない手袋へと、シャロンの視線が移った。
自覚の兆しが現れているわけでもないのに、その視線に動揺したエスターは、思わず慌てて腕を組んだ。
「どうして、あなたは私が本物だと言い切らないんですか?」
「――私ではありませんから」
どれほど否定されようとも、数日間保護所を観察してきたシャロンは、すでにエスターが聖女であると確信していた。
カイルから聞いていた通り、制限なく行使される聖力。
それだけでも十分だったが――さらに先ほど、保護所から運び出された大量の花が馬車に積まれ、どこかへ送られていくのを目撃している。
他の者たちはただの花だと思うだろう。
だがシャロンには、それが紛れもない聖花だと分かった。
聖花を育てられる力は、聖女でなければ説明がつかない。
「ここへ来る前に、あなたのことを調べさせていただきました。元々は神殿で、聖女候補として過ごしていらしたそうですね」
「ええ。神官の方々がよくしてくださって。おかげで穏やかに過ごしています。」
どれほどドフィンが養子に迎えたいと望んでも、神殿が手放さなければ成立しなかった話だ。
「感謝しています。」
エステルは会話を始めてから初めて、シャロンに向かって柔らかく微笑んだ。
その微笑みを目にしたシャロンは一瞬安堵したが、すぐに表情が陰った。
「今の神殿は、あまりにも歪んでしまいました。どこから間違ってしまったのか……本来は、こんな場所ではなかったのです。」
「興味ありません。」
エステルはシャロンの言葉を聞き流すように、きっぱりと首を横に振った。
「聖女様。」
「その呼び方はやめてください。」
神殿に対する嫌悪を隠そうともしない、エステルの冷たい声音だった。
それを聞いたシャロンは、ひどく悲しげな眼差しでエスターを見つめた。
「一つの時代に、聖女が二人現れることはありません。混迷を極める今の帝国には、あなたの力が必要なのです」
「…………」
「現状は疫病が流行している程度で済んでいますが、この均衡がいつ崩れるかは分かりません。そうなれば、何が起こるのか――誰にも予測できないのです」
「……それって、脅しですか?」
エスターは、帝国の平和や万人のための犠牲といった言葉を、安易に受け入れる気にはなれなかった。
ようやく掴み取ったこの穏やかな日常を、今さら差し出せと言われているようで、胸の奥に怒りがこみ上げる。
どこまでも一方的な神殿の姿勢に、ついに我慢の限界を超えた。
「違います。決して、そんなつもりではありません。ただ……聖女の座を、本来あるべき人のもとへ戻したいだけなのです」
シャロンの声は切実だった。
彼女は心から、真の聖女が神殿へ戻ることを願っている。
長老会の一員として長年身を置いてきたからこそ、聖女という存在がどれほど重要な役割を担っているのか、シャロンは誰よりも理解していた。
その座は帝国の安定と直結しており、血筋だけで務まるような立場ではない。
結界を維持する聖女がいなければ、帝国は滅びかねない――それほど切迫した状況だった。
「どうか、聖女の座にお戻りください。私が保証いたします。」
あまりにも身勝手な言い分に、エステルは思わず鼻で笑った。
「今の聖女を引きずり下ろすつもりですか?」
「当然です。まもなく、現聖女の資格試験も改めて行う予定です。」
半ば冗談めかした問いだったが、ラヴィエンヌの資格を再試験するという言葉に、エステルの眼差しが鋭くなった。
「……どんな試験なのですか?」
「聖力の器を測るのです。聖花の種を生み出せるか、水を聖水へと変えるのにどれほど時間がかかるか――そうしたことを試験します」
その試験を、ラビエンヌが決して突破できないことは明らかだった。
「……その次は?」
「たとえ現在、聖女として任命されていようとも、資格がないと判断されれば、その座を退いてもらいます」
エスターの淡い桃色の瞳と、シャロンの澄んだ空色の瞳が、互いの真意を探るように静かに絡み合った。
――嘘じゃない。
シャロンは、エスターと向き合う間、一度たりとも虚言を弄してはいなかった。
ラビエンヌが失脚するかもしれない――その可能性に、思わず胸が高鳴る。
だが、それでもなお、神殿が「偽の聖女を立てた」という事実を公に認めるとは思えなかった。
世論が騒然とし、後始末に追われるのは目に見えている。
楽観的な対策だという考えに、素直に賛成する気にはなれなかった。
「たとえ聖女が試験に合格できなかったとしても、現状のままでいいと主張する人は多いはずですよ?」
すでに各所に根を張っているラヴィエンヌとブラウンス家の勢力は、決して侮れるものではない。
「だからこそ、あなたを神殿へお連れしたいのです。私と一緒に神殿へ戻っていただけませんか?」
必死に訴えかけるシャロンの声に、エステルは大きく動揺した。
「私を連れて行って、どうするつもりなんですか?」
「長老会があなたを支持します。本物の聖女が別に存在すると示せば、どれほど強大な勢力であっても反対はできないでしょう。こちらには大義名分がありますから。」
ほんの一瞬だったが、エステルの脳裏には、自分の座を奪ったラヴィエンヌから、その座を再び奪い返す痛快な光景が思い浮かんだ。
――痛快ではある。
ラビエンヌに復讐する方法はいくらでも思いついた。
だが、もしかすると彼女が最も耐え難いのは、皆の前でその座を奪われることなのかもしれない。
とはいえ、そのために自分が聖女になりたいとは思わなかった。
かつてなら受け入れていたかもしれない提案だが、今のエスターには、守りたい日常がある。
しかも、神殿は神殿で、ラビエンヌを完全に切り捨てる覚悟などなかったのではないか。
「……今のままでいいです」
そっけない返答にも、シャロンは諦めず、なおもエスターの心に働きかける。
「試験は二週間後に行われます。それまでに気が変わったら、いつでも私――シャロンを訪ねてください」
その声は、静かだが確かな余韻を残していた。
シャロンは、自分が滞在している神殿近くの住所を教えてくれた。
そして部屋を出ようとして振り返り、非常に静かな声で言った。
「光の子。人々はあなたを、そう呼んでいるのですよ」
エステルはまったく知らなかった事実に、思わず息をのんだ。
「神殿にも、その光が切実に必要です。お待ちしています」
部屋を出る直前、もう一度目が合ったシャロンの奥深い眼差しからは、心から神殿を案じている気持ちが、はっきりと伝わってきた。