こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
140話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 枯れゆく聖花
「それじゃあ、まずは聖花(せいか)を持って皇宮へ戻るよ。そのあと、神殿の近くでまた君と会おう」
ちょうどドフィン大公から許可を得た皇太子ノアは、まるで春の陽だまりのようなにこやかな微笑みをその端正な面に浮かべた。
「……よろしくお願いいたします」
エスターは小さく、けれど確かな信頼を込めて、その美しい頭(こうべ)を垂れた。
「ご心配なさらないでください、大公。それでは、また近いうちに伺います」
「わざわざ皇太子殿下が、これ以上また直接ここにまでお越しにならなくても大丈夫ですよ」
ドフィンは露骨に不快そうな無表情で見つめていたが、ノアは洗練された完璧な笑みを微塵も崩すことなく、優雅に別れの挨拶を告げて部屋を後にした。
「ずいぶん頻繁に来るな、あいつも」
ノアが去った扉を睨みつけ、ドフィンは気に入らないとばかりにその頑健な眉間に深い皺を刻み込んだ。
「大公閣下。どうやら皇太子殿下は、エスターお嬢様のことをかなりお気に召していらっしゃるようでございますね」
長年仕える側近のベンが、どこか宥めるように言葉を挟む。
「……うちのエスターが世界一可愛いのだから、他人が好意を寄せるのは当然じゃないか」
ノアがエスターに対してひそかに特別な情愛を抱いていることは、ドフィンとて疾うの昔に気づいていた。そう口にしながらも、大切な娘を泥棒に狙われている父親特有の、ひどく渋く不機嫌な顔を隠そうともしなかった。
「それでも、あのノアが護衛として一緒に行ってくれるというなら、一先ずは安心だ」
ノアの剣の腕前そのものは、大公であるドフィンの目から見ればまだまだ粗削りな部分もある。だが、皇太子を取り巻く宮廷の精鋭護衛騎士たちは皆、彼の圧倒的な天賦の才と統率力を心から信頼していた。どうせ変装して神殿の様子を窺いに行くつもりだと言うのなら、エスターの安全のためにも、この件はひとまず皇太子に委ねて様子を見ることにした。
「それよりもベン、例のゴドンの件は一体どうなった?」
ドフィンの声音が、一瞬にして戦場の冷徹さを帯びる。
「はっ。二日以内には完全に精神の『洗脳』が完了する、という呪術師からの極秘の連絡が入っております。ルシファーを、もうすぐブラウン公爵の元へと送り出せるかと」
ゴドン――。彼は帝国全土を探しても片手で数えるほどしか存在しない、国家一級の上位呪術師であり、ドフィンと同じく、かつて凄惨な北方の戦場を生き抜いた戦友でもあった。
ドフィンは彼に対し、捕らえた悪党ルシファーの脳裏に、他者からのあらゆる精神干渉を撥ね退ける、極めて強力な「呪縛の呪術」を施すよう極秘裏に命じていたのだ。
その目的はただ一つ。
――ルシファーが、大公家がすべての真相を把握しているという事実や、あの『ダイヤの首飾り』の存在について、ブラウン公爵の前で決して口にできないようにするため。
「上出来だ。死にたくなければ、余計なことは一切口にするな――そう脳髄に刻み込んでおけ」
ここまで莫大な手間と人員をかけて、ルシファーを宿敵であるブラオンズ・ブラウン公爵の元へと送り返す理由は、実に単純明快だった。
ブラオンズが、戻ってきたルシファーに対して一体どんな質問を投げかけるのか。それを影から観察し、彼の真意を見極めるためだ。
「ルシファーをあちらの陣営に引き渡すときは、必ず、大公家の執念深い追跡から『命辛々、自力で連れ戻してきた』という体を装わせろ。そうすれば、ブラオンズも疑うことなく彼を受け入れ、口封じに殺すこともないだろう」
「御意。そのように手配いたします」
果たして、ブラオンズはルシファーに何を問いかけるのか。
亡きキャサリンと彼との間に、どのような血塗られた秘密が隠されているのかと思うと、ドフィンは胸のざわつきを抑えきれなかった。
「本当に、あの時キャサリンを皇宮の追手から逃がした黒幕がブラオンズなのだとしたら……その男が、エスターの本当の父親ということになるな」
ドフィンは奥歯をガタガタと強く噛み締め、獣のように低く唸った。
「閣下、まさか……世間にそんな恐ろしい偶然が存在するものでしょうか?」
「ベン。現に、ここにいるエスターと私、そして大公家を見てみろ」
ただの気まぐれに過ぎなかった。数年前、あのみすぼらしい奴隷市場で、拾うような感覚で大公家に連れてきたに過ぎない孤独な少女エスター。それが、まさかこれほどまでに自分の命に代えても守りたい、狂おしいほど大切な存在になるとは、当時のドフィンは思いもしなかったのだ。
しかも、そのエスターが、自分の最愛の妻であったアイリーンの実の妹――すなわちキャサリンの娘であったという血縁の真実は、あまりにも美しくも信じがたい偶然だった。
「……そんな紙一重の偶然が、この残酷な世界で二度も起こるはずがない」
これは偶然などではない、もはや運命の神による悪意に満ちた悪戯だ。
もし、ブラオンズがキャサリンを弄び、その結果エスターが産まれたのだとしたら――何らかの明確な大義名分さえ得られれば、ドフィンは一切の躊躇なく、ブラウン公爵家をこの帝国の歴史から完全に滅ぼすつもりでいた。
一方、神殿の最奥――。
残りわずかとなった『聖花(せいか)』の浄化作業を終え、張り詰めた面持ちで執務室へと戻ってきた聖女ラビエンヌは、ひどく険しい表情のまま豪華な椅子に身を沈めていた。
「……みんな、私に疑いの目を向け始めているわ」
帝国全土を襲った恐ろしい伝染病を食い止めるため、神殿の権威を維持するために聖花を各地へ乱発し続けた結果、今や神殿に残されている個体数は、数えるほどにまで激減していた。
これまで、歴代の聖女たちが神殿の最深部にある秘密の金庫に厳重に保管してきた奇跡の「種」は、ラビエンヌの代でついにすべて使い切ってしまったのだ。
だが、それでも各地の疫病を完全に根絶するには量が圧倒的に不足しており、しかも聖花の供給は文字通り尽きかけていた。
神の奇跡の象徴である聖花が、思うように咲かなくなっている以上、神殿の神官や信徒たちが不気味な不安を抱くのも無理はないことだった。
彼らは直接ラビエンヌを問い詰めこそしなかったが、神殿の廊下をすれ違うたびに、妙な胸騒ぎと不信の視線が彼女の背中に突き刺さるのを、ラビエンヌは敏感に察知していた。
「早く、あのエスターの身体を使って手を打たないと……私の聖女としての命運が尽きてしまう」
焦燥に駆られながら爪をガリガリと噛んでいると、ちょうどそのとき、一人のシスターが、大公家へ遣わしていたノア(大公家騎士)とともに扉を開けて入ってきた。
「聖女様、テレシア大公家から直急のお手紙が届いております。先日、聖女様からお送りいたしました『大公家への招待』に対する、エスター嬢からの直筆のお返事とのことです……」
「こちらへ! 早く!」
ラビエンヌは慌てて椅子から立ち上がると、シスターの手からひったくるようにして手紙を奪い取った。そして、シスターが話を最後まで紡ぐ前に、素早い手つきで封を切った。
ここ数日、ラビエンヌが夜も眠れずに首を長くして待ち続けていた、自らの運命を左右する知らせだった。
震える手で手紙を広げ、内容に目を走らせたラビエンヌの表情が、次の瞬間、ぱっと歓喜に明るくなった。
「……やっぱりね。ふふ、これでいいわ。すべては私の思い通りよ」
手紙には、格式高い神殿からの招待に対する至極丁寧な感謝の言葉とともに、『指定されたティータイムには、必ず出席いたします』という、エスターからの快諾の返事が美しい文字でしたためられていた。
ラビエンヌは込み上げる喜びを隠しきれず、にこにこと歪んだ笑みを浮かべながら、その紙切れを壊れ物のように強く握りしめた。
万が一、テレシア大公家の権力を背景に誘いを完全に断られたらどうしようかと、内心では激しい不安に苛まれていた。だが、案の定、あの忌々しい小娘の愚直で世間知らずな性格は、スラムの底で泥を舐めていた昔と何ひとつ変わっていなかったのだ。
「昔も今も、本当に扱いやすいお人形さんね。ふふ……大公家の結界から、わざわざ自分から私の元へ歩いてきてくれるなんて、どれほどありがたいことかしら」
エスターがまだ神殿の地下で、無力に泣き叫んでいた幼い頃の惨めな姿を思い出し、ラビエンヌは美しい唇の端を吊り上げ、底知れない含みのある冷たい笑みを浮かべた。
「まずは、大公家や皇宮の耳目の目を欺くために、これがどこからどう見ても“本物の社交のティータイム”に見えるよう、完璧に舞台を整えなくちゃいけないわね」
どれほどイヴァネフ教の宗教的な権威が強いとはいえ、現在の皇宮が持つ絶対的な世俗の権力は、やはり無視できるほど軽いものではなかった。
最初は、スラムから大公家に拾われたただの養子だと軽く見ていたエスターだったが、あのドフィン大公が、今や実の娘以上に彼女を格別に大切に溺愛しているという情報は、情報網を通じて何度もラビエンヌの耳に入ってきていた。
だからこそ、どんな事情があっても、神殿の内部でエスターが「誘拐された」と周囲に疑念を抱かれるような派手な騒ぎを起こすわけにはいかなかった。
まずは、名門貴族の令嬢たちを巻き込んだ華やかなお茶の席を実際に設け、その歓談の最中、あらかじめ仕込んでおいた睡眠薬を使って、エスターをほんの短い時間だけ、誰にも気づかれずに眠らせる――ラビエンヌの目的を果たすには、その程度の手回しで十分だと踏んでいた。
当面は、エスターが持っている瑞々しい神聖力を少しだけ抽出し、直近で行われる神殿の資格試験を乗り切れるだけのエネルギーをラビエンヌの身体に補給できれば、それで足りるのだ。
『あとは、ブラウン公爵(父上)が外側から何とかしてくれるはずだわ』
文書を通じた父親とのやり取りの中で、神殿の外部でのエスター強奪作戦のために、別途闇のギルドを多額の金で雇ったという話もすでに聞いている。
大公家の後ろ盾を完全に失うリスクこそ少々気がかりではあったが、この綿密に組み立てられた計画が失敗するとは、ラビエンヌには到底思えなかった。
「睡眠薬は、もともと私が隠し持っていたあの特級品を使えば問題ないわね」
そうして独り言ちながら、冷酷な計画を練り上げるラビエンヌの瞳は、いつにも増して昏く、獲物を狙う蛇のように鋭い光を宿していた。
ラビエンヌは即座にシスター長を部屋へと呼びつけ、ティータイムの準備を本格的に進めるよう、細部に至るまで矢継ぎ早に指示を出し始めた。
「……私の指示通りに、完璧に場を整えなさい。招待する人数は、エスターを含めて七名ほどでいいわ。いずれも名門伯爵家のご令嬢たちなのだから、用意する茶葉も、極上の菓子も、すべて特級品を新たに市場から買い取らせて用意しなさい」
今回のティータイムには、あえてエスター以外の、神殿に対して従順な他の伯爵家の令嬢たちを数名、当て馬として同時に招いていた。
誰の目にも、これが純粋で本物の、華やかな貴族令嬢たちの社交の場に映るよう、より一層の豪奢さと偽装の舞台が必要だったのだ。
「聖女様、それはつまり、神殿の内部の高貴な方々を広くお招きして、大々的なお茶会を開くということでよろしいですね?」
「ええ、その通りよ。もし細かな予算や格式のことで分からないことがあれば、ルーカス大司教に確認しなさい。今回のティータイムの公式な主催者は、あくまでルーカス様なのだから」
再び完璧な“慈悲深き聖女”の仮面をかぶったラビエンヌは、穏やかな微笑みをその面に貼り付けながら、シスター長をなだめるように軽く言い含めた。
本来であれば、神殿の厳かな広間を社交という別の用途で使用する場合は、毎月行われる大司教会議で正式な承認を得る必要があった。しかしラビエンヌはその煩わしい手続きを完全に無視し、シスター長も「最高権威である聖女様の厳命だから」と、それ以上深く追及せずに従うことにした。
「ララ、これは神殿の未来に関わるとても大事なことなの。だから、準備には特に、万全の気を配ってちょうだいね」
「はい、聖女様。仰せのままに」
ラビエンヌから直接の指示を受けたシスター長は、恭しく一礼して部屋を出ていった。
だが、重い扉が閉まった瞬間、シスター長の顔には隠しきれない困惑の影が差した。
『この国中が疫病の恐怖に晒され、罪のない平民たちが次々と命を落としているこの未曾有の状況で……高位貴族の子女たちをわざわざ神殿に集めて、華やかなお茶会だなんて』
あまりにも、現在の世情に対する配慮と慈悲が足りないのではないか。
神殿の行く末に首を傾げながら、複雑な面持ちで静かな廊下を歩いていると、ちょうどそのとき、前方からルーカス大司教が、同じく大司教のカイルを伴ってラビエンヌの部屋へと向かって歩いてくるのが見えた。
習慣的に小さく会釈をして通り過ぎようとしたシスター長だったが、先ほどラビエンヌから「ルーカスに確認しておくように」と言われていた件を思い出し、足を止めて彼らの元へと歩み寄った。
「ルーカス大司教様。先ほど聖女様より、近日中に開かれるティータイムの準備を直ちに始めるようお命じになられましたが……大司教様の方から、ほかに何か特別なご指示や、招待客に関する手配はございますでしょうか?」
「ほう、もう聖女様の元へ返事が届き、そんな話が進んでいるのか。……いや、私からは特にないが、できれば神殿の内部でこの件を知る者が無駄に増えぬよう、できる限り静かに、隠密に進めてほしいのだが……」
「かしこまりました。そのように手配いたします」
だが、二人のその会話を真横で聞いていたカイル大司教は、それが完全に初耳の話であったため、思わず面食らったような驚きの表情を浮かべた。
(ティータイムだと? ……国中が疫病でこれほど混乱している今この時に、一体どうしてそんな悠長な状況が許されるんだ?)
加えて、「内部の者に知られぬよう、できる限り静かに準備しろ」という、ルーカスの妙に含みのある隠蔽じみた言葉も、カイルの胸の内に鋭く引っかかった。
カイルは、ルーカスとシスター長のやり取りを、ただの一言も聞き漏らすまいと、神経を極限まで集中させて注意深く盗み聞きしていた。
しばらくして、シスター長が丁寧に一礼し、その場を離れると同時に、カイルは我慢できず、ルーカスの前に慌ただしく一歩を踏み出した。
「ルーカス大司教! これは一体、どういうことですか? 聖女様がお茶会を開くだなんて、私は何も聞いていませんが!」
「あぁ、驚かせてすまない、カイル。聞いた通りですよ。聖女様が、どうしても近いうちに内密のティータイムを開きたいと仰っているのだ」
「はあ……ティータイムですか。今でさえ、各地の疫病の対処や滞っている神殿の業務だけで、我々の人手は手一杯だというのに……どうしてこの最悪な時期に、そんな無駄な真似をなさるのですか?」
苛立ちを隠さず、落ち着きなく執務室の廊下を動き回る若いカイルを見て、ルーカスは、事の真相をこの男にそのまま伝えるべきか、ほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
だが、いずれにせよ同じ神殿の代理官同士、これ以上の隠し事はかえって作戦の足かせになると判断し、周囲に他の神官やシスターがいないことを厳重に確認してから、グッと声を潜めて顔を近づけた。
「……実はね、カイル。聖女様は、かねてより神殿が血眼になって探していた、あの本物の“啓示の主”だと考えられる人物を、ついに見つけ出されたようなのだよ」
「えっ……!? それは、本当ですか!?」
つい先日、大公家からの要請でテレシア家へ赴き、エスターに直接会ってきたばかりのカイルは、その言葉に思わず心臓が跳ね上がり、身を乗り出して尋ねた。
「あぁ。聖女様はほぼ100パーセントの確信を抱いていらっしゃるようでね。今回の席は、その高貴な人物の正体と能力を、神殿の結界の内部で確実に確かめるための……言わば『偽装のティータイム』なのだよ」
「そ、そうだったのですね……。大司教、いったい、その啓示の主とされる人物とは、どこのどなたなのですか?」
「カイル、いずれすべてが終われば分かることです。少しだけ、その時が来るのを静かに待ち決行の日を待ちなさい」
ルーカスは、エスターの名前をこの場ですぐには口外せず、自らの胸の内に深く秘めた。
すべてはお茶会当日、神殿の罠にかかったエスターの事実関係がはっきりと白日の下に晒されてからでも、他の者に伝えるのは決して遅くはない――そう冷徹に判断したからだ。
他の中央の大司教たちを信用していないわけではなかった。ただ、万が一にも大公家や皇宮に情報が漏洩するリスクを避けるため、事の真相を知っているのは、当面は計画の主導者である自分と聖女だけでいいという結論に至ったのだった。
(……いったい、聖女様はどうやって、あのテレシア大公家に厳重に守られている少女の正体を見きわめ、見つけ出したのだ?)
カイルもまた、ルーカスが「特定の誰かの存在」を完全に察していながら、あえてその名前を自分の前で頑なに隠そうとする様子を見て、底知れぬ胸騒ぎを覚えた。と同時に、自分自身が先にエスターの異常な神聖力に気づいていながら、大公家への義理立てのためにそれを神殿に黙秘していたことへの、わずかな後ろめたさがチクリと胸を刺した。
(確かめなければならない……。聖女様が狙っているのが、本当にあの子なのかどうかを)
そこでカイルはまず、シスター長がこれから作成するであろう、今回のティータイムに招かれた令嬢たちの「公式名簿」に何とかして隠れて目を通し、その中に本当にテレシア大公家の『エスター』の名が刻まれているかどうかを、自らの目で確かめることを決意した。
ルーカスに余計な疑念を悟られぬよう、どうやって招待客の一覧を合法的に調べるか――そんな危険な思考を巡らせながら、カイルは感情を押し殺し、静かにルーカスの後ろを歩み進めていった。
精神洗脳の呪術を施され、抜け殻のようになったルシファーは、ベンの手によって夜陰に乗じて護衛され、そのままブラオンズ・ブラウン公爵が待つ極秘の別邸へと引き渡された。
作戦通り、大公家の側近であるベンが直々に公爵の前に姿を現し、冷徹に告げる。
「……大公閣下からの伝言通り、この男をそちらにお返しいたします」
ブラオンズ公爵は、目の前に転がされたルシファーの哀れな姿を見つめ、隠しきれない困惑の表情のまま、ゆっくりとうなずいた。
「大公は……この私に、またこの男をわざわざ送り返して、一体何を企んでいるのだ?」
「閣下、ルシファーもまた元を正せば我がテレシア領の人間でございますから。犯した大罪に対して最終的な処罰を下すとしても、それはこちらの領内の法に基づいて執り行います。それまでの期間、そちらの私念に一度お預けするに過ぎません」
「ふん、分かった。ドフィンらしい、執念深く堅苦しいやり方だな」
ブラオンズは、大公家が一度捕らえた人間をこうして送り返してきた以上、もはやこの男を自らの手で殺すことも、派手な拷問にかけて大公家に不義理を働くこともできないことなど、百も承知の上の政治的駆け引きだと理解していた。
残念ではあるが、それでもルシファーという「キャサリンの過去を知る唯一の手駒」を、再び自らの陣営の支配下に置けるこの状況は、決して悪くはないと前向きに考えることにした。
「一週間後に、必ず責任を持ってそちらの牢へ送り返そう」
「承知いたしました。それでは、これにて失礼いたします。一週間後、また迎えに参ります」