夫の言うとおりに愛人を作った【１０６話】ネタバレ

トントン。

誰かがドアをノックした。

誰だか確認もせずに追い返そうとしたその時、エドワードは口を閉じた。

実際、ノックの音だけでも誰なのかすぐに分かった。

「……。」

トントントン。

手の甲でドアを叩いたときに聞こえる、あの音の質、強さ、リズム。

すべてがルイーゼのものだった。

彼は誰に対しても気分や感情を隠すのに慣れている人だったが、ルイーゼの前ではなぜか妙に正直で率直になった。

彼女を早く迎えたくても、いざ彼女を見ると寂しさを隠せないようで、会わない方がよいのではと思うこともあった。

「……」

「エリオット、寝てますか？ 渡すものがあって来ました。」

バサッ。

「いらっしゃいましたか？」

そっと開かれた扉の前にエドワードが明るく笑う顔で立っていた。

ルイーゼは驚いた顔で目を見開いた。

彼の部屋の中には、めったに漂わない薔薇の香りが満ちていた。

「さっきまでドアに向かって歩いてくる足音が聞こえなかったわ。まるでテレポートでも使ったみたいに……」

「はい、使いました。入ってください。」

エドワードが答えると、彼女は彼の部屋に入ってきた。

「おかしいわね。さっきまでは気分がよくなさそうだったのに。」

幸いにも、彼の声は嬉しさに満ちていた。

「ちょっと気分が悪かったんです。」

それは胃ではなく、心の問題だったが。

「あら、そうだったの。だから食事もせずに部屋に戻ってきたのね？ ロビンを呼びましょうか？」

「そこまでひどくはなかったです。今はもう大丈夫です。」

「それならよかった。」

ルイーゼの口元には穏やかな微笑が浮かんでいた。

エドワードがニヤリとしながら口を開いた。

「うん、それで渡したいものがあるって？」

「はい。実は黒魔法を解いて剣を返した日にすぐ手に入れたんですが、渡すタイミングを逃して今まで持っていました。」

「忘れてたわけじゃないんですか？」

「まさか。ただ今のような雰囲気で渡すような贈り物じゃないと思って……。マクシオンが今すぐ渡してもいいって言ったから来ただけで、空気読めないと思わないでくださいね。」

エドワードの口元が喜びでわずかにほころんだ。

彼の忠実な補佐官、マクシオンは間違いなく最高の部下だった。

「絶対そんなふうに思ってませんよ。」

「じゃあ、左手を出して、目を閉じてみてください。」

エドワードは左手を差し出し、目を閉じた。

するとルイーゼがポケットから取り出したプレゼントを、そっと彼の手首に向かって差し出した。

「もう目を開けていいですよ。」

エドワードの視線は自然と自分の手首へ向いた。

そこには、細い革ひもで作られたブレスレットがあり、中央には薄紫色のアメジストのペンダントが付いていた。

「これは……ブレスレットですか？」

「はい、それが……。そんな深刻な雰囲気の中で渡すような物じゃないって言ったじゃないですか。」

ルイーゼは頬を赤らめて、恥ずかしそうに言った。

「ルイーゼさんの瞳の色とそっくりのアメジストですね。」

「そうでしょ？ ブレスレットは大切な人に贈るものですから。……だから……エリオットにあげたかったんです。」

「大切な人だから……。」

エドワードは優しく微笑んだ。

彼はそっと視線を下げ、ルイーゼと目を合わせた。

「それなら、僕もルイーゼ嬢にブレスレットを贈らなきゃいけませんね。ルイーゼ嬢も僕にとって大切な人ですから。」

「いえ、大丈夫です。私はネックレスをもらいましたから。」

気まずそうに視線をそらすルイーゼの顔には、さらに深い赤みが差した。

彼女が気づかないうちに、首にかけられたネックレスの赤い魔法石のペンダントにそっと触れた。

お互いが大切な存在であることは当然のことなのに、なぜかその視線を合わせるのが恥ずかしかった。

そう思ったからこそ、今のような雰囲気の中で渡すにはふさわしくないプレゼントだと言ったのだった。

派手な騒動の後に、最後の別れの前に交わす場面にふさわしいものではなかったからだ。

「昔流行ったブレスレットには、もう一つの意味があるのですが、それもご存知で渡されたのですか？」

「もう一つ……？」

ルイーゼは疑問の表情を浮かべて尋ね返した。

「はい。人々はブレスレットを“縁を結ぶ糸”とも表現するんです。ブレスレットを贈るというのは、二人の縁が永遠に切れないよう願う意味があるんです。そして、長く身に着けたブレスレットが切れても、その跡が皮膚に残っているのは、その“縁の糸”のせいだと言われています。」

「そうだったんですね。意味が素敵です。」

「私もそう思います。」

日差しに焼けた身体の部位のうち、ブレスレットで隠れて焼けずに残った痕を「縁の糸」と呼んでいた。

これは主に外での活動が多い庶民や騎士、使用人たちの間で使われていた表現だった。

今ではその意味が曖昧になり、「大切な人に贈るもの」として通用していた。

ネックレスのペンダントを触っていた彼女の手が止まった。

「そんな意味があるって知っていたら、王子がくださるのは、ほどけにくい魔法がかかったブレスレットにしてもよかったのに……。」

「私はこれで満足しています。私にとっては、世界で一番特別な紫の原石がついたブレスレットですから。もしほどけて痕が消えてしまう前に、ルイーゼ嬢が新しいプレゼントをくださるなら、それはとても嬉しいことです。」

彼が不満そうな顔で次のプレゼントを求めると、ルイーゼは小さく笑った。

「そうですね。そうします。気に入ってもらえたなら、嬉しいです。」

エドワードの視線は、ルイーゼが触れていたネックレスのペンダントに向けられた。

「ネックレスの贈り物の意味をご存じですか？」

「はい。でも、エドワードがその意味でくれたわけではありません。これは出動中に位置把握や体温維持など、安全のために支給されたものですから。隊員のカフスボタンの代わりです。」

ペンダントが付いたネックレスを握っていたルイーゼの手を、エドワードが右手でそっと包み込んだ。

「ネックレスのプレゼントの意味は『私の心の半分をあなたに捧げます』って言うそうですよ。」

「……」

「たぶん間違ってはいないと思います。今の私がその意味を知っているということは、未来の私もそれを知っていたということになりますから。」

ルイーゼは驚いた表情で目を見開いた。

心臓が速く鼓動した。

ドクドクと大きな音で鳴るその音が、相手にも聞こえるのではないかと思えるほどで、何か言おうとしても口が開かなかった。

「お礼を申し上げたいのですが、手をお借りしてもよろしいですか？」

ルイーゼがそっと顎を引き、エドワードに自分の手を差し出した。

彼女の手をそっと取ったエドワードが、顎を傾けてルイーゼの手の甲に口づけをした。

優しく触れる唇の感触に、手の甲から体全体に熱が広がっていくようだった。

彼の視線が一瞬ルイーゼの唇に留まった後、すぐに動いて彼女と目を合わせた。

「ルイーゼさん。」

ルイーゼは久しぶりに彼にまつわる噂を思い出した。

悪魔の心臓をえぐり取ってつけたような魅惑的な赤い目、深淵のように深く陰影のある瞳、甘い声に、彫刻のような美しい体躯まで。

もし人を誘惑する魔物が存在するなら、それはエドワードの姿をしているに違いない。

「少し失礼してもいいですか？」

しわがれた声に、どこか懐かしさが滲んだ。

今が任務中であるという事実も、彼が過去7年間の記憶を失っているという事実も、この瞬間だけは何も気にしたくなかった。

ルイーゼが静かに息を呑んだあと、今度は声に出して答えた。

「……いいですよ。」

顎を支えた彼の手が、そっとルイーゼの頬を包んだ。

互いの吐息がゆっくりと近づき、周囲の空気に熱気がこもった。

ふたりの視線は虚空の中で静かに交わり、次第に淡い紫の瞳が、やがて静かな銀色のまなざしに染まっていった。

彼の吐息が彼女の唇に触れた、その瞬間――

コンコン

ノックの音に驚いたルイーゼが、ぱちっと目を見開いた。

そして、かすかに傾いていた紅い視線が、ドアの前で彼女と目を合わせた。

互いの息遣いが近くで交わった。

「陛下、ロビンです！今日は定期検診の日でして。中にいらっしゃいますか？」

「……」

「……」

その時、彼の胸に手を当てていたルイーゼの手をエドワードが取り、自分の首にまわした。

彼は低くかすれた声で答えた。

「今は戻れ。一時間後に延期しろ。」

「えっ？あ、はい。」

彼の右手が彼女の後頭部を支えた。

紫がかった瞳が戸惑いに震えた。

ルイーゼが抵抗しようと唇をわずかに開いた瞬間、

「まずは非礼をお詫びします。」

二人の唇が重なった。

コンコン。

「殿下、ご報告があります！」

ドア一枚を挟んでヘンドリックの澄んだ声が聞こえてきた。

半刻（約30分）ほどが過ぎた頃だ。

二人の動きが止まり、エドワードがそっと唇を離して、かすかに伏せた視線でルイーゼを見つめた。

かすかに震える銀色のまつ毛がぱらりと揺れ、紫がかった瞳がのぞいた。

ルイーゼは赤らんだ顔で小さく息を吐いた。

彼女はいつの間にかエドワードのベッドの上に横たわっていた。

ルイーゼの腰のすぐそばでは、手の甲の血管が浮き出るほど握られた拳が、しっかりと彼女を支えていた。

その手から力が抜けた。

「ちょうどいいタイミングで邪魔が入ったな。これ以上無礼は控えましょう。」

彼は低くかすれた声で続けた。

「これ以上は、自分を抑えきれないですから。」

エドワードは優しく微笑みながら、まるで幕を閉じるようにルイーゼの唇に短いキスを残した。

二人の視線が再び近くで交差した。

さっきまで続いていた濃密な空気とは違う、突然の終わりにルイーゼは戸惑った表情で自分の唇を押さえた。

「……そうですね。」

エドワードは普段通りの笑みを浮かべていたが、その瞳はこれまで以上に危険に見えた。

本当に騎士団が全部いる、音も通らないような建物で仕事を片付けることになりそうだ。

服の乱れを整えながら、エドワードが口を開いた。

「下にいろ。すぐ降りていくよ。」

「え？ はい！ それでは下でお待ちしております！」

ヘンドリックは丁寧に礼をしながら階下へと降りていった。

ルイーゼは特に反応せず、静かに自室へと向かった。

遅い夜、ロビンが木箱を持ってルイーゼの部屋に入ってきた。

「ルイーゼ様、椅子におかけいただければ検診を始めますね。私は治療師でも騎士団でもありませんが、定期検診は重要なことなので、前もってルイーゼ様にも行うよう指示がありました。大丈夫ですよね？」

「……はい。」

「でも唇に腫れがどうしてこんなにひどいんですか？見る限り深刻な状態ですよ？ もしかして普段食べないものを食べたとか？ 刺激物でも召し上がりました？ あらら、破れて血が出る寸前ですね。長い時間ずっと噛んでいたとかじゃなきゃ、こんな……はっ。」

ルイーゼは顔を赤らめてうつむいた。

ロビンの瞳がサシナムの葉のようにぷるぷると震えた。

「もしかしてさっき……いや、答えなくていいです。ええ、原因は食事ではなさそうですから、消化と身体に良いナツメ茶を用意いたします。冷湿症も確認してくだされば、すぐに体は楽になるはずです。」

「……はい。」

返事の声には慎ましさが込められていた。

「どうりで『検診は必要ない』という人に会って来いと仰った理由があったんですね。全身がどうやってできているのか本人はわかっていないのに、どうしてルイーゼ嬢だけこんなふうにしてしまったんです？」

「そ、それはですね……明らかに半時ほど過ぎた頃に、ヘンドリックが邪魔しに来て中断されたんですよ。」

「いいえ、答えないでください。話さなくていいです。お願いですから。少なくとも今日は、私の言葉には何も返さずいてください。」

「……」

ロビンはピンセットで彼女の唇を消毒し、軟膏を塗った。

治療を終えた彼はピンセットを置き、眉をひそめた。

「うわ……ほんとにひどい。これじゃほとんど噛みちぎったレベルですよ。ちゃんと適度に力を抜くとか、我慢するように言われませんでした？」

「たまにちょっと離れて、また……」

「もう私が口を縫って差し上げますよ。」

「……はい。」

ルイーゼの腫れは翌日まで続いた。

団員たちは皆、彼女と目が合うたびに不審そうな顔で彼女の唇をちらっと見たが、すぐに顔を赤らめて視線をそらしたり、咳払いをしたり机を拭きながら席を離れていった。

「……」

朝食の席で向かい合って座っていた彼女を見つめていたマクシオンが、いつもの半分も食べずに席を立った以外は、普段と変わらない一日だった。

「ルイーゼ嬢、フェリス商団でも限定で供給される高級リップバームです。保湿力が高い製品なので、お役に立てるかと。」

「ありがとうございます。でもこういった高級品って、ここ支部では売っていないようですが……。」

「少しだけ首都に行ってきました。」

「え？」

「心配しないでください。正体はきちんと隠して行ってきたので、誰にも気づかれませんでしたから。」

「……」

ルイーゼは、エドワードが自分が思っていた以上にずっとすごい人物であることを改めて実感した。

すべてを悟った。

彼の魔法についても、そしてキスについても。