こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

113話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 母親
寝室で眠っていたドフィンは、外から誰かが近づいてくる気配を感じて目をぱちっと開けた。
すぐに時間を確認すると、午前1時だった。
この時間に誰かが来るとは思えず、とりあえず警戒を強めた。
息を潜めて待っていると、やがて誰かが部屋の扉を軽くノックした。
「殿下、ベンです。」
「入れ。」
ベンの声を聞いたドフィンは緊張を解いてベッドから降りた。
寝るときに脱いでいた上着の上から黒いガウンを羽織り、ゆっくりと窓辺へ歩いていった。
「お休み中だとは思いましたが、いつでもすぐに報告せよとの命令で駆けつけました。」
無表情だったドフィンの目元にたちまち炎が灯った。
彼は顎を撫でながら目を鋭く輝かせた。
最近、時間に関係なく「報告せよ」と言われたのはただ一つのことだけだった。
「ルシファーを捕まえたか?」
「はい。ただ今監獄に収監したとの連絡がありました。」
「行こう。」
ドフィンは迷いなく横に置いていた剣を手に取り、部屋を出ていった。
ルシファーに会いに向かう彼の眼差しは、まるで車が凍りつくような冷たさだった。
エスターが来てから、ほとんど見られなかった表情だった。
戦争に出る直前に見せていた、どこか悲しげな雰囲気を感じて、隣を歩くベンも緊張した。
「殿下……。もしよろしければ、剣は私がお持ちします。」
「なぜ?」
ドフィンが振り向いてベンを見つめた。
ただ見つめられただけでも体がすくむような感覚を覚えながら、ベンは唾を飲み込んだ。
「怒りを抑えきれずに斬り殺してしまうと仰ったら、困りますから。」
「……それもそうだな。」
ドフィンも自分で考えてもその可能性は高いと思い、わずかに苦笑いしながらベンに剣を渡した。
牢獄に到着したドフィンは、拷問室の前にぴたりと立ち、椅子に縛られているルシファーを見下ろした。
「この野郎か?」
「はい。暴れ続けていましたが、今はようやく大人しくなりました。」
家臣の報告を受けながら、ドフィンは静かに目を細めた。
暗闇だけが満ちていた監獄に赤い灯火が灯ると、影が浮かび上がった。
ドフィンの大きな影は、ルシファーを完全に覆い、危険なほどにそびえ立っていた。
「目隠しを外せ。」
低い声とともに、彼の目元に巻かれていた黒い目隠しが外された。
ルシファーは焦点を探そうと目をぱちぱちとさせながら、怯えた顔で周囲を見回した。
一目見ただけでもただならぬ雰囲気を感じさせるドフィンと、その背後に立つ騎士たちまで、ここが自分の思うような場所ではないと理解し、できる限りへりくだって言った。
「ぼ、僕に何のご用なのか教えていただければ、最大限協力します。助けてください、お願いです。」
ドフィンはルシファーの言葉など聞く気もない様子で、ゆっくりと歩み寄った。
「生きたいか?」
「も、もちろんです。」
そして体をすくめてルシファーの目を見た。
怒りで深く染まった緑の瞳を見て、ルシファーは自分でも気づかぬうちに震え始めた。
「じゃあ質問には答えろ。真実だけを話せ。」
ルシファーは死を覚悟しているかのように背筋をピンと伸ばした。
家臣たちが椅子を持ってきて、ドフィンはルシファーを尋問するためにその上に大きく足を広げて座った。
ドフィンがじっと見下ろすだけでも、ルシファーには大きな圧迫となり、ついに耐えきれず震え出した。
「ハルスタルの貧民街にかなり長くいたんだろう?」
「……はい。」
久しぶりに聞いたハルスタル領地の名前に、ルシファーは驚いて体をびくっと動かした。
「14年前、お前がそこに一人の少女を連れて行ったと聞いた」
「14年前だなんて……。」
まさかスラム街で物資を盗んだことで捕まったのかと思ったが、「14年前」という言葉に理解が追いつかなかった。
「とても昔のことで……。私はあの村に行ったのが一度や二度ではないので、すべては覚えていません。」
「くだらないことを長々としゃべるな。」
ドフィンはその中の一人がエステルだったと思い至り、怒りを抑えきれずに、ルシファーが座っている椅子を足で勢いよく蹴りつけた。
「うわっ!!」
ルシファーは悲鳴を上げながら、椅子に縛られたまま冷たい床に転がり落ちた。
それでもどうにかして生き延びようと、混乱の中で必死に正気を保ち、頭を下げた。
「お願いです、あなた様のご命令を少しだけでも教えてください。どんな子どもをお探しなのか……」
「ダイヤモンドのネックレス。」
「え、それをどうして……?!」
ドフィンの一言に、ルシファーの目が見開かれた。
ダイヤモンドのネックレスは、ルシファーがハルスタルを離れるとき、唯一持ち出すことができなかった物だった。
一緒に暮らしていた祖母が毎日つけていたため、仕方なく諦めるしかなかった最も惜しい物。
それを思い出すと今でも鮮明だった。
「覚えています。ネックレスとそっくりな赤い瞳を持っていた使用人の子供です。」
“使用人の子供”という言葉に、ドフィンの忍耐が限界に達した。
ドフィンは剣を探そうと腰に手をやったが、ベンに預けたことを思い出し、深いため息をついた。
「ふう。」
今にも爆発しそうな姿のドフィンに皆が身じろぎした。
特にベンは剣を背中に隠した。
「その子どもをどこから連れてきたのか、その子の母親がどうなったのか、お前が知っていることをすべて話せ。」
「そ、それはですね……。」
ルシファーは倒れた状態で必死に目を開いた。
嘘をつくべきか、正直に話すべきか迷った末、生きるために真実を語ることにした。
「私は長い間、子どもを連れて売る仕事をしていました。そのときも子どもを拾いに回っていたんですが……よく行く領地の裏路地で初めて見る女性が現れました。」
今でも決して忘れられない理由は、ルシファーがその女性に一目惚れしたからだった。
「荒れ果てた裏路地にいるような人には見えませんでしたが、赤ん坊を連れて道端に倒れていました。」
緊張したルシファーは、カサついた唇を必死に舐めた。
「正直、最初は可愛いからちょっと遊んでみようという気持ちだったんですが……しばらくして死にました。」
「死んだって?」
静かに聞いていたドフィンが、思わず喉を動かして問い返した。
「はい。どこで負ったのか分からないほどひどい怪我で。出産のせいで、ちゃんとした治療を受けられなかったようです。死ぬと分かっていても。」
子どもを産む前にすでに命の危機があるほど大きな傷を負っていたとは……。
一体キャサリンに何があったのか分からず、もどかしい気持ちだった。
「その女性の目は、子どもと同じ赤紫色だったか? 首飾りもその女性のものだったはずだ。」
「はい、そうです。」
ルシファーはドフィンの様子をうかがいながら、慎重に答えた。
偶然キャサリンが死ぬのをそばで見守ることになったルシファーは、なんとなく責任を感じながら子どもを抱いた。
そしてキャサリンが残したピンクダイヤのネックレスも一緒に。
貧民街に着くやいなや、祖母に奪われてしまったが。
「傷って、いったい誰が……」
エスターがあんなに可愛がっていたのだから、キャサリンが生きていないはずはないと予想していた。
しかし、傷を負って死んだというのはあまりにも痛ましいことだった。
「そのほかに聞いたことは?傷のこととか。」
「はっきり会話を交わしたわけではありませんが……あ、でも死ぬ直前に意識もほとんどなかった状態で、何度かうわごとのように言葉を発していました。」
ルシファーが14年経ってもそれを覚えているのには理由があった。
「ブラオンズ?あの、帝国の四大家門の一つじゃありませんか?あれと同じ名前なので、今でも覚えています。」
「ブラウンスだと?」
思わず口から出た馴染みのある名前に驚いたドフィンが、ぱっと立ち上がった。
まさかこの状況でブラウンスの名前が出るとは理解できなかった。
キャサリンと関係があるなら、なおさらだ。
「これですべてです。本当にすべてお話ししましたので、どうか助けてください。」
ルシファーは今や鶏の糞のような涙をぽろぽろ流しながら、命乞いをした。
ドフィンは一瞬思考を止め、無表情で彼を見下ろしながら、どう処理すべきか考えた。
後で必要になるかもしれないから、殺すわけにはいかず、別の方法が必要だった。
その時、後ろに立っていた家臣がドフィンの横に来て耳打ちした。
「彼は昼間、ジュディ坊ちゃまの金貨を盗んだ者です。」
昼に報告を受けていたドフィンの眉間にはっきりとした皺が寄った。
「まさか私の息子にも手を出したのか?」
「違います!ただポケットからちょっと拝借しただけです。お金もそのまま持っています!!」
今やルシファーを見つめるドフィンの目つきは、虫けらを見るような冷たい怒りに満ちていた。
「お前を殺しはしない。代わりに――」
堪えていた怒りを爆発させるように、ドフィンは倒れているルシファーの首を靴で踏みつけた。
「お前の指で罪を償わせてやる。」
手や指を切り落とすのは、盗みを犯した者にしばしば下される刑罰だった。
ドフィンが家臣に合図を送ると、家臣は剣を抜いて前に出てきた。
「一本の指も残さず切り落とせ。血がたくさん出るだろうから死なせないように医者を呼んで見張らせろ。」
その命令を最後に、ドフィンは静かに監獄を後にした。
彼の背後からルシファーのすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。
暗い監獄を出て月明かりの下に立つドフィンの顔には、深い苦悩が浮かんでいた。
拳を握った手のひらは血が通わず、青白くなっていた。
エスダーの出自について知ったベンも衝撃を受けていたが、当のドフィンの方がさらに心配だった。
「陛下……。陛下の過ちではありません。」
「私もわかっている。」
ドフィンは自嘲気味に笑った。
自分自身に直接の過ちがないことは、彼もよく分かっていた。
「だが、変えることができたかもしれない。」
「陛下……」
「それが、つらいのだ。」
すべてを変えられたかもしれないという後悔は消えなかった。
経験せずに済んだはずの苦しみを味わったエスダーに申し訳なくて、胸が張り裂けそうだった。
ドフィンはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
やがて重い足取りで邸宅の中へと入っていった。
「寝室に行かれないのですか?」
「子どもたちの様子を少し見てから行く。」
背後でベンにそう言い、ドフィンはひとりで階段を上がる。
背中にはいつもとは違う、重たい雰囲気が漂っていた。
ドフィンはエステルの部屋がある3階に行く前に、まずジュディとデニスの部屋のドアを開けた。
ジュディはどうやら熟睡しているのか、毛布は床に落ちて、服もめくれ上がりお腹が丸見えになっていた。
無言で毛布を掛け直してから、ドフィンはデニスの部屋に向かった。
ジュディとは違って、デニスはしっかりと布団にくるまって眠っていた。
双子が眠っているのを確認したドフィンは、ようやく3階に到着した。
しかしエスダーの部屋の前で、すぐに中へ入れずに戸惑っていた。
「はあ……」
少し待ったあと、ようやく勇気を出してドアノブを回した。
開けるとすぐ、ベッドに横になり静かに眠っているエスダーの姿が見えた。
ジュディからもらったというウサギの人形を大事そうに抱きしめている姿が、いじらしくて可愛らしかった。
『別の人形も買ってやらなきゃな。』
男の子しか育ててこなかったせいで、こんなものが好きだとは思わなかった。
いっそ人形部屋を作ってやろうかと考えながら、部屋の中へ足を踏み入れた。
ドフィンがベッドの近くへ行こうとすると、いつの間にか現れたシュルが彼の足にまとわりついて、近づけないようにした。
「害を与えるつもりはない。」
驚いたことに、まるで言葉を理解しているかのように、シュルが横に転がった。
ベッドのそばまで来たドフィンは、じっとエスターの顔を見下ろした。
複雑な感情が彼の胸を締めつけた。
その時、布団の隙間からエスターの手がはみ出しているのが見えた。
もう一度毛布に入れてやろうと手を伸ばしたその瞬間、エスターがぱちっと目を開けた。
数回ぼんやりとまばたきをしたあと、夢ではないと気づいたエスターは目をこすりながら困ったように小声でつぶやいた。
「パパ?」
「起こしてしまってごめんよ。」
ドフィンはエスターを見て胸が締めつけられた。
自分が知っている事実を、どこまで話すべきか悩ましかった。
言わないでおこうかとも考えたが、エスター自身に選ばせる機会を与えるべきだと感じた。
「エスター。」
「うん、パパ。」
ドフィンは横たわっているエスダーの乱れた髪を耳の後ろにそっとかけて、優しく見つめた。
「君の母親が誰か分かったよ。実は君が捨てられたんじゃなかったんだ……その話、聞きたいかい?」
「お、母……ですか?」
まだ半分眠っていたエスダーの意識がふと戻った。
同時に、はっきりした瞳が大きく揺れ始めた。
『母親だって?』
他の人にとってはごく当然にある存在でも、エスダーには決して手に入らなかった存在、それが母親だった。
そんな彼女にいきなり「母親」と?
しかも捨てられたのではなかったと?
これは一体何の話なのか、胸がドキドキと鳴り響いた。
「……必要ありません。」
ようやく正気を取り戻したエスダーが口を開き、こう答えた。
ドフィンは、エスターの母の正体を明かした。
どうせ記憶にない母親。
捨てられたわけではないとしても、変わることはなかった。
いたずらに希望を持ちたくなかった。
「本当に?」
しかしドフィンは、エスターが本気で聞いていないことを見抜いた。
心配するなと、手を温かく握ってあげた。
エスターの目に不安の色が広がるのを見て、ドフィンは穏やかな声で話し始めた。
「お前に知っていてほしかったんだ。」
これまで受けてきた傷が消えることはなくとも、少しでも癒えるように。
捨てられたのではなく、お前の命を懸けて守ろうとした母親がいたということを、どうしても伝えたかった。
ようやく勇気を出したエスターは、涙をためて毛布をぎゅっと抱きしめ、髪の先まで覆ってしまった。
顔をすっかり隠したまま、静かに涙を流した。
「……誰ですか?」
ドフィンはこぼれ落ちたエスダーの手をやさしく握りしめた。
「まずは、私の妻だったアイリーンの話から始めなければならないな。」
昔の話を始めようとするように、わずかに声を震わせたドフィンの横に、いつの間にかシュラがそっと近づいてきた。
「アイリーンは由緒あるペクジャク家の娘だったが、両親が亡くなったとき、家門が没落し、唯一の家族である妹と一緒に苦しい生活を送っていた。」
トントンと一定のリズムでドフィンが背中を撫でると、エスダーは少し安心したようだった。
「その妹の名前はキャサリン。見かけは少し野暮ったかったが、とても優しくて思慮深い娘だった。自分の夢は孤児院を運営することだと言っていたな。アイリーンと結婚した後は、私がその夢を応援していた。」
おとなしく静かなアイリーンとは正反対で、活発で明るい雰囲気を持つとても魅力的な女性だった。
「お屋敷はとても良い環境だったし、キャサリンも幸せそうに暮らしていたみたいだ。でもある日、愛する人ができたって……子どもができたって言ってたよ。」
まるで自分とはまったく関係のない話のように続けるその言葉に、エスターは静かに毛布を握りしめた。
ドフィンは微笑みながら、エスターに少し体を寄せた。
「相手が誰かまでは言わなかったけど、子どもができてどれほど喜んでいたかは覚えてるよ。」
アイリーンは父親のことを心配して、母キャサリンに何度も尋ねた。
そんな時、キャサリンは当然のように、子どものために必要なものを準備していた。
「そんなキャサリンが突然いなくなったんだ。キャサリンを探してさまよっていたアイリーンは、次第に体調を崩していった。愛する妹を失ったからね……。僕もキャサリンを探す努力は惜しまなかった。しかし、当時は探すことができなかった。それが14年前のことだ。」
ドフィンは申し訳ない気持ちから、しばらく言葉を止めた。
「何があったのかは分からないが、キャサリンがどこかに行って子どもを産み、その時に致命的な傷を負っていたということか。」
エスダーの目は真っ赤になっていた。
まつ毛の間に小さな涙の粒が滲んでいた。
「結局、子どもを産んですぐに亡くなったんだ。」
「……そうなんですか?」
「そのキャサリンが、お前の母親なんだ。」
まさかという表情で聞いていたエスダーは、信じられないというように目を大きく見開いた。
「嘘でしょう?」
「これを見てごらん。ハルスタルのスラム街で見つけたんだ。お前の首にかかっていたこのネックレス、これはアイリーンのものだったんだ。」
ドフィンはやって来る途中、部屋に立ち寄って持ってきたダイヤモンドのネックレスを取り出した。
エスターははっとして、自分の瞳の色と同じピンク色のダイヤモンドネックレスを見つめた。
「お前を連れてきたあと、お前が育ったという貧民街に行ったとき、偶然このネックレスを見つけたんだ。あのとき初めて気づいたんだ。」
どう受け止めるべきか混乱して、頭の中が複雑になった。
だが信じたいエスターは、小さな声で尋ねた。
「私は……捨てられたんじゃないんですか?」
ふと、以前ヴィクターに押さえつけられたときに感じた既視感がよみがえった。
本当かどうかもわからないという思いに、エスターの目に涙がいっぱい溜まった。
泣かないようにと、しっかり唇をかみしめてみたが、意志とは関係なく涙がぽろぽろと頬を伝った。
見ているだけでも胸が張り裂けそうな様子に、ドフィンは自分の方がつらそうにしながら涙をぬぐってあげた。
「見捨てたなんて、とんでもない。命が危ない状況の中でもお前を産むために、どれだけお前を大切に思ったか。お前の母さんは絶対にお前を捨てたりしなかった。」
「……っ」
ついに切ない嗚咽が漏れた。
エスダーの両目からは絶え間なく涙が流れた。
長い間こらえていた感情が、とうとうあふれ出たのだった。
『母親もいないくせに。』
『お前は孤児だろ。』
スラム街や神殿で何度も耳にした言葉。
後には何とも思わないほど慣れてしまっていたが、それでも明確な傷として残っていた。
誰にでもいる「お母さん」が自分にはいないということを、初めて切実に感じた瞬間は、スラム街で物乞いしていた時だった。
市場に出て行って物乞いをしながら一日を過ごしていた頃、他の子どもたちは母親の手を握って帰っていった。
その光景を見ながら、ひどい喪失感に襲われた。
なぜ自分だけが捨てられたのか、なぜ自分を捨てたのか。
そんな思いに沈んでいたが、神殿に行ってからは忘れていた。
生まれた瞬間から存在そのものを否定されていると感じ、自信を持てずにいた。
けれど、捨てられたのではなかったなんて。
少なくとも一人の人が、自分が生まれたことを喜んでくれたという事実が、エスターを激しく泣かせた。
「私……愛されてたんでしょうか?」
震える声で尋ねるエスターを、ドフィンが優しく抱きしめた。
「もちろん。」
ドフィンの肩に、エスターのあふれ出た涙が瞬く間に染みこんでいった。
その涙があまりにも痛ましくて、ドフィンはエスターをさらに強く抱きしめた。
その間に溜め込んだすすり泣きをすべて吐き出すように、長い間泣いているエスダーをドフィンは優しくなだめていた。
しばらくして、泣き疲れてもうこれ以上涙も出なくなったころ、エスダーが鼻をすすりながらドフィンに聞いた。
「じゃあ……額縁で見たあの綺麗な人が……私のママなんですか?」
「そうだ。幸いなことにキャサリンの絵が何点か残っていたんだ。」
アイリーンの部屋で見た綺麗な人が自分の実の母親だったという事実は、まるで夢のようで、簡単には信じられなかった。
もう一度顔を見たくて、ドフィンが外出したらこっそり見に行こうと思いながら、彼女はそっとつぶやいた。
「私を産む前に傷を負ったっていうのは、誰がやったんですか?」
「これから探さないとな。それが誰であっても、代償を払わせる。」
エスターを見る時とはまったく違って、ドフィンのまなざしが鋭く変わった。
子どもを妊娠しても逃げなければならなかった理由が、キャサリンが会っていた男への疑念によるものなら。
ブラウンズの名前が出たことを手がかりに追跡することも考えたが、今のところエスターには話さなかった。
「教えてくれてありがとうございます。」
初めて知った“母”という存在も、ドフィンとの関係もすべてが驚きで不思議だった。
けれど、何よりも自分のためにこのすべてを知ろうとしてくれたドフィンの気持ちが一番ありがたかった。
「お父さんについても聞くと思ったけど……気にならないの?」
話せることは何もないが、エスターが尋ねると思っていたドフィンがふと問いかけた。
エスターは静かに首を横に振った。
父に何か事情があったとしても、聞きたくなかった。
今のエスダーには、誰とも替えられない「お父さん」がいるのだから。
「私にとってお父さんは、お父さんだけです。もう気になりません。」
ドフィンを見つめるエスダーの目には、深い信頼と確信が宿っていた。
「ありがとう。くっ……」
ドフィンはまた鼻の奥がつんと痛むのを感じ、エスダーに見られないように急いで顔をそらした。
カーテンの隙間から差し込む淡い月明かりが、部屋の暗がりにいた2人をやさしく照らしていた。





