こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
80話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 虚無の後継者
伝説の秘薬、エリクサーは間違いなく至高の価値を持つものだった。
手に入れることも難しく、作ることもまた極めて困難。その調合には、特定の環境でしか現れないマンドラゴラを採取し、そこからさらに厳格な選別を重ねなければならなかった。それ以外の材料も、一つひとつが大陸全土を捜索しても入手困難なものばかりなのは言うまでもない。
さらに、腕の立つ錬金術師が傍らに張り付き、魔力を繊細にコントロールしながら調合を進めなければならないため、他人が真似することなど事実上不可能だった。
「他の霊薬のように、多くの人が手軽に使えるものではありませんね」
いろいろな方法を試してはみたが、結局のところ、最終的に手に入ったのはほんの数本だけだった。
「死にかけた人間すら完全に救える薬なのです。簡単に量産できるほうが、おかしいですよね……」
ユリアは手元の一瓶を見つめた。
それでもこれは、高位の神官――あるいは今や“聖女”と呼ばれるリリカ以上の強大な治癒力を秘めているかもしれない代物だ。いつ来るかもわからず、そもそも来てくれないかもしれない神官を無力感の中で待ち続ける必要がなくなる。そう考えれば、この薬の価値は計り知れなかった。
「それでも、以前ギルド長様がおっしゃっていたことを考えてみたんです。致命傷を負って死にかけている『一人』を救うのがどれほど難しくても、そこに固執するより、少し効果が落ちても『複数人』を確実に治療できる薬を作るほうが、時には多くの人々を救えるのではないか、と」
そうして、ユリアがダニエル錬金術師と共に彼女なりの試行錯誤で見つけ出した解決策が、今、目の前にあった。
「回復薬(ポーション)が完成しました」
それは、エリクサーの濃度をあえて薄めることで誕生した薬だった。
飲むか、あるいは傷口に直接塗れば、まるで高位神官が高度な治癒魔法を施したかのように、瞬く間に傷が回復していく。裂けた皮膚が吸い付くように塞がり、その場所に新しい肉が急速に再生した。
『伝説の薬草であるマンドラゴラの濃度は下がったけれど、その代わり、一緒に調合した他の薬草たちがそれぞれの成分を最大限に発揮できるように調整したの』
単にエリクサーの治癒力を弱めただけの粗悪品ではない。濃度を下げる代わりに、それを補って余りある別の効能を持つ薬草を絶妙な比率で混ぜ合わせたのだ。
「特に魔物相手の危険な戦場では、この即効性が何より役立ちそうですね。お疲れさまでした、ダニエル錬金術師」
「……ギルド長こそ、本当にお疲れさまでした」
眼鏡の奥の目元は隠しきれないほど赤く充血していたが、それでもダニエルは穏やかに、そして誇らしげに笑っていた。まるで、生涯の悲願をこの手で果たしたかのように。
「……そんな顔をしないでください。私が何かを成し遂げたわけではありません」
ユリアは慌てて首を横に振った。それは単に、彼の苦労を労うためだけに言った言葉ではなかった。もし前世の記憶を持つ彼が自分を訪ねてきてくれなければ、この世界に医薬産業という概念が産声をあげることすらなかっただろう。薬によって多くの人々が救われ、人生が変わったと喜ぶ姿を見られるようになったのも、すべては彼の執念の賜物だ。
「医薬産業がここまで発展できたのは、すべてダニエル錬金術師のおかげです」
「すべて、ですか? とんでもない。今回の回復薬だって、元はといえばギルド長の発想ではありませんか。エリクサーを完成させて終わらせず、そこからさらに大衆のための別の薬を作るなんて。私はエリクサーを完成させた悦びに満足してしまって、そんな応用は思い浮かびもしませんでしたよ」
「それじゃあ……みんなで力を合わせて頑張った成果、ということにしましょうか?」
ダニエルはどこまでもユリアを持ち上げるように言ってくれたが、実際には、ユリアの側には前世の知識からくる「エリクサーをどう実用的に応用するか」という視点が必要だったに過ぎない。
ユリアがここまで回復薬の完成を急いだのには、理由があった。
少し前、ジキセンが魔物討伐へ向かうという知らせが彼女の元に届いたのだ。
フリムローズ公爵の全面的な支援のもと、ジキセンは武闘大会で失墜した汚名を挽回するため、フリムローズ騎士団を引き連れて魔物討伐の遠征へ出発したという。
ユリアは本当なら、騎士団の面々が必要な時にいつでも使えるよう、エリクサーを抱えきれないほど渡してあげたかった。けれど、現実的にエリクサーの量産は不可能だ。その妥協点として死に物狂いで開発されたのが、この量産型の回復薬だった。
『どうしてあんな無茶をするの? 剣の腕だって、以前ほどではないはずなのに。自分の体に起きている異常に、本人が気づかないはずもないのに……』
ユリアの脳裏に、一つの冷徹な推測がよぎる。
『まさか、騎士団を自分の盾にして、実績だけを作ろうとしているの?』
おそらく、実力の落ちた自分は安全な後方に退き、騎士団に大半の危険な仕事を押しつけて功績だけを横取りするつもりなのだろう。そこにどれだけ多くの血が流れようとも、あの身勝手な兄なら平然としていられるはずだ。
それでも、後から耳に入ってきた追加の知らせは、ほんの少しだけ救いのあるものだった。
『危険な状況ではあるけれど、“聖女”と呼ばれているリリカが同行している……』
リリカが戦地に赴くのなら、最低限の治療体制は整うかもしれない。ジキセンがどうなろうと知ったことではなかったが、誇り高きフリムローズ騎士団の面々は別だった。
『武闘大会の惨敗もあったし、人々が彼に不満を抱くのは当然だわ。でも……』
今のジキセンの実力では、戦場でどれほどの被害が出るか予測することすら難しかった。フリムローズ騎士団は、これまで何度もジキセンの圧倒的な武勇と共に戦場を駆けてきた。主力であり絶対的エースだった彼が本来の力を発揮できないとなれば、戦術の前提が根底から覆り、今までとはまったく違う過酷な戦いになるはずだ。
『神官が同行しているからって、人が死なないわけじゃない』
だからこそ、この手の中にある回復薬が必要だった。
エリクサーなら瀕死の人間すら救えるが、その一瓶を作るためには莫大な時間と繊細な努力が必要になる。それならば、多少効力が落ちたとしても、小さな傷の段階ですぐに使って二次被害を防ぎ、一人でも多くの人間が戦場で使える回復薬のほうが、はるかに価値がある。
「これは何ですか、お嬢様?」
心配が極限に達したユリアは、回復薬が完成するや否や、出発直前のフリムローズ騎士団の何人かを密かに呼び寄せた。
「新しい回復薬よ。飲んでもいいけれど、外傷なら直接傷口に塗ったり振りかけたりしたほうが効果が高いわ」
「え? 傷が、その場で治るんですか?」
フリムローズ騎士団がユネト、ひいては実の娘であるユリアに接触していることがフリムローズ公爵の耳に入れば、余計な摩擦を生む。だからこそ極秘裏の招集だったが、彼らはユリアへの敬意から、忙しい討伐準備の合間を縫ってすぐに駆けつけてくれた。
「そんなにご心配なさらないでください。俺たち、ちゃんと魔物を倒して、全員で戻ってきますから!」
討伐に同行する神殿の神官はごく少人数で、いくら“聖女”と呼ばれるリリカがいるとはいえ、彼女一人で騎士団全員の命を支えられるわけではない。だからこそユリアの不安は拭えなかったが、彼らの屈託のない明るい表情を見ていると、この薬を作って本当に良かったと心から思えた。
「どうか気をつけて。怪我なく、無事に戻ってきてね」
「これはまた……小公爵様(ジキセン)なら逆立ちしても言わなさそうな、温かいお言葉ですね」
“代用の回復薬”という名目ではあったが、彼らにとって最先端の薬学はまだ馴染みの薄い分野だ。それでも騎士たちは、まるで至高の宝物を扱うように、慎重に回復薬の瓶を懐へとしまい込んだ。
「俺たちの自慢のお嬢様が働いているユネト製の薬なら、これ以上ないほど心強いですよ」
「まあ、そうですね。それに、いつもの討伐なら小公爵様の後ろについて行って、周囲の雑魚を掃討していれば十分ですから」
「俺たちも無理はしませんよ」
口々に笑う騎士たち。そう、以前までの討伐なら、それで済んでいたはずだった。暴れ回る絶対強者・ジキセンの後方支援をするだけで、勝利は約束されていたのだから。
『でも、今回は違う。あいつ、自分の衰えを隠すために、あなたたちをただの盾代わりに使うかもしれないのよ』
ジキセンの決定的な実力低下を知らないからこそ、騎士たちの言葉はあまりにも楽観的だった。もし騎士団の大半が同じように考えているのだとしたら、今回の討伐で壊滅的な被害が出るという最悪の予想も、決して大げさではないのかもしれない。
「武闘大会で怪我もされていましたし、余計に心配なのです」
「お嬢様を公爵家から追い出すような真似をしたことには、今でも腹が立っていますけど……それでも、あの人が剣を振るうのだけは本物ですからね。まさか討伐で不覚を取るなんてことはないでしょう」
「俺たちは、せいぜい同行して……その、雑用でもこなしますよ」
ジキセンから“剣の祝福”が失われたなどと、この場で話したところで信じてもらえるはずがない。だからこそ、ユリアは何度も念を押し、彼らが決して油断しないよう注意を促すことしかできなかった。
「本当に気をつけて。何よりも、あなたたちが誰一人欠けずに無事でいることが、一番大事なのだから」
そうしてジキセンとフリムローズ騎士団が討伐の遠征へと向かってから、どれほどの月日が流れた頃だろうか。
ある日、ユリアの元に、世界のすべてがひっくり返るような思いもよらない凶報が飛び込んできた。
「ジキセンお兄様の……片脚が、魔物に切り落とされた……?」
実力が落ちていたとはいえ――いや、むしろそんな状態だからこそ、普通なら慎重に立ち回るはずだった。それなのに、他の騎士団員はほぼ無傷で、前線にいた彼だけが片脚を失う大惨事になったというのか。
いったい、あの戦場で何が起きたというのだろうか。
時を少し遡る。
武闘大会でジキセンが名もなき外国の騎士に敗北したのは、単にコンディションが悪かったからだ――。
ジキセンの体から“剣の祝福”が失われ、実力そのものが底辺まで落ちていたとは夢にも知らないフリムローズ公爵は、そう独断していた。それも無理はなかった。ある日突然、家門の誇りである祝福の力に異変が起きるなど、この大陸の誰も想像すらできなかったのだから。
「いつまでも部屋で腐ってないで、魔物討伐にでも行ってこい」
「え? ですが、私はまだ……」
「危険な任務ではあるが、その分、市井の連中から手っ取り早く称賛を得られる仕事だ! 公爵家の威信のためだ、これくらいはやっておけ!」
危険とはいえ、大衆には「命を賭した人助け」として映る任務だ。だからこそ、武闘大会で地に落ちたプリムローズ公爵家への反感も、多少は和らぐだろうという公爵の浅はかな思惑があった。少しでも早く息子の名誉を回復し、都合の良い道具へと戻すために。
そんな父親の透けて見える意図を完全に理解していたからこそ、ジキセンは拒絶できなかった。
「……承知しました」
彼は傲慢な性格ではあったが、決して決定的な愚か者ではなかった。ジキセン自身、自分がこれまで世界を舐め腐って堂々と振る舞えたのは、その背景にある家柄ではなく、すべて己の肉体に宿る“剣の祝福”があったからだと痛いほど理解していたのだ。
つい先ほどまで、公爵の口から「討伐」という単語を聞いただけで、恐怖で全身の血が引き、体が小刻みに震えるほどだった。どうやって平静を装い、毅然とした態度で了承の返事をしたのか、自分でもまったく覚えていないほどに。
けれど……自分の力が普通の騎士以下にまで衰えていることを、この厳格な父親に知られるわけにはいかなかった。
公爵は「討伐へ行けば、公爵家の名において十分な物資と兵力を支援する」と満足げに約束していたが――ジキセンはそんな父親を冷めた目で見つめ返した。公爵はなおも、「討伐で圧倒的な成果を出せば、以前の名声などすぐに取り戻せる」「すべてはお前の将来のためだ」と熱弁を振るい続けている。
将来のため? 父親だから息子の身を案じているとでも?
――そんな生温かい感情が、フリムローズ公爵にとって大事なはずがない。
この男は、かつて実の娘であるユリアを、そして自らの妻ですら容赦なく家から追い出した冷血漢だ。フリムローズ公爵にとって、「血縁」という言葉には何の価値も意味もなかった。彼にとって重要なのはただ一つ、自分に利益をもたらし、都合よく家の駒として動いてくれる有能な存在かどうかだけだ。
『どうして俺だけが力を失った……? なぜリリカは、今でも周囲から“聖女”として崇め奉られているんだ? もし、俺の祝福の力が完全に消え去っていることが公爵に知られたら……俺も、用済みとして捨てられた昔のユリアみたいになる』
ジキセンは自室に戻るなり、狂ったように乱暴に髪をかき上げた。この冷酷な世界で信じられるのは、結局、自分自身の武力だけだったはずなのに。
『母上も、妹も……』
誰も、もうこの公爵家にはいない。自分一人だけを、この底寒い檻に取り残して。
『みんな、あの腐りきった家をさっさと捨てて出て行ったのに……!』
今でも、あの日の決別の光景が悪夢のように脳裏にこびりついて離れない。
――「これ以上一歩でも前に出るなら、その瞬間からあなたを私の息子だとは思いません」
――「……今、何と?」
――「そう言ったのです」
怒りすら感じさせないほど、どこまでも静かで冷徹な響きだった。まるで、最初から自分を息子だとも思っていなかったかのような――それは、実の母親の声だった。
『祝福の力が突然消えたんだ。一時的な肉体の異常に決まっている。何かの拍子に、また突然帰ってくるはずだ……そうだろ? 一時的な異常に過ぎないはずだ!』
ジキセンは狂気的な思考で、必死に自分を納得させようとしていた。
『今の俺の純粋な実力って……ただの、ありふれた普通の騎士一人分程度なのか……?』
価値がないと判断した瞬間に、実の娘すら躊躇なく切り捨てる父親の背中を見て育った。だからこそ、今の自分の無価値さが恐怖で仕方がなかった。その一方で、リリカは相変わらず周囲から「聖女」として最高の評価を得続けている。今さら父親に「リリカの力はどこかおかしい、偽物だ」などと言い出したところで、負け犬の嫉妬だと一蹴され、誰も信じはしないだろう。
『成長の祝福が必要なユネトも順調に事業を拡大しているし、ユリアの身にも特に異常は見られない。……このままだと、三兄妹の中でおかしくなったのは俺だけってことになるじゃないか』
追いつめられたジキセンは、今回の遠征にフリムローズ騎士団を可能な限り大量に連れて行くことに決めた。
理由は明白だった。実際に最前線で魔物と血を流して戦うのは彼らに任せ、自分は安全圏からその果実だけを掠め取るためだ。
社交界のくだらない連中は、今は自分を格好の笑い者が見つかったと嘲笑しているだけだ。だが、この討伐で一気に魔物を殲滅して凱旋すれば、少し時間が経てばまた、手のひらを返して「小公爵様」と媚びへつらい、頭を下げてくるようになるはずだ――そう思い込みたかった。
『この場さえ、今さえ乗り切ればいいんだ』
もちろん、ジキセンもこれが薄氷を踏むような無謀な賭けであることは理解した上で、魔物討伐を引き受けていた。出発前、公爵が探るような目でジキセンに声をかけてきた。
「お前、まさか妹に妙な嫌がらせなんてしてないだろうな?」
「まさか。神殿の後ろ盾を持つ高貴な聖女であるリリカに、ただの騎士に降格しかけている俺が、どうやって圧力をかけると言うのです」
「……そうか。ならいい。あの子、最近どうも何かを怯えて隠している様子だったからな」
「リリカが、ですか?」
ジキセンは、皮肉を込めて思わず鼻で笑ってしまった。
もっとも、かつての自分もリリカを「守るべき哀れで可愛い妹」と同じように考えていた時期があった。だが、武闘大会の夜以降、リリカが自分に対して明確な殺意と敵意を向けるようになった今となっては、もはやそんな甘い幻想は微塵も抱いていない。
『だが、リリカが同行しているなら、万が一戦場で大怪我を負っても致命傷にはならないだろう』
自分はあいつの「最大の弱み」を握っているのだ。バラされたくなければ、リリカは戦場で結局、自分を全力で治療し、協力せざるを得ない――。
そこまで思考を巡らせ、ジキセンはようやく、冷え切った胸の奥から少しだけ安堵の息を漏らすのだった。