こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
87話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 崩壊する聖域
リリカが姿を消して間もなく、大歓声とともに騎士団の叙任式が始まった。
帝国でも名高い騎士団たちが、それぞれの実力を誇示するように整然と動き始める。これほどの実力者たちともなれば、互いに張り合い、火花を散らすのも当然だ――そんなふうに観客たちが感嘆の声を漏らしていた、その時。
「はぁ……」
壇上の片隅で、エノク皇太子は思わず深いため息をついていた。
「殿下、大丈夫ですか? いつもよりお疲れのように見えますが」
側近の一人が心配そうに声をかける。
「……何でもない」
「ですが……」
「疲れていようと、今は休むわけにはいかない。集中しろ。まもなく皇帝陛下がお出ましになる」
エノクの言葉通り、騎士団叙任式は滞りなく進んでいた。あとは最高権力者である皇帝の演説が終われば、式典も終盤へ入る。
「フィオステ帝国の騎士団が、これほど見事な勇姿を見せてくれるとは。実に頼もしい限りだ。――我が帝国の誇りである」
壇上では皇帝ジェステラドの重厚な演説が続き、エノクは表向きは厳粛な表情を保ちながらも、内心では立っているのがやっとのほどの強い疲労を感じていた。
先ほど側近が察した通り、彼は最近かなり無理を重ねていたのだ。ユリアと共に紅河一族と呪術の研究を続けていたが、ここしばらくは多忙を極め、睡眠時間を削るしかなかった。
それでも、確かな成果は出ていた。
公式には存在すら認められていない、秘匿された禁忌の力『呪術』。体系立てて教える場所はなく、まともな研究も進んでいない。金も権力も持つ皇太子であるエノクですら、その実態を掴むのは容易ではなかった。
苦労して集めた絶版の文献や神殿の禁書にも、意図的な妨害かのように偽情報ばかりが混じっており、有望だった研究さえことごとく迷走させられていたほどだ。
そんな絶望的な状況でも、エノクの執念だからこそここまで辿り着けた。
『本物の呪術を一度でも見られれば、もっと理解が進むはずなのだがな……』
実物を一度も見たことがないまま研究するというのは、まるで本物の彫刻を見たこともない人間が、間違った解説書だけを頼りに彫刻を学ぼうとしているようなものだった。
『だが、最初に比べれば、だいぶ感覚は掴めてきた。もし呪術がこの場に強く留まっているのなら、集中すればその禍々しい痕跡を捉えられるかもしれない』
エノクがそう考え、意識を研ぎ澄ませた、まさにその瞬間だった。
――ドォン!!
退場していた騎士団の待機区域の方角から、突如として激しい爆発音が響き渡った。
そして、それは一度きりでは終わらない。
――ドガァン!!
聞き間違いではないと証明するように、さらに狂暴な轟音が皇宮を揺らす。
悲鳴を上げる貴族たち、呆然と立ち尽くす兵士たち――会場は一瞬で混沌とした混乱に包まれた。
その瞬間、疲労でどこか鈍っていたエノクの意識が、冷徹な刃のように鋭く研ぎ澄まされる。
「全員、その場を動くな!」
彼は騎士団長と共に、即座に事態の収拾へ動き出した。騎士団叙任式という、帝国で最も厳重に警備されているはずの場で何が起きたのかはまだ分からない。だが、下手に人々を動かせば、さらなる二次災害とパニックを招く危険があった。
式典運営のために待機していた騎士たちが一斉に動き出す中、エノクも彼らを指揮するため歩みを進めた。同時に、彼は全神経を爆発の起きた方向へ集中させる。
煙は上がっているものの、爆発音の規模に比べれば、宮殿の被害はそこまで大きくないように見えた。今のところ、異常な魔力の流れも感じられない。
『宮殿の一部が壊れた程度か。あの場所は人の集まる区域からは離れている。叙任式の準備中に、設備へ何らかの不具合でも起きたのかもしれないな』
致命的なテロには見えない。だが、それでも皇帝の安全確保が最優先だった。もしこの混乱に乗じて、皇帝を狙う本命の刺客が現れたら――。
『陽動の可能性もある。たとえ一時的でも、叙任式が中断された時点で十分な失態だ。後で徹底的に原因を調べ、責任を取らせねば』
すでに“帝国最強の剣”と称される皇帝の直属護衛騎士たちは、皇帝ジェステラドの周囲へ壁を作るように集結していた。さらに追加の護衛が到着しようとした、その瞬間――。
エノクの背筋に、心臓が凍りつくような言いようのない悪寒が走った。
それは魔力でも殺気でもない。ユリアと共に呪術の特性を調べていたからこそ察知できた、悍ましい「生命の変質」の気配。
「陛下に近づくな! 離れろ!!」
エノクの突如たる怒声に、護衛騎士たちが「は……?」と動きを止める。
「陛下へ向かう者を止めろ! たとえ帝国騎士であろうと、誰一人として近づけるな!!」
エノクの叫びが終わるか終わらないかのうちに――。
――ドォォン!!
皇帝へ駆け寄ろうとしていた、先ほど正門でリリカとすれ違ったはずの若い護衛騎士の身体が、内側から突如として大爆発を起こした。
先ほどのボヤ騒ぎとは比べものにならないほど濃く、黒ずんだ煙が凄惨な血生臭さとともに周囲を覆い尽くす。そしてエノクの目には、その至近距離での肉体爆発に巻き込まれ、生々しく引き裂かれて倒れる祖父――皇帝の姿がはっきりと映っていた。
エノクは即座に、煙が立ち込める皇帝のもとへ駆けつける。
『今のは何だ? 誰が、何を仕掛けた!?』
確かなのは、今この場で誰一人として信用できないということだけだった。
「誰も近づくな!!」
鬼気迫るエノクの絶叫に、周囲の貴族も騎士も息を呑んだ。彼の尋常ならざる威圧感に気圧され、誰も軽々しく動くことができず、その場で凍りついたように立ち尽くしていた。
『爆裂魔法じゃない。人間そのものが、生命力を燃料にして爆ぜたんだ』
つい先ほどまで威厳に満ちた演説をしていた皇帝が、地面へ無惨に崩れ落ちている。もしエノクが咄嗟に声を張り上げて周囲を遠ざけていなければ、皇帝は直撃を受けて即死していてもおかしくなかった。
「ま、魔力反応なんて何も感じなかったぞ!? これは一体何が起きたんだ……」
「テロだ! まずは皇帝陛下を治療できる高位の神官を呼べ!!」
「ですが、本日は皇太子殿下と陛下の命令で、神官の立ち入りを厳難に禁じていたはずでは……!?」
誰も皇帝の身体に近づけないまま、周囲では混乱した怒号だけが飛び交っていた。
少し離れた位置からでも、皇帝の容態は見て取れた。爆発に直撃したその身体は、四肢がねじ曲がり、見るも無惨な状態になっていた。
「ですが、まだ間に合うかもしれません……!」
あまりの惨状に、誰もが“もう助からない”という決定的な言葉を口にできずにいた。
その時、一人のベテランの護衛騎士がエノク皇太子へ慎重に進言した。
「で、殿下……陛下のお怪我が、あまりにも酷すぎます。ここから動かすのは危険かと……医務室までは距離もありますし、衝撃でそのまま……」
「今から神殿に神官を呼びに行こうにも、皇宮への出入りを全面的に禁じる命令が出ている最中です……」
ジェステラド皇帝の傷は、誰の目にも致命的だった。運び出す間も、治療の到着を待つ間もなく、このまま数分と経たずに息絶えてしまっても不思議ではないほどに。
「……最初から、伝統通りに叙任式へ神官を呼んで、祝福を受けさせていれば、こんなことにはならなかったものを」
絶望のあまり、ある貴族が思わずそう不満を漏らした。
誰もその言葉に返事はしなかった。だが、その沈黙は何より雄弁だった。
――なぜ神官の立ち入りを禁じたのか。そのせいで陛下が崩御される。
そんな無言の非難の視線が、一斉にエノクへと向けられているのを誰もが肌で感じていた。
そして、まさにその時だった。
「あっ、聖女様……! そうだ、休憩室に聖女リリカ様がいらっしゃるはずです!」
誰かがリリカの存在を思い出し、救いを求めるように声を上げた。その直後、息を切らした騎士が一人、彼女を誘導して会場へ駆け込んでくる。
「聖女様をお連れしました!」
「事故が起きたと聞きました。私にできることはありますか?」
幸い、先ほどの騒ぎの直後だったため、リリカはすでに休憩室を出る準備をしていたらしい。先ほどエノクの前で見せた感情的で不遜な態度など微塵も感じさせないほど、今の彼女は聖女らしい慈悲に満ち、異様なほど冷静で毅然としていた。
そんな彼女の救世主のような姿に、人々は思わず救われたような安堵の息を漏らす。
「聖女様、皇帝陛下のご容態が危険です! どうか、今すぐその神聖力で……!」
誰もが彼女に縋ろうとした、まさにその瞬間だった。
「誰も近づくなという命令は、まだ有効だ!!」
エノクが再び、鼓膜を破らんばかりの声で鋭く叫んだ。そして彼は、リリカを近づけさせないどころか、周囲で様子を見ていた貴族たちまでさらに後退させる。
「まずは、最初の爆発に巻き込まれた他の者たちの負傷状況を確認しろ。ここは私が診る」
その常軌を逸した命令に、場の空気はさらにパニックへと陥った。
他の誰でもない。瀕死の皇帝の実の孫であるエノク皇太子自身が、目の前にいる聖女による治療を頑なに拒んでいるのだから。そんな命令を下すなど、誰にも理解できるはずがなかった。
「殿下! このままでは陛下がお亡くなりになります! 一体何をお考えなのですか!?」
「護衛騎士が自爆した以上、警戒するのは当然です! ですが、それでも聖女様まで近づけさせないとは……もしや殿下は、陛下をこのまま……」
エノク皇太子と、皇帝の重傷に取り乱した周囲の人々は激しく対立していた。貴族たちは、リリカ本人が何も言わずとも、代わりにエノクへ凄まじい勢いで詰め寄っていく。
そしてリリカ自身は――この予測通りの凄惨な状況を、誰よりも楽しんでいた。
『ふふ、ここまで拒み続けて、もし皇帝がこのまま死んだり、惨めな後遺症でも残ったらどうするつもりなのかしら』
つい先ほど、あれだけ傲慢に自分と口論したばかりだ。この圧倒的な惨状を前にすれば、当然エノクはプライドを捨てて自分へ泣きついてくるものだと思っていた。
しかしエノクは、周囲の怒号などまるで耳に入っていないかのように、血に染まった衣服の懐を静かに探り、何かを取り出していた。
「皇太子殿下!」
周囲は焦りと苛立ちから彼へ声を荒げていたが、リリカだけは興味深そうに彼のその動きを観察していた。
――何をするつもり?
だが、その疑問もすぐに解けた。エノクが取り出したのは、透き通った液体が入った、小さな一本のガラス瓶。
『……まさか、ユリアの作ったあの回復薬?』
ジェステラド皇帝はいま、一刻を争う瀕死の状態だ。そんな絶望的な状況で、あんな平民の作った低級の回復薬を使うつもりなのか。確かに、その薬が魔物討伐で傷を治すという噂は聞いていた。実物を見るのは初めてだったが、リリカはすでにその効能について調べ終えていた。皇帝を狙うなら、その競合となる回復薬の効果すら知らないような間抜けな真似をするはずがない。
『可哀想に。何とか薬の成果を見せようとしているみたいだけれど、その程度の傷薬じゃ、到底再生なんて足りないのに。こんな大衆の面前で、無意味な悪あがきをするなんて』
リリカは、思わず口元から浮かびそうになった嘲笑を必死に押し殺した。
ユリアの回復薬は、あくまで一定範囲の外傷を治療する程度のもの。ジェステラド皇帝の受けた呪術による致命傷は、そんな生ぬるいもので治せるような状態ではなかった。
『もう長くはないわね。皇帝に残された時間も……』
リリカは喉まで込み上げてきた歓喜をぐっと飲み込む。
まさか、エノク皇太子がここまで追い詰められておきながら、頑なに自分を拒絶するとは思わなかった。
『でも、考えようによっては……私にとってはむしろ好都合かもしれないわね』
神官を冷遇しておいて、今さら頼るなんて皇太子としてのプライドが許さないのか。だからせめて、自分たちの推進する薬でどうにか延命しようとしている――そんなところだろう。
『このまま皇帝が死ねば、治療を拒んだエノク皇太子の完全な責任になるわ』
まさか、あそこまで愚かで頑固な人だったなんて。
リリカは、休憩室へ向かうふりをしながら、すでに“痛みを肩代わりする生贄の洪河一族”と“呪術の接続”の準備を完璧に終わらせていた。皇帝を強引に治療すること自体はいつでも実行できた。だが、わざわざ非難を浴びながら自分から動く理由はない。
ジェステラド皇帝の容態が悪化すればするほど、リリカにとっては都合が良いのだから。
「私が皇帝陛下を治療するには、エノク皇太子殿下のお許しをいただかないと、お側へ近寄ることもできませんわ……」
内心の濁った愉悦とは裏腹に、リリカはわざと今にも泣き出しそうな気弱な声を出し、この状況のすべての責任がエノク皇太子にあるかのように周囲へ印象づけた。その言葉を聞いた貴族たちが、再び「正気ですか殿下!」とエノクへ詰め寄っていく。
それを見ながら、リリカは胸の内で邪悪にほくそ笑んだ。
『そうよ、その薬で何とかしようとしているうちに、早く皇帝が死んでしまえばいいのにおじい様』
そうなれば、一気に形勢逆転だ。
たとえ以前、リリカが目の前でジキセンの脚を治せなかったとしても、あの時はただの辺境の魔物討伐戦での出来事。だが今回は違う。相手は帝国の皇帝なのだ。
しかも今回は、目撃者が少数の兵士だけではなく、帝国を動かす高位貴族たち全員が揃っている。彼ら全員が、最高の証人になる。
――エノク皇太子が、平民の女と作った薬の利権と、くだらないプライドのために聖女の治療を拒み、実の祖父である皇帝を無惨に死なせた。
そんな最悪の噂が、一気に帝国中へ、そして国外へ広がることになるだろう。たとえ後になって、命だけは繋ぎ止めたとしても、もし皇帝に重い後遺症が残れば同じこと。
今度は「皇帝を生かしただけの、無能で残酷した後継者」として、すべての政治的責任をエノクへ押し付けられる。その輝かしい未来を思い描きながら、リリカは胸の奥で熱く沸き立つ高揚を抑えきれなかった。
必死に悲劇のヒロインの表情を取り繕っていた、まさにその時だった。
「……え?」
予想もしなかった、世界の法則を覆すような光景を目にし、リリカの瞳が恐怖で大きく揺れる。
エノクがその細いガラス瓶の蓋を開け、皇帝の無惨な身体へと振りかけた。
それは普通の回復薬の姿をしていた。重傷の皇帝に振りかけたところで、せいぜい止血の応急処置程度にしかならないはずだった。
なのに――。
「こ、皇帝陛下の傷が……みるみる治っていくぞ!?」
効果が、格が、文字通り次元が違った。
この場で誰よりも状況を侮り、冷笑していたリリカにさえ、それははっきりと理解できた。エノクがその神の液体――『エリクサー』を注いだ箇所から、光とともに新しい瑞々しい肉が、生き物のように盛り上がって超高速で再生していたのだ。
骨が繋がり、焼け爛れた黒い傷口が消え去り、すでに機能を失って千切れかけていた四肢さえも瞬く間に元の形を取り戻していく。
まるで、皇帝の肉体の時間そのものが急速に巻き戻っていくかのようだった。
もはやそこにいるのは、爆発に巻き込まれて瀕死になった無惨な老人ではない。
エノク皇太子と、驚愕で声を失った人々の目の前に立ち上がったのは――。
つい先ほどまで壇上で堂々と、覇気に満ちた声で演説していた、あの健康で強靭な皇帝ジェステラドその人だった。
「こ、これは一体……どういうことだ……」
凄まじい静寂が皇宮を支配する。
誰も、自分たちの目の前で起きたあまりに荒唐無稽な光景を信じられなかった。ただ驚いたのではない。人間の理解の範疇を超えた圧倒的な現象に、脳の処理が追いつかず、完全に叩きのめされていたのだ。
「あり得ない……神聖力もなしに、こんなことが……」
貴族たちは隣の者と顔を見合わせ、もう一度血痕だけが残る健康な皇帝を見て、また顔を見合わせる。まるでこれが質の悪い夢ではないと確かめるように、人々は何度も何度も同じ動作を繰り返していた。
静まり返っていたその場に、やがて地鳴りのような歓声と、絶叫にも似た叫び声が響き渡った。
「ジェステラド皇帝陛下がご無事だ!!」
「陛下がお戻りになられたぞ!!」
「いや、厳密には“戻った”んじゃない! 皇太子殿下の神薬の力で、最初から死なせてなどいなかったんだ!!」
信じ難い本物の奇跡を目の当たりにした人々は、宮廷の礼儀も何もかも忘れ去り、狂ったように歓喜の声を上げた。興奮のあまり隣の貴族の肩を激しく叩き合う者までいたが、それを咎める者は誰もいなかった。
しかし、その熱狂と歓声の中心で――。
「……ふぅ」
エノクだけは、静かに安堵の息を吐いた。
彼が襲撃の直後にすぐエリクサーを使わなかったのは、決して躊躇していたからではない。呪術がどのような形で皇帝の肉体に作用しているのか、その痕跡を慎重に見極め、どのようにこの至高の薬を使用すべきか判断していたからだった。さらにエノクは、このパニックの隙を狙った“何か別の不穏な呪術の気配”による追加の暗殺事故が起きないか、全神経を尖らせて周囲を警戒していた時間でもあったのだ。
「まさか……本当に、エノク皇太子殿下が、神をも超える薬で陛下をお救いになったのか!?」
「さっき使ったあれは、ユネトの薬だったのか……? いや、我々はそんな凄まじい奇跡とも知らずに、皇太子殿下へなんという不敬で無礼な発言を……」
先ほどまで「早く聖女に任せろ」「薬に執着して陛下を殺す気か」とエノクをヒステリックに責め立てていた貴族たちは、今さらながら自身の処罰を恐れて真っ青になり、狼狽した。
「信じられん……私が今見ているのは幻覚ではないのか?」
「薬で人を癒やす話は聞いていた。だが、これは治癒などというレベルではない。完全に肉体が再生している……」
彼らは、壁際に立ち尽くすリリカの顔色を恐る恐る窺いながら、声を潜めて囁き合った。
「これは……神殿の高位の神官たちが全員束になって、命を懸けて祈祷を捧げても不可能なレベルの、本物の神の奇跡では……」
「神殿の存在意義が、これで完全に……」
誰かの震える声に、周囲は誰も否定を返せなかった。
そして、今この光景を、世界で最も信じられずに絶望していたのは、他でもない“聖女”と呼ばれるリリカ本人だった。
一瞬で致命傷の傷を完全に塞ぎ、しかも後遺症の痕跡すら残さない完璧な治癒効果。洪河一族の呪術の粋を集め、ジャコブの“痛みを移す能力”を極限までブーストさせたとしても、ここまで深刻な四肢の欠損と内臓の破壊を完全に無へと帰すことは絶対に不可能なのだ。
それなのに。今、自分たちの目の前で起きたこの神の領域の現象は、一体何なのか。
「あり得ない……そんなはずは、ないわ……」
リリカは幽霊でも見たかのように青ざめた顔でガタガタと呟いた。
だが彼女が激しく動揺する間にも、ジェステラド皇帝の呼吸は次第に力強い落ち着きを取り戻していく。衣服こそ夥しい血に染まったままだったが、それでももう致命傷どころか、かすり傷一つ残っていないことが誰の目にも明らかだった。
「薬だけで……人間を、ここまで治せるというのか……」
「はぁ……」
エノク皇太子は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
平静を装ってはいたものの、ユリアのエリクサーがもたらしたあまりの超常的な効果に、実のところ彼自身が最も衝撃を受けていた。遅れて恐怖と興奮で震え始めた右手を、彼は左手でそっと押さえつける。
しばらく目を閉じて呼吸を整えた後、再び開かれたエノクの瞳には、すでに冷徹で鋭い、支配者としての光が完全に戻っていた。
「全員、静粛に。先ほど、我が帝国の高位騎士の一人が不可解な肉体爆発を引き起こした。魔力反応のないその攻撃は明らかに、皇帝陛下を明確に狙った、用意周到な襲撃テロである!」
エノク皇太子の張り詰めた冷たい声が会場に響き渡り、歓喜に沸いていたその場にいた者たちの空気は一瞬で凍りついた。
「この時刻をもって、皇宮のすべての出入口を完全に封鎖する!」
「はっ!!」
近衛兵たちが一斉に剣を構える。
「まずは、爆発を起こしたあの護衛騎士の身元について徹底的に調べろ。本日どこで何をしていたのか、直前に誰と接触したのか、その交友関係のすべてを洗い出すんだ!」
エノク皇太子は一切の迷いを見せず、次々と的確な命令を下していった。呆然としていた周囲の騎士たちも、ようやく我に返り、慌ただしく、しかし統率された動きで走り始める。
さらにエノクは、最初の爆発に巻き込まれながらも比較的軽傷だった者たちへ、ユリアの通常の回復薬を迅速に配りつつ、最後に凍りつくような指示を飛ばした。
「出入口の封鎖を徹底しろ。犯人の仲間、あるいは呪術の術者がこの中に潜んでいる可能性がある。ここにいる全員、すべての調査が完了するまで、誰一人として皇宮内から出すな!」
その冷徹な視線が、青ざめて立ち尽くすリリカの歓喜から絶望へと染まった顔を、一瞬だけ鋭く射抜いた。
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騎士団叙任式での突如たるテロと、皇帝の瀕死
過酷な呪術研究で疲弊していたエノク皇太子の目の前で、突如として不審な爆発が発生します。さらに、魔力反応のない「生命力を燃料にした肉体爆発(呪術)」によって護衛騎士が自爆し、ジェステラド皇帝は四肢がねじ曲がるほどの致命傷を負い瀕死となります。
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聖女リリカの目論みと、エリクサーによる「神の奇跡」
神官や聖女リリカの治療を頑なに拒むエノクに対し、周囲の貴族は非難の嵐を浴びせ、リリカ自身も「治療を拒み皇帝を死なせた責任」を彼に押し付けようとほくそ笑みます。しかし、エノクがユリアの作った「エリクサー」を振りかけると、皇帝の肉体は瞬く間に完全再生し、誰もが言葉を失うほどの奇跡が生じます。
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圧倒的な形勢逆転と、エノクの冷徹な封鎖命令
神殿の存在意義すら揺るがす常識外の再生力を目の当たりにし、リリカが絶望と恐怖で青ざめる中、無事立ち上がった皇帝を囲んで貴族たちは狂喜乱舞します。すぐさま支配者としての冷徹さを取り戻したエノクは、呪術テロの全容解明と首謀者拘束のため、皇宮の完全封鎖と徹底的な調査を命じます。