こんにちは、ちゃむです。
「できるメイド様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

242話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- エピローグ⑤
誕辰(たんしん)演会の終盤、マリはオルン公爵と対話を交わしていた。
「少しお話をしてもよろしいでしょうか、殿下?」
「ソビエン公爵。」
演会の騒がしさに疲れたマリは、しばらくバルコニーで風を浴びていた。
その時、オルンが彼女に近づき話しかけた。
「もうすぐ誕辰演会も終わりですね。」
「あ、はい。」
マリはぎこちない表情で彼を見上げた。
オルンはいつも彼女に疑いを持ち、反対してきた人物だった。
今ではそれも過去のことになったが、彼の不満そうな態度はまだ完全には消えていない。
「……」
一瞬、気まずい沈黙が二人の間に流れた。
オルンは何かを言い出そうとしたが、何を話せばいいのかわからない様子だった。
それに加えて、マリも同じく気まずそうにしていた。
彼女はその雰囲気を和らげようと会話を切り出した。
「ええと、夜風が少し冷たくなってきましたね。気をつけないと。」
「ええ、そうですね。」
しかし、彼女の努力もむなしく、再び気まずい空気が二人の間に流れた。
『ああ、気まずい!』
マリは心の中でそう叫び、困ったような表情を浮かべた。
「ありがとうございます。」
「……え?」
彼女は不思議そうな表情を浮かべた。
「ありがとう」とは、他の人ならともかくオルンには不似合いな言葉だったからだ。
「陛下を笑顔にしてくださって感謝しています。」
「あ……」
オルンは演会場の方向に視線を向け、ラエルを見つめていた。
ラエルは過去とは違って、美しいその顔を隠すことなく堂々と見せていた。
「陛下が仮面を着けていた理由をご存知ですか?」
「以前、犠牲になった人々を追悼するための祈りではないでしょうか?」
ラエルが鉄の仮面を着ける理由は、彼女が流した血を忘れず、一生罪を背負って生きるためだとマリは知っていた。
しかし、オルンはただ静かにうなずいた。
「間違いではありませんが、それだけではありません。あの仮面は、陛下の恐怖と傷そのものなのです。」
突然の話にマリは驚いた表情を浮かべた。
「皇太子になる前、第四皇子時代の陛下は非常に繊細な性格でした。血を見るのは想像もできないほどでした。かつて陛下の夢は芸術家になることだったのです。」
マリはラエルが文学や芸術など、多方面で優れた才能を持っていることを思い出した。
「しかし当時、第一皇子であった皇太子は陛下を殺して玉座を手に入れようとしていました。陛下が剣を取ることになったのは、自身の恐怖を隠すために仮面をつけ始めたからです。」
想像もしていなかったラエルの過去の話に、マリの心は重くなった。
「生母が父に殺され、兄が弟に殺され、自分もいつ死ぬかわからないという地獄の中で陛下は生き抜きました。私は一度も陛下が幸せそうにしている姿を見たことがありません。」
そこまで語ったオルンは穏やかに微笑んだ。
「そんな陛下があなたに出会い、幸福を知るようになりました。初めて笑顔を見せ始めたのです。ここまで来るのに本当にたくさんのことがありましたが、ありがとうございます。陛下を幸せにしてくれて。」
「いえ、とんでもないです。」
「再び生まれ変わって皇后になる方に、特にお願いすることなどありません。そもそも私が心配しなくても、誰よりも素晴らしくやり遂げてくださると思っています。」
オルンはラエルに再び視線を向けて言った。
「ただ、これからも無数の困難が二人の間に訪れるでしょうが、どうかお互いを永遠に幸せにしてください。それだけをお願いしたいです。」
「はい、そうします。ありがとうございます。」
マリは頭を下げた。
オルンは微笑みながら言った。
「ですが、どうやら私は長い間、王妃をつかまえていたようですね。」
「えっ?」
「陛下の表情を見るとわかります。」
ラエルを見てみると、絵のような顔にわずかな不満が浮かんでいるのが見えた。
連日忙しい日々の中で、彼の中にわだかまりが少しずつ積もっていたようだ。
「…あ、ちょっと行かなきゃならないみたいです。」
「ええ、とてもお疲れのようなので、しっかり休まれてください。」
帝国の皇帝に嫉妬するなんて、不敬な言葉だったが、それ以外にラエルの不満げな表情を説明する言葉が見つからなかった。
このまま彼を放っておいたら本当に爆発しそうだったので、マリは急いで彼のもとに駆け寄った。
マリが立ち去ったバルコニーに残されたオルンは、くすくす笑うのを堪えることができなかった。
「お幸せに。」
そして、誕辰連会が幕を下ろした。
連会が終わったので、彼女はクローアン王国へ戻らなければならなかった。
「いよいよ明日には行くんだね。」
ラエルは唇をかみしめながら言った。
その声には不満が込められていた。
久しぶりに会えたのに、まともに一緒の時間を過ごすこともできなかった。
状況的にどうしようもなかったとはいえ、別れを惜しむ気持ちと切なさが胸の奥で嵐のように渦巻いていた。
このまま彼女を送り出したら、病に倒れてしまいそうなほどだった。
彼は何も答えずベッドに座り、ただ壁を見つめているだけだった。
完全に落ち込んだ様子に、彼女はそっと歩み寄り、甘い声で呼びかけた。
「ラン、ごめんなさい。」
「ええ、怒らないでください。すぐに戻ってきますから。」
普段なら、これくらいの一言で簡単に機嫌が直るはずだったが、ランは表情を崩さなかった。
彼がどれだけ彼女との再会を楽しみにしていたか。
けれど、こんなにあっけなく終わってしまうとは。
気持ちの収まりがつかなかった。
そんなランの姿を見て、マリはくすくす笑いを漏らしてしまった。
こんなことを考えたらいけないと分かっているが、彼の拗ねた姿があまりにも可愛らしくて愛おしかった。
「何で笑うんだ?」
ランは不機嫌そうに尋ねた。
それに対して、マリはなぜだか彼を喜ばせたい気持ちに駆られた。
「ダメですね。本当は陛下のために贈り物を用意していたんです。」
「贈り物?」
ランは眉をひそめた。
贈り物をもらうなんて、彼女は何を考えているのだろう?
明日になれば彼女がいなくなるというのに…。
どんな素晴らしい贈り物であろうとも、それはもう意味をなさなかった。
「気にならないんですか?」
「気にならない。贈り物なんて必要ない。」
マリは笑いをこらえながら、軽く流すように言った。
「贈り物で帰国を遅らせようとしたんですが、必要ないようですね……。」
その言葉を聞いた瞬間、ラエルはぱっと彼女の顔を見つめた。
「今、なんて言った?」
先ほどまでの沈んだ様子はどこかへ消え、彼の目は一瞬で輝きに満ちた。
「帰国を遅らせたって?嘘じゃないよな?」
喜びにあふれた声に、マリは思わず微笑んだ。
「ええ、連絡を入れました。用務が少し長引きそうだと。重要な予定はすべて後回しにして……。」
マリは言葉を続けることができなかった。
「マリ!」
ラエルが彼女のそばに駆け寄り、強く抱きしめた。
そしてそのまま彼女にキスをした。
「ラン。」
マリは瞬間的に力が抜け、後ろに倒れ込んだ。
ちょうどベッドに寄りかかっていたおかげで、自然とランが彼女の上に覆いかぶさる形になった。
「……ラン?」
怒りとも取れる彼の目の輝きを見て、マリは息を呑んだ。
視線だけで彼の感情がすべてわかるようだった。
「……まだ昼間なのに?」
ランは答えず、彼女の顎を軽く支え、再び唇を重ねた。
唇を離すと、囁くように言った。
「昼間だから嫌なのか?」
マリは顔を真っ赤にしながらも何も言えず、唇をぎゅっと噛んだ。
ランは彼女の額を隠していた髪をそっと横に払った。
「嫌でも無駄だ。」
そう言って彼は額に優しくキスをしながら続けた。
「絶対に君を離さない。覚悟しておけ。」
そのようにして、マリはもう少し帝国に滞在することになった。
深夜、彼女はぼんやりとした表情で目を覚ました。
押し寄せる寂しさと後悔の念の中で、ラエルは終始彼女を見つめては悩み、また苦しんでいた。
『どうしてこんなにも疲れを知らないんだろう。』
マリは息をのみ、どれほど彼の視線が切ないものかと感じたのか、全身が赤く染まり熱を持った。
「起きたのか?」
目を開けると、ラエルがベッドの端に座り、彼女をじっと見下ろしていた。
「まだ眠っていないんですか?もうこんな時間なのに……。」
マリは驚いて尋ねた。
ラエルは手で彼女の髪を撫でつけながら答えた。
「少しだけ、君の顔をもう少し見ていたかったんだ。」
「……あ……。」
「夢みたいだ。君がこんなにもそばにいてくれるなんて。」
マリは微笑みながら自分の髪をそっと撫で直した。
彼の手をそっと押し戻しながら、彼女は言った。
「私も夢のようです。こうしてあなたと一緒にいられるなんて。」
ラエルは暖かな瞳で彼女を見つめた。
「知っていますか、ラン?私がどれだけ会いたかったか。」
「そうなのか?」
「はい、本当に本当に会いたかったです。」
ラエルはその言葉に唇を少し上げて笑みを浮かべた。
それはまるで宝石のように美しい微笑だった。
マリはその瞬間、月明かりに照らされた彼の微笑があまりにも美しくて、言葉を失い彼を見つめた。
「どうしてそんな風に見るんだ?」
「いえ、何でもありません。」
マリは視線をそらした。
ラエルは彼女の顔をそっと手で包み、彼女の頬にキスをしながら言った。
「何か言いたいことがあるなら、言ってほしい。もしかして、僕に何か望むことがあるのか?」
「望むこと……ですか?」
「そうだ、今の君の姿があまりにも愛おしいから。願いがあるなら、何でも言ってくれ。聞いてあげたい。」
その言葉に、マリは少し考えた後、突然真剣な表情でお願いをした。
「浮気は絶対にダメです。」
「浮気?」
ラエルの顔に驚きとおかしみが混じったような表情が浮かんだ。
しかし、彼女は真剣だった。
「ランはとても魅力的だから、誘惑する女性が現れるかもしれません。それでも絶対に心を奪われてはダメです。分かりましたね?」
そう話すマリは、彼が不快に思うのではないかと心配そうに彼を見上げた。
しかし、彼の返答は彼女の予想を裏切った。
「それは君が不安に思っているのか?」
彼女が自分のことを気にかけてくれる様子に、ラエルは嬉しそうに微笑んだ。
マリは恥ずかしそうに目をそらしながらも、強い口調で言い返した。
「絶対に約束してください。絶対に浮気なんてしないと。」
ラエルはそれが当然だというように、あえて真剣に取り合わずに、静かに答えた。
「約束するよ。いや、約束する必要もないさ。」
彼は彼女の額に軽くキスをして言った。
「どうせ僕は君以外の何にも目が行かなくなっているからね。愛してる。」
そうして二人は夢のような数日間を共に過ごした。
「絶対に邪魔させない!」
ラエルがあらかじめ強く念を押したため、二人はお互いを見つめ合いながら穏やかな時間を過ごせた。
「起きたね。」
マリは暖かな日差しを浴びながら、ゆっくりと目を開けた。
「よく眠れた?」
「……いいえ。疲れました。」
マリは冗談交じりに彼を軽く見上げた。
ラエルはそんな彼女を見て微笑んだ。
その微笑みはどこか優美で、なぜか意味深なものだった。
「そうか?」
彼は彼女の頬をそっと撫でた後、抱きしめて言った。
「僕はまだ全然足りないって思うけど?」
「……!」
その言葉に、マリは思わず我に返る。
このまま放っておけば自分がまた圧倒されてしまいそうな空気だった。
「あ、ダメです!」
「ん?」
「その……どうしてもダメなんです!」
マリは慌てて顔を背けた。
ラエルはその言葉に少し残念そうな表情を浮かべながらも、彼女の額に優しくキスをして言った。
「分かった。仕方ないな。ところで、お腹は空いてない? 朝ご飯は何にする?」
「あ……なんでもいいです。」
「じゃあ、簡単なものを用意してこよう。」
一緒に過ごした数日間、ラエルはマリのために食事を自ら準備してくれた。
皇帝である彼が自ら料理をするなんて、驚き以外の何物でもなかったが、ラエルは笑いながらただ一言こう言った。
「僕の楽しみのためだよ。頻繁にできるわけでもないし、僕の楽しみを奪わないでくれると嬉しいな。」
愛する彼女のために自ら料理を作る。
それはラエル自身も楽しみたいと思っているようだった。
そのおかげでマリは、皇帝である彼が直々に作る料理を味わうという特別な体験を楽しむことができた。
ただの皇帝が作った料理ではなく、愛する人が心を込めて作ってくれた料理という点で、より価値のあるものだった。
「わあ、美味しいです。」
「そうかい? そう言ってくれて嬉しいよ。」
「違いますよ。本当に、本当に美味しいです。」
それはお世辞ではない。
ラエルは器用で、料理の腕前も見事だった。
特に彼女の好みをよく研究して作ったのか、完璧に彼女の味覚に合った味わいだった。
「どうして食べないんですか?」
彼女は蜂蜜をかけたパンケーキを美味しそうに頬張りながら、不思議そうに尋ねた。
ラエルはフォークを置き、彼女だけをじっと見つめて言った。
「君が綺麗だから。」
ラエルの言葉に、マリの頬は赤く染まった。
「からかわないでください。」
「本気だよ。本当に綺麗だ。こうして見ているだけで幸せだ。」
そう語るラエルの眼差しは真剣そのもので、マリはさらに恥ずかしそうに顔を赤らめた。
食事が終わると、侍従たちが食器を片付けに来た。
「お茶を淹れますね。」
「いいよ、僕がやる。」
「いえ、今回は私がやります。」
何でも自分でやりたがる彼に代わって、今回は自分が淹れたいという気持ちが強かったマリ。
ラエルが自らお茶を淹れようと立ち上がるのを見て、マリも慌てて席を立ち、彼のためにお茶を淹れることにした。
『皇后さまが好きな香りで……。』
昔、侍女だった頃の記憶を思い出しながら、心を込めてお茶を淹れた。
ラエルはその香りを嗅ぎながら、温かい笑みを浮かべた。
「やっぱり美味しい。他の人が淹れてくれたお茶より、ずっといい。」
彼の褒め言葉に、マリは満面の笑みを浮かべた。
そして、二人はゆったりとお茶を飲みながら、穏やかな時間を楽しんだ。
『幸せだ。』
彼女は視線を窓の外に向け、外の景色を見つめた。
皇宮はやや高い丘の上に位置しており、都市全体を見渡すことができた。
愛する男性が作ってくれた料理を食べ、その後静かに過ごしているこの時間はとても幸せだった。
あまりにも心地よく、このまま時が止まってしまえばいいのにと思うほどだった。
「ラン、私お願いがあるんです。」
「何かな?」
彼女が望むことならば帝国の反対を押し切ってでも叶えてくれそうな優しい目でラエルは彼女を見つめた。
「デートがしたいんです。」
「デート?」
「はい、散歩デートです。こうして部屋にいるのも素敵ですが、一緒に街を歩いてみたいんです。」
ラエルは微笑みながら彼女の髪を撫でた。
「いい考えだね。すぐに準備するよう言おう。」
空を見上げながら、マリは明るい表情を浮かべる。
「いいですか?」
マリは彼の腕に軽くしがみついて言った。
「ええ、ランは?」
「私もいい。」
愛情に満ちた彼の瞳はまるでこう語っているかのよう。
―君と一緒ならどこだっていい。
「行きたい場所はありますか?」
「いいえ。ただ一緒に歩きたいだけです。」
二人は特に目的もなく、ゆっくりと街中を歩き始める。
祭りがすべて終わった後の街はひっそりとしていた。
喧騒の中にあった祭りの余韻を後に、人々はまた日常の生活に戻る準備をしていた。
そんな中、彼らは静かに歩いていると、人々の話し声が耳に届く。
「それじゃあ、婚礼式はいつなんだろう?」
自分たちの名前が挙がる会話を耳にし、マリとラエルは互いに顔を見合わせた。
彼らはフードを被って顔を隠していたため、正体がバレることはない。
「準備することもたくさんあるし、少し時間が経てば冬が過ぎて春が来るだろう?」
「お二人が早く結婚されたらいいのに。」
「そうだね。どれだけ待ち望んだことか。」
民衆たちは二人の結婚式を心待ちにしていた。
ラエルはマリの耳元に顔を寄せてそっと囁く。
「民衆の期待もあるし、結婚式を前倒しにしようか?」
「いつですか?」
「明日でもいい。早ければ早いほどいい。」
彼の言葉を冗談だと受け取ったマリは、くすくす笑う。
「私たち、あそこにも行ってみましょう。」
マリはラエルの手を取り、彼を引っ張るようにして歩き出した。
路地にある可愛いカフェでケーキを食べ、有名なレストランで遅めのランチを楽しみ、オペラの公演も鑑賞した。
まさに理想的な散策デート。
「オペラなんて観られるとは思わなかったけど、楽しかった。」
「……。」
マリは満足げな顔で言った。
彼女はやりたかったことを成し遂げ、とても気分が良かった。
けれど、ラエルは彼女の言葉に答えることなく、何か考え事をしているようだった。
「何を考えているんですか?」
「君を攫おうかと思ってる。」
「……はい?」
マリは驚いて問い返した。ラエルは真剣な表情で言った。
「もうすぐ君は王国に戻らなくちゃならないだろう。でも君を送り出す自信がないんだ。だからいっそのこと、攫ってしまおうかと考えてる。」
マリは彼の腕に抱きつき、彼の肩に頭をもたせかけた。
「私ももっと一緒にいたいです。」
離れたくないのはラエルだけではない。
彼女もまた、彼を離れるのが心配で仕方がなかった。
『もっとここにいられるだろうか?』
マリは真剣に考えた。
彼とずっと一緒にいたい気持ちは強かった。
しかし、それでも王国での務めがあり、これ以上時間を取るのは難しいのだった。
彼女を待ち受ける、急な現実が山のように積み上がっているのを目の当たりにし、マリは心の中でため息をついた。
「はぁ。」
彼を置いていくことを考えると、胸が重くなるのを感じた。
その時、何かが彼女とラエルの間に静かに漂い始めたのを感じたラエルが口を開いた。
「随分遅くなったね。そろそろ戻る準備をしないと。」
「はい。」
二人はゆっくりとした足取りで王宮へ向かって歩き始めた。
しかし、途中でマリは目に入った見覚えのある建物に驚き、表情をこわばらせた。
「ラン、この聖堂……。」
ラエルも目を見開いた。
「ああ、あの聖堂か。以前にも何度か訪れたことがある。」
まだお互いにこんなに近くなかった頃、街の祭りを見物していた二人は、この聖堂を訪れたことがあったのだ。
「ちょっと入ってみますか?」
誰もいなかったため、二人は聖堂の中に足を踏み入れた。
中を見渡したマリは、かつての記憶が蘇り、感慨深げにその場に立ち尽くしていた。
「以前と全く同じですね。ここにピアノもありますよ。」
過去、二人が雨の夜、このピアノを一緒に演奏したことがあった。
マリはピアノの前に座り、軽く鍵盤に触れた。澄んだ音が聖堂の中に広がった。
「少し弾いてもいいですか?」
「もちろん。」
「どんな曲にしましょう?聞きたい曲はありますか?」
「君が弾きたい曲で。」
ラエルは、ゆっくりと楽しむような様子で席に座った。
マリは鍵盤に指を置き、心の赴くままに弾き始めた。
聖堂の中には穏やかな旋律が静かに流れ出し、二人の間に平和な空気が漂った。
まるで静かな小川の流れを見るような心安らぐ音色だった。
彼女自身もその曲に癒され、気持ちが落ち着いていくのを感じた。
『以前は、彼が私に曲を聴かせてくれたんだ。』
マリは、以前彼が聴かせてくれた曲を思い出した。
不安と温かさが共存していた「月光」。
彼はどんな思いでその曲を演奏したのだろうか?
その曲にはどんな傷が刻まれていたのだろうか?
「鉄仮面は陛下の恐怖と傷そのものでした。」
ふと、オルンが以前に語った言葉が脳裏をよぎった。
マリはラエルの顔を見つめた。
彼は決してそれを表に出さなかったが、その胸の内にどれだけ深い傷を抱えていただろうかと想像すると、胸が締め付けられるように痛んだ。
傷ついていたのはラエルだけではない。
多くの傷を経験したのは彼女自身も同じだった。
二人とも数え切れないほどの傷を抱えた末に、やっとここまでたどり着いたのだ。
『それでも、もう大丈夫。一緒だから。』
これからの人生にもまた辛いことがないとは限らない。
それでも構わなかった。
彼がそばにいて、彼女がそばにいる限り、どんなことがあっても一緒に乗り越えられる。いつまでも共にいるのだから。
『与えられることを。』
マリは頭を垂れた。ガラス窓越しに空を見上げた。
『彼と私の未来を祝福してください。』
彼との幸福を願いながら、彼女は鍵盤を軽く押さえた。
それは、まるで彼と自分の未来を祝福するかのように、温かな光が窓を通して彼らに降り注いでいた。







