余命僅かな皇帝の主治医になりました【２８話】ネタバレ

セリーナは、どんな事件事故が起きる場所でも、アジェイドを一人で行かせたくなかった。

今にもアジェイドに「私もついて行っていい？」と尋ねそうになったその時──

「もう行こう、セリーナ。」

アジェイドはジャックとの話を終えたのか、椅子から立ち上がった。

セリーナも慌てて立ち上がり、ジャックに軽く会釈をした。

「また会おう、友よ。」

「うん。」

セリーナは、友人らしいジャックの言葉に少し笑みを見せた。

だが、アジェイドがセリーナの腕をそっと引いて、促すように歩き出した。

セリーナとアジェイドは待機していた馬車に乗り込んだ。

アジェイドによれば、古い商団を訪れる際には商団が手配した大型の馬車で移動するらしい。

ただし、皇帝の印章がくっきりと刻まれた新調された馬車に乗っていれば、まるで皇帝の使者のように宣伝しているようなものだという。

「陛下、もしかして……」

「贈り物は気に入ったか？」

セリーナとアジェイドが同時に口を開いた。

だが、緊張しながらもアジェイドが先に言葉を切った後、セリーナはすぐに答えた。

「はい。色もきれいだし、何よりもアクセサリーのように身につけられるのがいいと思います。」

セリーナは箱の中に入っていたブレスレットを思い出して微笑んだ。

一番良い点は、単なるアクセサリーではなく携帯型の魔道具だったことだ。

ブレスレットにもネックレス用のチェーンにも付け替えられるため、好きなように身につけることができる。

しかも、見た目はただの普通のアクセサリーにしか見えないため、人目を引くこともない儀式用の道具に見えた。

アジェイドは目を細めてセリーナを見つめ、顔を赤らめた。

「どうしても女性には、儀式道具を持たせたほうが良いと思ったんだ。」

「えっ……もしかして私のために特別に作ったんですか？」

「それは違う。ただの検査用だよ。」

「検査用だとしても、ありがとうございます。なくしてしまうところでした。」

セリーナがぎこちなくお礼を言うと、アジェイドは軽く咳払いをして尋ねた。

「ところで、僕に何か言いたいことがありそうだったけど？」

「はい！もうすぐ狩猟祭の季節ですが、どちらに行かれる予定か気になって……」

セリーナはすでに行き先を知っていながらも、知らないふりをして問いかけた。

アジェイドは何の疑いもなく答えた。

「去年はカター侯爵領に行ったから、今回はグリーンウッド公爵領だろう。」

「おお。グリーンウッド公爵領なら、青々とした森で有名な場所ですよね？立っているだけでも気分がすっきりして、空気が澄んでいるって聞きました。」

「観光地としても有名な場所だな。行きたいのか？」

「行きたいって言ったら、連れて行ってくれますか？」

「どうせ随行者の一人として同行しないといけないからな。」

「行きます、行きたいです！」

セリーナは、彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに元気よく答えた。

密閉された空間で、二人の距離はぐっと縮まったが、二人とも気まずい素振りを見せず、目を合わせて会話を続けた。

「グリーンウッドに興味があるようだな。そんなに積極的に質問してくるとは。」

「環境が変わると繁殖率に影響が出ると聞いたんです。」

「ピンケの場合はね。」

アジェイドはくすっと笑った。

伏せたままの彼のまつげは、境目なく柔らかく揺れていた。

しばらくして、アジェイドがふとこちらを見つめて言った。

「前回は、僕が失言してしまった。」

「えっ？」

セリーナは突然の謝罪に目を大きく見開いた。

まさか皇帝の口から「失言した」という言葉が出るとは、夢にも思わなかった。

「あの時は、ジャックのせいで少し驚いたし、いろいろと神経質になっていたんだ。すまなかった。」

アジェイドは困惑したように視線を落とし、再びセリーナを見上げた。

ただの言い訳には聞こえなかった。

セリーナは彼の心からの謝罪に、思わず笑みをこぼした。

なぜ今日、彼が外出を勧めたのか、ようやく理解できた。

「つまり、あの日のことを謝りたくて私の部屋に来られたんですね。」

「そのおかげで君を救えた。」

「陛下に命を救われることになるなんて思いもしませんでした。長生きしてみるものですね。」

「たった19年生きただけで、まるで長老のような言い草だな。」

セリーナはアジェイドの言葉に声をあげて笑った。

それは、長い間失われた時間を取り戻したかのような笑いだった。

「私もつい感情的になってしまって、ごめんなさい。仕事と割り切っていたつもりが、少し私情が混じってしまったみたいです。」

「少しどころじゃなかったけどな。」

「ともかく、これからは絶対にそんなことがないように気をつけます！」

セリーナが両手をぎゅっと握りしめて決意を固めると、アジェイドはくすっと笑って席に戻った。

「一応言っておくけど、ジャックには少し警戒しておいたほうがいい。あいつは誰にでも親切にするからな。」

「そんなことありませんって！」

「人の運命はどう転ぶかわからないからな。」

セリーナは再びジャックの話題を持ち出すアジェイドに、そっと手を振った。

「いや、それは私と陛下が噂通りに恋愛関係になるなんてありえない話ですよ。」

アジェイドはセリーナの軽い冗談に口を引き結び、彼女の答えにどこか満足できない様子だった。

『ありえないとは言い切れないが。』

おそらくセリーナがあまりにきっぱりと否定したせいだろう。

セリーナはいつもアジェイドを患者、それ以上には考えていないようだった。

初対面のときから、彼女は彼を煩わしい存在としか見ていなかったのだ。

だから当然といえば当然だった。

アジェイドはかすれた声で口を開いた。

「他の者たちは俺の隣に近寄ろうとすらしないのに、君は逃げることすらできずにうろたえるんだな。」

「逃げるというほどでもないんですけど……。」

セリーナは少し遅れて悟ったように目をそらした。

現在、皇后の席は空席であり、そこは欲深い貴族たちが狙っている場所だった。

セリーナのような一介の私生児が口を挟めるような立場ではない。

しばらくして彼女は慎重に意見を述べた。

「私は政界には興味がありません。ただ、自分の体一つで地道に生きていきたいだけです。」

そう、広い空の下で静かに暮らすのがセリーナの夢だった。

アジェイドはそんなセリーナの答えに、少し微笑んだ。

「僕も隣に座る相手を政治利用しようなんて考えてないさ。そんなことを考えるなら、最初から公的な席になどしないよ。」

「それはそうですね。ふむ。意外と一途なんですね。もしかして運命の恋でも待っているんですか？」

セリーナがからかうように尋ねると、アジェイドは首を小さく振った。

「くだらないことを聞くな。」

反応するのも面倒だというような表情だった。

セリーナはおかしそうに笑いながら、アジェイドを軽くつついた。

実はアジェイドがあの日、セリーナにそっけなく接した理由を彼自身、まだ考えていた。

皇帝の信任を得ている者には、いつでも「皇帝の飾り物」として扱われる定めがあるのだ。

セリーナもまた、主治医たちの中で唯一、イーズリング（特別な印）を授けられた点で貴族たちの注目を集めていた。

他人の心が本物かどうか、常に疑う立場にあるアジェイドにとって、彼女もまたかなりやっかいな存在だったはずだ。

セリーナはアジェイドを安心させるために口を開いた。

「陛下が心配していること、私わかります。」

「……」

「これだけは、はっきりお約束できます。」

「何を？」

アジェイドはまた何か言われるつもりなのか、少し呆れたようにセリーナを見つめた。

無駄だと言いたげなその視線に、セリーナはにっこり笑った。

「私が陛下の病を治したあと、それを口実に政界に踏み込むようなことは絶対にしません。」

「……」

「私ですね。もっとでもなく、少なくもなく、陛下がご無事でいらっしゃるお姿を見られるだけで、他に望むことはありません。」

「……」

「その後は、静かに引退して、穏やかに医療ボランティアでもしながら生きていくつもりですから、ご安心ください。」

セリーナが肩をすくめると、アジェイドが一瞬、何か言いたげな表情を浮かべた。

しかし、セリナの真意を見抜くのは容易ではなかった。

皇帝の病を癒すだけで十分な功績となるはずだった。

それは彼女にとって当然の権利だ。

だが彼女はそれをすべて投げ打って引退すると言う。

『本気なのか。』

アジェイドはセリーナをじっと見つめた。

彼女の瞳があまりにも澄んで純粋だったため、アジェイドは「嘘をつくな」と叱る気にもなれなかった。

いったいどこからこんな女性が現れたのだろう。

どうやらあの日、口論の中でセリーナはアジェイドの棘を見たのだろう。

他人に向かって立ち上がる鋭利な棘。

近づこうとする者さえ傷つけてしまう、そんな棘だ。

アジェイドは手で口元を覆いながら言った。

「引退する必要はない。病を治したら、それに見合う報酬を受け取るべきだ。」

「本当に。私は陛下が健康でいてくだされば、それでいいんです。」

それがなければ、私も生きていけないから。

セリーナは飲み込んだ言葉に小さく笑った。

もし最初から欲深い人物だったなら、王宮に来るや否やヴィンセント公爵家に取り入ろうとしただろう。

だがセリーナはそれを望まず、実際にも行動しなかった。

今回の人生では、ヴィンセント家の方から先に近づいてきたものの、それも自分からではなかった。

彼もまた飼い慣らされた猛獣のようだった。

アジェイドは無言でセリーナをじっと見つめていた。

「だから私が少し乱暴に治療しても、どうか理解してください。必死だったんです。」

「乱暴にした自覚はあったんだな。」

「すべて陛下が受け止めてくださったからです。」

「そうだな。私が受け止めた。」

アジェイドは小さく笑って窓の外を見やった。

彼の口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。

窓から差し込む陽光が彼の顔を明るく照らしていた。

セリーナはその姿をしばらく見つめていたが、やがて自分も窓の方に目を向けた。