こんにちは、ちゃむです。
「余命僅かな皇帝の主治医になりました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

42話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 火事②
セリーナは夢を見ていた。
思い出せない幼い頃の記憶なのか、夢が作り出した過去なのかは分からなかった。
ただ一つ確かなのは、この空間から抜け出さなければならないという本能が彼女を駆り立てていたということだった。
しかし、固く縛られた体は動かなかった。
何もできず、セリーナは次第に夢の中へと沈んでいった。
夢の中のセリーナは7歳だった。
男の子のように短くなった髪を見ると、リディアのふざけた悪戯で髪を切られたあの時を思い出した。
短くなった髪が恥ずかしくて、帽子を深くかぶっていたのをふと思い出し、気分が沈んだ。
夢の中のセリーナは柱に縛られていた。
手足もぎゅうぎゅうに縛られて身動きが取れなかった。
心臓がドキドキと高鳴る中、セリーナは周囲を見回した。
鼻をつく刺激臭のする部屋には、ゴミのような物が雑然と積まれていた。
扉の傍には豚の脂で即席に火を灯す灯火が不安定に置かれていた。
少しでも間違えれば、火が家に燃え移って命を落とすかもしれない――そう感じるほど不安でいっぱいだった。
誰が、なぜ、どんな理由で彼女をここに縛りつけたのか分からなかった。
恐怖に唾を飲み込もうとした瞬間、誰かの声が聞こえた。
「ごめん、僕のせいで……」
聞き心地の良い少年の低い声だった。
ひとりだと思っていたが、背中の後ろに誰かが一緒に縛られているようだった。
セリーナは少年のことを知らなかったが、夢の中のセリーナは彼をよく知っているかのように自然に反応した。
「今は誰かを見分けることが重要なの?とにかくここから抜け出す方法を考えて。」
「大丈夫だよ、もう少し待てば母さんが……」
少年はこうしたことを何度も経験してきた人のように落ち着いていた。
一方でセリーナは誘拐されたのが初めてで怖くて手足が震えていた。
だが、自分の横で落ち着いて話している少年に「怖い」と言うことはできなかった。
幼い頃、セリーナは誰かに甘えたことがなかった。
甘えさせてくれる大人がいなかったのだから当然だった。
冷たくされたかと思えば、たまに殴られたり、突き飛ばされたりするかもしれない。
「ママっ子でもないのに、お母さんが来るまで待つんだって?もし来なかったら、海老船に乗るしかないってわけ?」
「……君、本当にその口の悪さ直せば、友達もっとできるよ。」
「友達なんてたくさんいるよ。なんでこんなこと言うの?」
「そうか?でも君が誰かを紹介してるの、見たことないけど?」
「そ、それは僕がここに来てまだそんなに経ってないからでしょ! ……くそっ、お前だって友達いないくせに!」
セリーナがしどろもどろになって反論すると、少年はくすくすと笑った。
その笑い声が心地よく響いて、緊張していたセリーナの心が少し和らぐ気がした。
「友達のいない者同士、友達になったってわけか。」
「友達多いんだから。」
「うんうん。」
少年はセリーナの冗談にただにこにこ笑うだけだった。
そして何度か会話を交わした時、セリーナは自分でも驚くほど緊張がほぐれていることに気づいた。
それが少年の配慮のおかげだと。
しかし、それもつかの間、夢がぱっと止まるように、周囲で火の手が上がった。
「……! 助けて……!」
さっきの倉庫に再び火がついたのだろうか。
倉庫の中に他にも人がいたのか、あちこちから悲鳴が聞こえた。
その修羅場の中で、セリーナは額を押さえて蹲っていた。
何かが落ちてきて額を打ったようだった。
彼女の隣には少年が立ったまま、どっしりと立っていた。
少年の周囲に火の手が上がっているにもかかわらず、少年の身体には一切火傷の痕がなかった。
「しっかりして、どうしたの? ね?」
セリーナが少年を揺さぶりながら不安で震えていたが、少年はまったく動かなかった。
火のせいで少年の顔はよく見えなかった。
しかも、すでに額から血が流れていて視界がかすんだ。
かすかに見える少年の顔には笑み一つなかった。
「……なんか言ってよ…… うっ、怖いこと言わないで……」
セリーナが泣きそうな声を出すと、少年がゆっくり彼女を見た。
揺れる瞳に一瞬、感情が宿った。
そして、しばらくして。
「見つけました!」
誰かの叫び声とともに、倉庫の扉が開かれ、派手な服を着た女性が入ってきた。
その女性は、火の前でも一瞬もためらわずに倒れていた少年をしっかりと抱きしめた。
すすり泣きの中で、少年の澄んだ瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「お母さん……」
震える体を女性に預けたまま、かすかに息を吐き出した。
セリーナは誰かが助けに来てくれたと感じた瞬間、全身の力が抜けた。
女性の後ろからは白い制服を着た騎士たちが続々と入ってきた。
彼らのマントには、口を開けた貝の中に真珠が描かれた紋章が刻まれていた。
「本当に…… 本当に助けに来てくれたんだ。」
大人たちが助けに来てくれたという思いに、セリーナの力も一気に抜けた。
一人で耐えていたことが無性に幼く感じられ、小さな体はそのまま床に崩れ落ちた。
薄暗い寝室の中。アジェイドは、灯りもつけないまま眠っているセリーナをじっと見つめていた。
もしかして火事のせいでセリーナが傷ついたかもしれないという思いに苛まれていた。
それでも月が明るい夜だったため、窓からその姿をうっすらと照らしていた。
彼の青い瞳には言いようのない不安がにじんでいた。
セリーナは規則正しい呼吸をしながら深く眠っていた。
さっきまで息も絶え絶えで顔色が青ざめていた昼間とは違い、ぬくもりが戻っていた。
それでもどこか落ち着かず、アジェイドは何度も彼女の冷や汗をハンカチで拭ってやった。
火にあぶられた紫がかった髪の毛を、注意深く取り除くことも忘れなかった。
いつもは一つにまとめられていたその紫の髪は、今はほどけて枕の上に流れるように広がっていた。
髪を解いたその姿をこんな形で見ることになるとは思わなかった。
アジェイドはキャンスレ事件の資料をめくった。
『司書が管理していた倉庫だそうです。』
『なんでそこに行ったんだ?』
『本を受け取りに行ったところ、事故が起きたそうです。司書の話によると、セリーナは火を見た瞬間、呼吸ができなくなったとか。』
『そんな子を一人にしておいたのか?』
『それが……とにかくすぐに火を消さなければという思いでそうしたようです。何しろ公爵の森なので、司書も慌てたようです。』
レオナルドの報告によると、司書はただ少し軽率だっただけだった。
しかしそのせいで、あやうくセリーナが死にかけた。
司書はセリーナが煙を吸いすぎてそうなったのだと思ったという。
だから外に出しておけば自力で安全な場所へ避難できると安易に判断したようだ。
対応は稚拙だったが、セリーナを意図的に殺そうとしたようには見えなかった。
宮廷も後になって火事の事実を知り、事故の経緯について調査を始めた。
ただ、セリーナが被害者であり、今アジェイドの私室にいることまでは把握していなかった。
彼女が今その部屋にいることを知っているのは、レオナルドと皇宮のひとりだけだった。
司書も申し訳なく思ったのか、セリーナにこれ以上の被害が及ばないよう、自分の裁量で話を終わらせたらしい。
偶発的な事故にすぎない。
そうわかっているのに、どうしてこんなにも怒りが湧いてくるのだろう?
「……はぁ。」
アジェイドは苛立ち混じりのため息をつきながら、乾いた笑いをこぼした。
顎を手で支え、呼吸を整えているその姿は、普段の彼とはかけ離れて見えた。
おかしなことだ。
なぜこんなにも胸がどんと沈んだ気分になるのか。
アジェイドはセリーナの顔を手のひらでじっと見つめた。
ほんの一瞬の選択でセリーナを失っていたかもしれない。
もし彼が行進中に離脱せずに道を見失わなかったら、火事が起きたことに気づかず通り過ぎていたら。
そう、火事に気づかなかったとしたら……セリーナは生きていられなかっただろう。
アジェイドはセリーナが倒れる前に苦しんでいた顔を思い出した。
何かにおびえたようなその怯えた表情は、セリーナらしくなかった。
何が彼女をそんなに恐怖に陥れて息すらできなくさせたのか。
まるでトラウマを刺激された人のようだが、理由は何なのか。
『幼いころに火災現場にでもいたのか?』
司書は、倉庫に火がついた途端セリーナが動揺したと語った。
それが本当なら、火が彼女のトラウマを刺激した可能性が高い。
最も疑わしい点は、セリーナが普段は火の前でも平気だったということだ。
火を恐れていたら、火を自在に操るアジェイドにあんな風に接することはできなかったはず。
だからといって、それを人間の根源的な恐怖と片づけるには、彼女の反応はあまりに過剰で極端だった。
何かがセリーナの無意識に深く突き刺さっていたようだった。
『まさか、ヴィンセント子爵家でセリーナが火で虐待されていた?』
もしそうなら、庭に火をつけたのは理解できない。
「クソったれが。」
アジェイドは、結論の出ない問いに尾ひれをつけていくばかりの自分に、苛立ち混じりに小さく悪態をついた。
『そうだ。ひとまず助かったんだから……生きていればいいさ。』
アジェイドはそうやって、心の中でうねる波のような動揺をなだめた。
激しく打っていた心臓は次第に冷静さを取り戻した。
助かってよかった。
救えたことは幸いだった。
今回は……遅れなかった。
アジェイドはセリーナの頬を優しく撫でながらささやいた。
「傷つかないでくれ。」
「……」
「君ももう、俺の人だから。俺の許可なしに傷ついて帰ってくるな。」
この感情を正確に定義することはできなかったが、一つだけ確かなことがあった。
彼女が特別な存在になったということだ。
アジェイドはセリーナが倒れる姿を見て考えてみた。
他の4人の友人たちに対してそうであったように、セリーナに対しても同じように仲間意識を抱いているのだと。
仲間でなければ、彼女が傷つく姿を見てこんなにも心が痛むはずがない。
彼女が横たわっているのを見て心が痛んだ。
いっそ起きて彼に文句でも言ってくれた方がましだったかもしれない。
アジェイドは彼女の髪をそっと撫でた。
「むやみに人を傷つけないで。」
向こうの部屋にも聞こえないほどの声でつぶやきながら、彼女の唇をしっかり閉じた。
セリーナの指先がかすかに動くかと思った次の瞬間、彼女の目が開いた。
「セリーナ?」
アジェイドは、ぽろぽろと涙を流すセリーナに驚いた。
彼女は悪夢でも見ていたのか、ひそかに顔をしかめながら涙をこぼしていた。
アジェイドは慌てて袖で彼女の涙を拭った。
「どうして、どうして泣いてるの。」
「ふ、ふぅ……」
「悪い夢でも見てるのか?」
アジェイドの問いかけにもセリーナは反応するだけで、返事はなかった。
アジェイドの心の一部がずきりと痛んだ。
どうすればよいか分からず、セリーナの涙を何度も拭ってやった。
その袖はセリーナの涙でしっとりと濡れていた。
しっかり閉じていたセリーナの目が開いた。
うるんだ金色の瞳が自分の顔をじっと見つめるアジェイドに向けられた。
アジェイドはその姿を見るとすぐに息をのんだ。
月明かりに照らされた白い顔がきらきらと光っているようだった。
金色の瞳はまるで金粉をまいたように幻想的だった。
セリーナが涙で濡れたまぶたをゆっくりと瞬かせた。
暗闇に慣れた彼女の目が、目の前にいるのがアジェイドだと気づいた。
少しの間じっと彼を見つめたまま、彼女は口を開いた。
「陛下がどうしてここに?」
アジェイドは時間がぴたりと止まったような感覚を覚えた。
『セリーナってこんなに綺麗だったっけ?』
病んだ顔からこんなにも輝きが出ることがあるだろうか。
セリーナは美人な方ではあるが、これほどまでに心臓がどきっとするほどの美貌の持ち主だと思ったことはなかった。
しかし今日はやけに彼女が美しく見えた。
赤みが戻った頬とほんのり紅くなった唇に自然と視線が流れた。
セリーナは無反応なアジェイドをじっと見つめ、なんとなく彼の耳が赤くなったように見えた。
『なんで電気もつけずにこうしてるの?』
月明かりだけが照らしている部屋ではアジェイドの顔がよく見えなかった。
しかも不思議なことに、この枕の感触がよかった。
自分の部屋にある枕とは素材が違う感じ。
セリーナはデザインを確認しようと体を起こしてスタンドに手を伸ばした。
するとアジェイドがセリーナの手を止めた。
「僕がやるよ。」
「???」
「ただ横になってて。」
アジェイドはセリーナをそっと横に寝かせ、自分でスタンドの電気をつけた。
さっきより明るくなった周囲に、セリーナは目をしばたたかせた。
そこは彼女の部屋ではなかった。
「ここは……」
「俺の寝室だ。」
「どうして私がここにいるんですか?」
セリーナが戸惑った表情で尋ねた。
倒れたところまでは覚えているが、なぜ彼の寝室で目覚めたのか分からなかった。
「それより、これいくつに見える?」
アジェイドはためらうことなく、指を三本立てて尋ねた。
「三本です。」
「これは?」
「二本です。」
「意識は正常のようだな。」
アジェイドは少し気まずそうに簡単な診察を終えた。
煙をたくさん吸ったと聞いて心配したが、精神に問題はなさそうだ。
アジェイドはセリーナに応急処置をした後、最も近い自分の寝室へ連れて行った。
そして公爵に知られないように他の皇宮医にセリーナの状態を診るよう命じた。
セリーナが公爵の所まで行くと疲れてしまいそうだったからだ。
なかなか起き上がらなかったので心配していたが、それでも目を覚ましてよかった。
彼はセリーナにそっと近づき、静かな声で話しかけた。
「体の調子はどう?どこか痛むところがあるなら、医者を呼ぶよ。」
そう言って彼は素手で彼女の首をそっと触れた。
なぜそんなことをするのかと思ったが、首に触れる手つきから体温を測っているようだった。
セリーナは言葉もなく、外国語を聞いた人のように目を見開いたまま見つめていた。
彼がまるで正式な医者のように真剣だったので、どう反応すべきか分からなかった。
そしてそのとき、自分が皇帝の寝台に横たわっていることにセリーナは驚きを隠せなかった。
もし外部に知られたら、また別のスキャンダルが広がるかもしれない。
「体は大丈夫です。それより、書記官様は大丈夫なんですか? 森はどうなりました?」
「火はすぐに消し止められた。書記官は書棚が倒れて怪我はしたが、命に別状はない。」
アジェイドはしばらくセリーナの首を撫でて確認するように触れた。
セリーナは首筋にかすかな違和感を覚えながら手でそっと触れた。
「よかったです。中は狭い上に本が多くて火がすぐ広がったんです。もし森まで火が移っていたら、本当に大変なことになっていたでしょう……」
「そうだな。本当に危なかった。俺が通りかからなければ、お前はあそこで死んでいただろう。」
「え?はっ……!」
セリーナはようやく、自分が倒れる前に見たのが本当にアジェイドだったことを理解した。
『幻じゃなかったんだ。』
遅れて、自分が突然のショックで倒れたことを思い出した。
倉庫で感じた痛みの記憶は今も鮮明で混乱していた。
気道が塞がれて息ができなかったときの記憶が蘇り、胸が痛んだ。
特に、突然古い傷跡が痛んだことを思い出すと、セリーナは深く考え込んだ。
『あのときの痛みは何だったんだろう?』
すでに治って傷跡だけが残っている場所が痛んだのは、心理的な原因だった。
火傷を負った日に何かがセリーナの心を刺激したのは明らかだ。
セリーナはキャンスレの前髪をそっと撫でながら、傷跡をなでた。
もしアジェイドが通り過ぎていなかったら、セリーナは死んでいたかもしれない。
彼を助けるつもりでいただけで、自分の命が危うくなるとは思いもしなかった。
セリーナは奇妙な気分を感じながら呆然とした。
「陛下が私を助けてくださったんですね。」
「そうだ。どれだけ驚いたか分かるか?」
「驚かせてしまって申し訳ありません。ほんの一瞬の出来事だったので……。」
「火が怖かったのか?」
アジェイドの問いに、セリーナは軽く首を振った。
「もし火が怖かったら、とっくに日常生活なんて送れなかったと思います。」
こんなことは初めてだった。
セリーナはその密閉された空間で火が燃え上がるのを見たとき、思考が完全に停止したように感じた。
状況そのものがセリーナに精神的な衝撃を与えたようだった。
「じゃあ、なぜ?」
「分かりません。私も。」
セリーナは、なんとなく指先をいじりながら言った。
彼女自身もなぜ突然そのような症状が現れたのか分からなかった。
「でも、どうして私がここにいるんですか?」
「あなたの宿舎がどこにあるか分からなかったので。」
「ああ。」
確かにセリーナが彼を訪ねてきたので、彼女が自分の部屋を覚えていないのは当然だった。
ここは皇宮でもないし。
その時アゼイドがセリーナの目元に冷たい氷のタオルを当てた。
ようやく目元がひんやりしてしっとりとした感触を覚えた。
「え?私、泣いてました?」
「悪夢でも見ているのかと思ったよ。」
「うん、そうだったのかな?」
セリーナはぼんやりとした夢の記憶をたどった。
誰か大切な人に会ったような気がするが、顔はまったく思い出せなかった。
かすかに思い出されるのは、激しく燃え上がる炎の匂いと、その間を漂っていた焦げ臭いにおいだった。
たぶん火事現場で燃える鍋から火が上がる夢でも見たのだろう。
その間に、アジェイドがもう片方の手で氷の湯呑みを差し出してくれた。
その彼の冷静で丁寧な看護に、セリーナは少し居心地の悪さを感じた。
「私がやります。」
「いい。」
アジェイドはきっぱりと断りながら、冷たい湯呑みを手で取った。
「本当に安心していられないな。こんなに虚弱で。」
「それ、私がいつも申し訳なく言っていたセリフのようですが。」
「最近はお前のほうが俺よりよく倒れるみたいだな。」
「ちょっと心外ですね。たった二度だけだったのに。」
「その二度とも、かなり重症だった。」
アゼイドのたしなめに、セリーナは口をつぐんだ。
彼女もこのように苦しんだ経験はあまりなかったので、返す言葉がなかった。
「怖くなかったか?」
「ちょっと怖かったです。だって死にかけたんですから。」
何度も死線をくぐったからといって、死の恐怖が消えるわけではない。
むしろ、それがより明確になって、ますます生にしがみつくようになるものだ。
そのとき、アジェイドが何気ない声で口を開いた。
「少なくとも火のせいで怖がることは、もうないだろう。」
「ずいぶん自信があるんですね?」
自分が“火の魔法使い”だからといって、そんな偉そうなことを言ってるのか?
…まあ、それでも心配してくれてるのはありがたいと、セリーナは思わず微笑んだ。
アジェイドはセリーナの手のひらにあったイヤリングを無言で見つめながら、しばらく沈黙していた。
「皇帝は、無駄な命は救わない。お前が知らないだけで、お前の存在は思っているよりもずっと重要な存在なんだ。」
「分かりません。」
まさか歴代最強の“火の魔法使い”と呼ばれる人が、最弱体質の患者だったなんて?
セリーナがふざけたように言うと、アゼイドが彼女の目を見て言った。
「それを知っててそんな態度を取るなら、セリーナ、お前の肝の据わり方は大したもんだ。」
「そう言われると気になりますね。どうやって私の恐怖心を取り除いてくださるんですか?」
「それは自分で見つけるんだ。」
「すごく不親切ですね。どうして直接出向いて“火という火の罪は私が消してあげよう”とか言ってくれないんですか?」
火の魔法使いは歩く消火器のようなものだった。
セリーナは、彼が魔法使いらしい冗談を言ったのだと思いながら、ふざけて皮肉ったのだった。
「そうさ。別に俺がわざわざ出て行く必要もないし、君のそばをチョロチョロついて回る子犬でもない。俺はそこまで暇じゃないんだ、セリーナ。」
「私が見た陛下は、十分にお暇そうでしたけど?」
「それは君の思い違いだ。」
アジェイドは軽くふざけながらも、いつの間にか彼女の髪の毛を片手で撫でていた。
「深く考える必要はない。ただ、俺が君のことをとても大切に思っている、それだけ知っていればいいんだよ、セリーナ。」
「え?」
反論しようとしていたセリーナは、まるで聞きたくないことを聞かされたかのように、思わず沈黙した。
彼の口から「大切に思っている」なんて言葉が出るとは思ってもいなかったので、なおさらだ。
アジェイドは子どもっぽく顔をそらしてしまった。
セリーナのぽかんとした表情が可笑しかったのか、アゼイドはふっと笑った。
彼はすっかり溶けてしまった氷嚢をテーブルに置いて言った。
「だから俺がいないところでケガなんかするな。」
「……」
「今日はここで休んでろ。変に夜明けに出て行って他人の目に触れたら厄介だろ。」
「ご迷惑でなければ、どこで寝ればいいんですか?」
「それはお前が心配することじゃない。」
アゼイドは席から立ち上がり、作業服を取り出した。
自分の部屋なのに、出て行く彼の姿をセリーナは呆然と見送った。
「突然、今までしなかったような行動をするなんて?」
あんなふうに無関心だった人が、大事にすると言うなんて。
ケガするななんて、なぜか気分が変だった。
セリーナは独り言をつぶやきながら、湯たんぽを鼻先まで持っていった。
その瞬間、湯たんぽからかすかで清々しい匂いがした。
アジェイドから漂っていた香りだ。
ほのかに香るその匂いに、まるで彼にぎゅっと抱きしめられているような気がした。
「………」
セリナーはそっと湯たんぽを首元まで下ろした。
どうやらアジェイドのあの顔が、妙に効果を発揮しているのは間違いないようだった。
これまでイケメンに慣れていたセリーナでさえ、ここまで動揺するのは珍しいことだった。
セリーナはしばらく寝返りを打ちながら、眠れずにいた。
普段とは違うアジェイドの態度が、どうしても気にかかった。
「いつも通りにしてください。急に態度を変えないでくださいよ。人がときめくじゃないですか。」
セリーナは不器用にごそごそと動いて目をぎゅっとつぶった。
誰かに甘えるなんて思いもしなかった彼女にとって、甘えるという感覚はぎこちなくてくすぐったいものだった。
けれど、なんだかおかしかった。
拗ねて嫉妬するような口ぶりとは裏腹に、セリーナの口元はやわらかく上がっていた。









