こんにちは、ちゃむです。
「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

110話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 大きな転換点
魔力石の発見によって、その夏は一層騒がしく過ぎていった。
新聞は毎日のように、魔力石によって実現可能になる新しい生活を予測する記事を載せた。
魔力石は魔法使いが込めた魔力を長期間保存できる。
つまり、この特性を活かせば、将来的には魔法使いでなくても魔法の恩恵を享受できるかもしれない、という話だった。
人々は身分を問わず熱狂していた。
ほぼ毎日のように続く宴会や公演では、いつも新たなスキャンダルが噴き出した。
そのおかげで、貴族たちの私生活を扱うイエローペーパーは史上最高の売り上げを記録していた。
こうして誰もが熱気に包まれた夏を最後まで燃やし尽くそうとしていたが、そんな流れに身を任せなかった者もいた。
それが、メロディ・ヒギンスである。
彼女はほとんどの招待を断り、屋敷の中で静かに過ごしていた。
その理由は、実際には、公爵にサミュエル公の仕事を完全に任せたことで、自身の役目が減ったから。
だが、それを周囲に明かすことはできない。
だから彼女は「採用官試験の結果が出るまでは、静かに過ごしたい」と説明を変えていた。
幸いにも、人々はその試験の重要性を理解していたため、誰もが彼女の意向を尊重した。
「メル、最近は屋敷にこもってばかりだな。」
しかしイサヤは、もはやそんな弁明を聞くつもりはないようだった。
夏の日差しに映える爽やかな笑顔を浮かべながら、メロディの部屋の窓辺に現れた。
「こんにちは、イサヤ。邸宅にこもってばかりだとしても、毎日庭を散策したり、ロレッタお嬢様と木剣を振り回したりしているんでしょう?」
ずっと前に「本物の剣を授かれるかもしれない」と期待していたロレッタは、新しい木剣を贈られた。
彼女は「次こそ本物の剣を手に入れるんだから!」と張り切って木剣を振り回し、訓練を欠かすことはなかった。
「それは知っているよ。でも、この前の夜に城郭で光の魔法を放って照らしたのも見に行ったんだろう?とても綺麗だったよ。」
メロディは肩をすくめて笑った。
「そうじゃなくても、ロニから『そんな素晴らしい景色を見逃すなんて、正気か?』って言われちゃったの。」
彼女がロニの口調を真似して軽く言い放つと、イサヤはクスクスと笑った。
「それは、坊ちゃまが君のことを心配してるからだろう?」
「わかってるわ。」
「だから言うんだよ、メル。」
イサヤは窓枠にかけていた手を引っ込めた。
「もし俺がお願いしたら、一緒に外に出てくれる?」
メロディはしばらくイサヤと窓辺を見比べながら答えた。
「イサヤの助けがなくても、このくらいの窓なら一人で越えられるけど?」
「窓のことじゃない!」
イサヤは窓枠にぐったりと体を預けながら言った。
「俺と一緒に外へ出かけてくれるかって聞いてるんだ。」
「どこへ行こうっていうの?」
「たいした場所じゃないさ。」
彼はまた微笑み、口元に小さな笑みを浮かべた。
「神殿へ。」
「どうして?」
「新しい剣に祝福を受けに行くんだ。」
「新しい剣?イサヤ、また剣を手に入れたの?」
メロディが驚いて尋ねた。
それもそのはず、彼はすでに二振りの名剣を持っていた。
一つは狩猟場で皇太子殿下を救った際に皇帝から賜ったものであり、もう一つは公爵家への忠誠を誓った際にボルドウィン公爵から授けられたものだった。
この首都で最も影響力のある二人から剣を授かったにもかかわらず、さらに新しい剣を手に入れるとは不思議な話ではないか。
「まあ、どういうわけか手に入ったんだよ。」
彼は私の頭を軽く撫でながら、大したことではないと言わんばかりに答えた。
「皇帝陛下からまた剣を賜ったんだ。」
「急に?どうして?」
「それが、この前の武闘大会で優勝したからさ。」
「……!」
メロディは驚いて彼をじっと見つめることしかできなかった。
大会があるという話は聞いていたが、イサヤが出場したことも、ましてや優勝したことも今初めて知ったのだ。
「どうして私に言わなかったの?!」
メロディは慌てて彼の腕を掴んだ。
「そんなこと、お前にどうやって言えるんだよ。」
「どうして言えないの!」
「……だって。」
彼は気まずそうに視線を逸らした。
「もし俺が武闘大会に出るって言ったら、メルは当然のように俺が優勝すると信じるだろう?」
「私が?」
「そうさ。だけど、もし優勝できなかったら恥ずかしいじゃないか。」
彼の言葉に、メロディの脳裏にはずっと昔の出来事が思い起こされた。
彼と初めて首都で再会したときのことだ。
彼はまだ騎士になっていなかったので、母親に知らせを伝えることができないと言っていた。
その後も母にきちんと報告するのを忘れていたようだが、性格は少しも変わっていなかったようだ。
「イサヤのばか。」
メロディは彼の手を握りしめ、そっと力を込めた。
「私はただイサヤを応援したかっただけよ。優勝しなかったからといって、失望するわけじゃないの。」
「でも君の前で負けるなんて恥ずかしいだろう。」
「ふん、そんなこと言っても、私の見ていないところでは立派に優勝したじゃない。」
メロディの言葉に、彼は苦笑を浮かべた。
「そうだな。運もよかったし。」
「もうダメよ。これからはそういう大事なことは必ず呼んでね。」
「そうさ、恥ずかしいからね。だからメロディ、君が一緒に神殿へ来てくれたら嬉しいんだ。」
メロディは思わず息を呑んだ。
イサヤがこんなことを口にするなんて。
「そして、そこで俺の優勝の栄誉をすべて君に捧げたい。」
「……な、何ですって?」
驚いて問い返すと、イサヤは頬を掻きながら、どこか気恥ずかしそうに笑った。
「自分のアガシ(ご主人様)に栄誉を捧げるのが騎士の務めだろう?」
「でも、イサヤのアガシは私じゃないでしょう!」
ロレッタ・ボルドウィン。
彼が公爵家の騎士として仕えているのは、彼女である。
「その方は俺のアガシじゃなくて大将様だ。けれど俺にとっては、メル、君だけが特別なんだ。」
「……イサヤ。」
「もちろん、強制するつもりはない。」
彼は窓にもたれていた体をまっすぐに起こした。
自然とメロディの顎が彼の顔を仰ぎ見る形になった。
「前にも言ったけど、僕はメルが許さないことは何一つしない。」
彼は一度言葉を止め、大きく息を飲み込んだ。
メロディは、普段とは違う彼の極度の緊張を察した。
「メロディ・ヒギンズ嬢。」
イサヤは剣を抜いて左脇に置き、片膝をついて跪いた。
メロディはそのとき初めて、彼が普段は絶対に着ない騎士団の礼装を完璧に身にまとっていることに気づいた。
つまり今の彼は友人イサヤではなく、騎士マルロンとして彼女に誓いを捧げようとしているのだ。
「私が得たこの栄光を、貴女に捧げることをお許しください。」
深い切実さのこもった言葉に、メロディはすぐには答えられなかった。
軽々しく返事をして、彼の真剣な気持ちを軽んじたくはなかったからだ。
しばらく床を見つめていたイサヤは、やがて顔を上げ、彼女に穏やかな視線を向けてから、ふっと口元を緩めた。
「どう?少しは騎士らしく見えた?」
先ほどまでの真剣さとは違う、冗談めかした軽い声。
メロディは今回も何も言えなかった。
イサヤが自分の緊張をほぐそうとして、わざとそうしていることを分かっていたから。
「えっ、ダメだった?俺、すごく練習したんだけどな。」
彼は身を弾ませるように立ち上がり、また窓の前へと歩み寄った。
「……ごめん。」
「いや、大丈夫だよ。メルが謝ることじゃない。言葉はどうあれ、君の顔がとても固かったんだ。メルが笑わなければ、何の意味もないんだよ。」
彼の言葉に、メロディは両手で顔を覆い、気恥ずかしそうにさすった。
「ただ……驚いただけ。すごく驚いたの。」
「驚くことないさ。僕が君を守りたいと思ってるのは知っていたろう?もちろん、メルは自分のことをしっかりできるけど。」
「それは分かってるけど、それでも……。」
彼が彼女に正式に「栄光を捧げる」と誓ったことは、やはり少し違う意味を持っていた。
二人の関係において、大きな転換点になり得るほどに。
何より、その事実を告げるイサヤの態度が、普段よりもはるかに真剣であることから、メロディはますますそう考えざるを得なかった。
「分かったわ。なら……少し時間をかけて考えてもいい? 結局は結論を出さなきゃいけないことだから。」
「よし! じゃあ今度は俺を褒めてくれ!」
そう言って彼は、いつものように窓の外へ身を乗り出すと、頭を彼女の方へ差し出した。
「え、褒める?」
「そうさ、優勝したんだぞ。『よくやった』って言われる資格あるだろ?」
確かにその通りだと思ったメロディは、普段通りの調子で彼の髪を軽く撫でてやった。
「よくやったわ、イサヤ。本当に誇らしいわ。医師先生もきっととても喜ばれるはず。そうでしょう?」
「っ……!」
イサヤはそのまま固まり、メロディをじっと見つめた後、慌てて顔を背けた。
「ち、違うんだ。母上に連絡しなきゃいけないこと、忘れたわけじゃない! お前がいつも言うこと、俺はちゃんと覚えてるし、本気で聞いてるんだ!」
「つまり、まだ手紙を書いてないってことね?」
「ちがう!まだ書いてないだけだ!今日こそ必ず書く!言っただろ!本当だよ!僕が君の言葉を忘れるはずないじゃないか!信じて!」
彼は両手をぶんぶん振り回しながら、少しずつ後ろに下がっていった。
「今すぐ書きに行くよ。だから、僕のお願いもちゃんと真剣に考えてくれなきゃダメだよ? 分かった?」
「うん、そうするわ。」
「やった!」
何がそんなに嬉しいのか、彼はその場で飛び上がるほど大喜びし、その勢いのまま庭を駆け回り始めた。
「……あんな様子を見ると、やっぱり全然変わってないのね。」
メロディが小さくつぶやいたとき、ちょうど彼女の部屋の扉を叩く音がした。
「はい。」
メロディは小さな声で返事をしたが、固く閉ざされた扉は開かなかった。
(……聞き間違えたのかしら?)
彼女は少し不安になり、自ら扉を開けてみた。
扉の隙間から男の姿が見えた。
顔を上げると、クロード・ボルドウィンが、どこかぎこちない笑みを浮かべて立っていた。
「坊ちゃま?」
「すみません。」
彼は軽く謝罪の言葉を口にすると、メロディが誤解しないように慌てて付け加えた。
「扉を開けてくれるのを待っていたわけじゃありません。開けてよいか迷っていたのです。」
「……どうして……ですか?」
「ええ、あなたの気分を害したくなかったので。」
そう言って彼は「ああ、なるほど」と小さく頷き、背中に隠していたものを差し出した。
メロディにはすぐに分かった。馴染み深い香りが漂ってきたからだ。
以前、彼と一緒に調合した薬草の束だった。
「これは……」
「まだ完全には乾いていませんが……部屋に飾れば良い香りがするとジェレミー様が仰っていましたので、持ってきました。」
「あ。」
メロディは彼が差し出した薬草の束を受け取った。
「届けてくださってありがとうございます。今日は薬草畑に行ってこられたのですか?」
「はい、ジェレミアから受け取るものもあったので。」
二人の間にしばし沈黙が流れた。
メロディは、もしそれがジェレミアの頼みでなければ、彼が自分の部屋を訪れることは決してなかっただろうと考えた。
サムエル公爵との接触以来、二人がこうして顔を合わせることは一度もなかったのだから。
なぜか手首の内側がうずくように感じられた。かつて彼の唇が深く触れた場所。
今はもう、そこには何の痕跡も残ってはいないのに。
「……そうか。」
彼が一歩身を引いて言葉を続けると、メロディは思わず自分でも気づかぬうちに手を差し伸べていた。
だが彼を引き止めようとした拍子に、彼の手から薬草の束が床に落ちてしまった。
「……!」
メロディは慌てて拾おうと身をかがめたが、クロードがそれを制した。
「あなたは触らないでください。」
そう言って彼は彼女の足元に跪いた。
クロードが薬草を拾い上げ、一つひとつ形を整える姿から、メロディは目を離せなかった。
長い指先が薬草を撫でるように扱う様子に、幸い傷ついた葉がなかったことを確認すると、メロディは胸の奥で小さく安堵の息をついた。
やがて彼は立ち上がり、束ね直した薬草を差し出した。
「もう大丈夫のようです。」
「ありがとうございます……ごめんなさい。」
「気にしないでください。」
そう答えた彼の表情には、何か言いかけて飲み込んだような、微かな影がよぎった。
メロディは思わず喉を鳴らした。
「ジェレミアが、必ず渡すようにと言っていました。でも、ちょうど喉が少し渇いてしまって。」
メロディは慌てて一歩後ずさった。
「そ、それなら少しお待ちを……」
恥ずかしい気持ちに駆られて、口から出た言葉は、ほとんど「どうぞ中へ」という招きと同じ意味になってしまった。
実際、彼が「喉が渇いた」と言ったのは、きっと少し前にメロディが彼の腕を引いたことに気づいたからだろう。
「僕の頼みを聞いてくださるなんて、ご親切ですね。」
「どうぞ、お掛けください。」
メロディは席を勧め、つつましく水を一杯差し出した。
彼はそれを受け取り、一息に飲み干した。
(……本当に喉が渇いていたのかしら?)
メロディは少し疑いながらも、念のためもう一度水を注いだ。
彼は今回も一息に飲み干した。
「……とても喉が渇いていたようですね。」
「はい、とても緊張していたんです。」
「坊ちゃまが?なぜです?」
彼女の問いに、彼は一瞬だけ笑みを浮かべ、それから静かに問い返した。
「なぜだと思いますか?」
「……あ。」
メロディは思わず近くにあったクッションを手でいじり始めた。
なぜか手をじっとしていられなかったのだ。
「ともかく、ジェレミー様が“違う”と仰ったんです。」
彼が話題を変えるように言ったので、メロディは驚いて思わず声を上げた。
「本当にあったんですか?!」
「……え?」
彼は慌てて聞き返した。
「い、いえ、違います!」
メロディは顔を赤らめてクッションを抱きしめ、俯いてしまった。
(私、どうかしてる!)
テーブルの向こうから、彼がくすくす笑う声が聞こえてきた。
「ジェレミアの予言があるっていうのは本当だったんだ。まあ、俺も好きな女性と二人きりになりたくて、あれこれ手を尽くしたけどさ。」
「そ、そんな……!坊ちゃまが策略を巡らせたなんて、そういう意味じゃないんです。ただ、さっきは帰ろうとなさっていましたから……」
「うん、そのときは、あとで人を通して伝えようと思ってたんだ。」
――つまり、メロディを気まずくさせないための配慮だったということか。
「とにかく、ジェレミアが言ってたよ。もしよければ、お父上が遠出なさる前に、もう一度魔塔に来て実験に協力してほしいって。メロディ嬢を被験者にしての実験だなんて、俺としては少し気が引けるけどな。」
「それは……坊ちゃまの軽い好奇心を満たすためだけの話ですよ。」
「その言い方のほうが、かえって妙に聞こえるんだよな。」
彼のため息まじりの返答に、メロディの気持ちも妙にざわついた。
クロードはメロディの言葉を、どこか“疑わしい”意味に受け取ったのかもしれない。
まるで、以前二人で薬草小屋で交わした曖昧な会話の続きを思い出させるように。
「ち、違います!そんな意味じゃありません!」
メロディは顔を真っ赤にして慌てて叫んだ。
すると彼もまた、気まずそうに視線を逸らし、咳払いをした。
「わかっています。ただ、少しだけ理解してほしいのです。嫉妬に囚われると、人は勝手に想像を膨らませてしまって、頭の中がおかしくなるものです。」
「……はい?」
「ともかく、返事は魔塔へ直接届けます。」
彼はそう言って、何事もなかったように話題を切り替えた。
その間メロディは、彼の横顔をじっと見つめてしまっていた。
まるで、とんでもない告白を聞いてしまったかのように。
嫉妬に囚われる、なんて。
『おかしい。』
メロディは自分の指先をいじりながら、そう思った。
他の人でもなく、クロードがそんな感情を抱くことが不思議だった。
けれど一番おかしいのは、自分自身だった。
嫉妬なんて決して良いものではない。
ましてや兄弟の間でそんな感情を抱くなんて、なおさら良くない。
『……それなのに。』
彼がそのような感情を抱いていることに、むしろ安心している自分がいた。
『こんな気持ちを持ってはいけないのに……。』
メロディは無理に思考を振り払って、口を開いた。
しかも幸い、今確認しなければならない別の話題もあった。
「ところで、少し前に公爵様が遠出されたと仰っていましたよね?」
「はい。」
「もしかして……その件のためですか?」
メロディはできるだけ声を落とした。
誰かに聞かれると困るからだ。
「はい、そうです。」
彼もまた小声で答えた。
「都全体が祭りの雰囲気に包まれていたのも助けになりました。どこも人で賑わっていましたから。」
「人の中に紛れるのが一番の隠れ場所、ということですね?」
それは以前、ロニから教わったことでもあった。クロードがうなずく。
「ええ。そのおかげでサミュエル公のところでも動きやすかったです。」
「つまり、連絡が取れていたのですね。」
「メロディ様が訪ねたあの住所からです。私も今日になって知ったばかりですが。」
おそらく公爵は、彼と連絡を取り合いながらも、しばらくは誰にもそのことを話さなかったのだろう。
不用意な言葉の重みを知っている人物だからだ。
「十一日後、父上がクリステンソンへ発たれる際に今日、ジェレミアに会ったのは、それに必要な物を受け取るためだったんです。」
「必要な物……ですか?」
「はい。」
「どんな……?」
彼は一度席を立ち、ぱっと開いた窓際へ歩いて行った。
二人の会話が外へ漏れないように気を遣っているようだった。
「すみません。」
メロディも慌てて立ち上がり、窓際へ駆け寄った。
腕を伸ばして窓を閉め、念のためにカーテンまで引いた。
こうすれば外と室内が完全に遮断されるので、いくらでも秘密めいた話をすることができた。
「もう、お話しください。」
メロディは厚手のカーテンを握ったまま、彼をそっと見上げた。
「ジェレミアが作ってくれたのは――姿を変える薬です。」
「そんなことが……可能なのですか?」
「そうでなければ、父上は永遠にクリステンソンへは行けなかったでしょう。」
辺境伯や多くの騎士たちは、公爵の顔を忘れていないだろうから。
「合意を終えた後は、すぐにオーガストを伴って出発されるはずです。」
「首都へ連れてこられる、という意味ですか?」
「いいえ。」
彼は少し開いたカーテンの隙間を真っ直ぐ見つめながら答えた。
その視線の先には、彼らの瞳の上に重なる闇が落ちていた。
「母の屋敷を利用するつもりです。そこでオーガストが不自由なく……はい、豊かな生活を送れるよう世話をするつもりです。」
彼はわずかに寂しそうに笑った。
「大丈夫ですか、坊ちゃま?」
「なぜか……いえ、なんでもありません。」
「……まるで自分が悪者になったみたいな気分ですか?」
メロディは彼の気持ちを慎重に探ろうとした。
間違っていなかったのか、彼はゆっくりと微笑んだ。
「ええ、そうですね。幼い少年を父親から無理やり引き離すような……そんな人です。」
彼の感想は確かに間違ってはいなかった。
サムエル公とその息子を無理やり引き離すことは、結局のところロゼッタのためだけに始められた、公爵家の自己中心的な思惑に基づくものだった。
「そのせいでサムエル公がぞんざいに扱われることになったとしても、それはあくまで私たちの事情に都合よくこじつけた理由に過ぎません……ああ、ごめんなさい。」
「なぜ私に謝るんですか?」
「あなたを非難しようとするつもりではなかったからです。」
彼は指先でメロディの眉間をそっと撫でた。
それは普段「ヒギンス夫人に似ていますね」とからかうように言う時の仕草とよく似ていた。
「心配しないでください、メロディ嬢。」
「……」
「謝罪というには足りないかもしれませんが、あの少年を一生守っていけるような気がするのです。」
「坊ちゃま、あなたがそこまで思い悩む必要はありません。オーガストもいずれは公爵家の方々と共に、必ず幸せになるでしょうから。」
「そんなことまで記録に残っていたのですか?」
「はい。」
メロディは確信を込めて答えた。
少しでもクロードが安心し、罪悪感から解き放たれるようにと願って。
しかし効果はなかったのか、彼の冷たい表情は変わらなかった。
「なんて不公平な記録でしょう。」
「……え?」
「遠い場所の少年にはあんなに素晴らしい未来が約束されていたのに。」
メロディの髪を撫でていた彼の手が、頬を伝って首筋へと、なぞるように滑り落ちていった。
「当座ここにあるメロディ嬢に関するものは、それほど多くないようですね。」
「そうでもありませんよ。」
「最初のころ、メロディ嬢が話す記録は、ほとんどロゼッタに集中しているんです。初めからそれを『ロゼッタの記録』とまで言ったくらいですから。」
彼はその事実に少し不満を覚えているようだった。
ロゼッタに熱を上げていた兄でもある。
「私に関することも、少しは出てきますよ。」
「例えば?」
彼はメロディの顎を支え、顔を少し上げさせた。
「母のこととか、まあ、そういうことです。」
「それで、その後あなたは幸せになれたのですか?」
メロディはわずかに視線を逸らした。
第1章の終わりに描かれた彼女の最後の姿は、幸福とは程遠いものだった。
けれど、それは初期の悪役に課せられた宿命的な苦痛、あるいは必然の試練にすぎなかった。
「……一体。」
彼女の反応を伺っていたクロードが顔を歪めた。
「記録の中の私は何をしていたんでしょう?きっと君の幸福を求めて必死になっていたはずなのに。」
「……」
記録に残るクロードは、最初から最後までただロゼッタだけを愛していた。
メロディの存在すら知らなかったのだから、彼の思考に入り込む余地は一片もなかった。
結局、メロディは何も答えることができなかった。
「愚か者ですね。」
「ち、違います!」
メロディは、原作に対する彼の感想に思わず反発した。
「記録の中で坊ちゃまがロゼッタだけを大切にしている姿が、私はどれほど好きだったか!」
その熱のこもった様子に、クロードはかすかに寂しげな笑みを浮かべた。
記録に残された彼について語るとき、こんなにも堂々と「好きだ」と言えることに……抑えきれない嫉妬が混じったのだ。
クロードは彼女の顔にかかる長い髪を払いのけてやった。
「うん。なぜか心の奥から浮かんでくる質問があるんだけど、してもいいかな?」
彼はそう言いながらも、その質問を口にせず、自ら首を振った。
――やめておこう、と。
その瞬間、理由は分からなかったが、メロディには彼が何を聞こうとしていたのか、自然と理解できた。
ロゼッタだけを大切にする記録の中のクロードと、今ここにいるクロード、そのどちらを……。
「……好きなんですか?」
彼の唇がわずかに開き、動揺が漏れた。
メロディはようやく自分が失言をしたことに気づいた。
彼が口にした言葉を無意識に繰り返したのは、決して立派な考えではなかった。
彼の心を傷つけるためでなければ、ただの失態にすぎない。
『謝らなきゃ。』
一瞬そう思ったが、それは余計に惨めにさせる気がした。
彼女が何も言えずにいるのを訝しく思ったのか、彼はメロディの頬を数度やさしく撫でてから答えを告げた。
「気にしていません。だから心配しないでください。」
「……」
「最初から不運だった私が悪いんです。申し訳ありません。」
「そんなことありません。」
メロディはそっと首を振り、彼女の髪を撫でていた彼の手が、静かに離れていった。
自然とメロディの視線は彼の指先を追っていた。
少し前まで彼女の額や頬、そしてこめかみや耳を撫でてくれていた……。
その瞬間が惜しいと感じてしまうのはなぜだろう。
かといって、自らその手を掴んで引き寄せる勇気もなく。
「メロディ嬢が私に申し訳ないと思っているからではありません。」
頭上から降りてきた声に、彼女はそっと指先から視線を逸らした。
「お願いがあります。」
「私に?」
「私と会ってくださいませんか?」
そして彼は、気にしているのか、頼みごとらしからぬ説明を付け加えた。
「もちろん、救援の目的で提案しているのです。」
「……あ、わかっています。」
メロディはたじろぎながら、やっと答えた。
もしかして彼はそれに気づかないのかもしれない。
「そう思ってくださっているなら幸いです。」
彼はあくまで普段通りに微笑んでいたが、メロディの目にはどこかからか彼が彼女をからかっているように見えた。
「……十日後に。」
「はい?」
「父上が出立される日です。ヘトフィルド家で演奏会があるんです。」
「ヘトフィルドって……あのヘトフィルドですか?」
「はい、そうです。」
メロディは以前、一度だけヘトフィルド邸の音楽室に招待されたことがあった。
特別楽しい記憶として残っているわけではなかったが、それでもあのとき出会った若い貴族たちに悪い印象を持ってはいなかった。
「はい。ちょうどその日、少しだけ時間が取れそうで。」
公爵がサムエル公に関わる仕事に集中している間、クロードがその空席を埋めなければならなかった。
「演奏会を鑑賞した後は、近くの場所で食事をしてもいいですね。もしあなたが人混みを嫌うなら。」
彼は少し首をかしげながら軽く微笑んだ。
「ジェレミアの薬草畑に行くのもいいですよ。秋が近づいて景色も変わったので、あなたもきっと気に入るはずです。」
その提案はとても魅力的だった。
普段のメロディなら即座にうなずき、約束を交わしたに違いない。
しかしクロードと「救援」を目的とした時間を持つのは少し危険ではないだろうか。
今でさえ混乱しているのに、さらに思い出まで作ってしまえば、メロディはきっと……。
しかも今日は偶然にも、少し前にイサヤが言っていた「同じ日」なのではないか。
「どんな返事でも構いませんから、ゆっくり考えてください。」
「坊ちゃま、あそこにいらっしゃいますよ。とにかく今は……」
メロディは両手を組み合わせ、ようやく口を開いた。
「ごめんなさい、メロディ嬢。」
だが、彼は彼女の言葉にかえって胸を締めつけられたようだった。
「え?」
「少し前、私が余裕のあるふりをして話をした気がして……。」
「……」
彼はそっと目を閉じ、慎重に言葉を紡いだ。
「どうか、ゆっくりと……お願いですから、そんな風に思わないでください。」
震えながら吐き出される心の声。
きっと今の彼は、心の底に残るすべての誠意をかき集め、必死に伝えようとしているのだろう。
これまで常に傍に置いていた余裕すら取り繕うことができずに。
初めて出会ったときには見られなかった、彼の弱い一面を――。
目の前にして、メロディは曖昧な拒絶の言葉を口にできなかった。
だから今は彼が望むように、ゆっくりと、十分に考える時間を持つと約束するしかなかった。
「……そうします。」
彼女の短い返事に、彼はそっと微笑んだ。
再び視線が交わった瞬間、メロディはなぜか急に視線をそらしてしまった。
頬が熱くなったせいでもあり……どうにも気恥ずかしかった。
それでも、彼が視線をそらしたことを気にして傷ついてはいないかと少し不安になったが、幸いそうした様子はなかった。
勇気を出してちらりと彼の方を見上げると、クロードもまたカーテンの隙間から彼女を静かに見つめていた。
言葉もなく、互いにただ見つめ合うだけで。
ふたりはしばらくの間、何も言わずに向かい合って立ち尽くしていた。









