悪役なのに愛されすぎています

悪役なのに愛されすぎています【123話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【悪役なのに愛されすぎています】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介...

 




 

123話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 嫉妬の炎

遅くまで降り続いた春の雨がようやく止み、黄色い花のつぼみがほころぶ――本当の春がやってきた。

魔塔から戻った翌日、クロードは荷物をまとめ、イサヤとメルレンとともに、長い旅路へと出発することになった。

「お兄ちゃん、公爵領には……本当に今、行かなきゃいけないの?」

朝早く起きたロレッタは、寂しげにそう問いかけた。

その声には、泣き出しそうなかすかな震えが混じっている。

昨日、つい怒ってしまったことを、彼女はまだ気にしているようだった。

クロードは、自分の腕にすがりつく小さな妹の髪を優しくなでながら微笑んだ。

「うん。たまには工房に顔を出さないとね。ほら、直接行って、ちゃんと話さなきゃいけないこともあるから。」

「……でも、わたし、お兄ちゃんにまだちゃんと謝ってないの。」

その声は春風にかき消されそうに小さく、彼女の瞳には、朝の光を映した涙がきらめいていた。

クロードはそんなロレッタを見つめ、静かに息を吐いた。

――春の訪れとともに、また新しい別れの季節が来たのだ。

彼はロレッタとおでこをコツンと合わせると、いたずらっぽく笑った。

「大丈夫。俺にも悪いところがあったんだ。……帰ってきたら、もっと話そうな。いいだろ?」

「……うん、そうだね」

ロレッタは後ろに控えていた侍女から、小さなガラス瓶を二つ受け取った。

「これ、この前わたしが作ったお菓子なの。包装して残ったものだから、見た目はちょっとイマイチかもしれないけど……」

「俺にくれるの?」

クロードが目を輝かせて尋ねると、ロレッタは恥ずかしそうに口元を引き結びながら一本の瓶を差し出した。

「うん、はい」

「ありがとう。大切にするよ……それで、そのもう一つは?」

残った瓶を見つめながらそう尋ねると、ロレッタはいたずらっぽく笑い、ちらりと馬車のそばに立つ護衛のほうを振り返った。

「逃げるのよ!」

そう言い残して、ロレッタは風のように駆け出し、瓶を抱えて走っていった――。

「……まさか、それ、私にくださるんですか?」

「うん。お兄ちゃんのこと、よろしく頼むって伝えておいて!」

「感動的ですね。……でも今見たら、どうも私のより大きい気がしますけど?」

「メルレンは体が大きいからね。多めに食べてもらおうと思って。」

「わあ……本当にうれしい……!」

はしゃいでいたイサヤは、ふと口を閉ざした。

ロレッタの小さな背中の奥――そこに潜む強い寂しさが、彼の胸に重くのしかかったのだ。

さりげなく荷物を手に取ったイサヤは、視線をそっと横に向けた。

クロードとロレッタの間に置かれた、二つの砂糖瓶。

どちらもほとんど同じ大きさだが、その瓶をじっと見つめるロレッタの瞳には、涙と怒りが同時に宿っていた。

「……あ、う、うん。」

このままでは、旅の間ずっとクロードが小言攻めに遭うのは目に見えている。

イサヤは、何とかしてその場を取りなそうと、静かにため息をついたのだった。

「量は私のほうが多いけど……きっとクロード様のほうが、ずっと美味しいに決まってます! ね、大将?」

「ん?いや、同じだけど?」

「そんなまさか!でも、クロード様のとはきっと何かが違うはずです!そうですよね? ね、違いますよね?」

イサヤは必死の形相で目を潤ませながら、ロレッタに懇願するような視線を送った。

――お願い、なんでもいいから!クロードにあげたやつのほうが特別だって、そう言って……!

その切なる願いが届いたのか、ロレッタは「はっ」と手を打ち鳴らして声を上げた。

「もう、まったく……ちょっと見てない隙に、すぐ張り合うんだから、騎士様って!」

そう言ってロレッタは髪を束ねていた薄緑色のリボンをほどくと、イサヤの手首にくるりと巻きつけて結んでやった。

「ほら、証拠をもらったんだから、これで安心でしょ?気をつけて行ってきてくださいね、公爵家の騎士様」

ロレッタはドレスの裾を軽くつまみ、優雅に一礼した――。

イサヤは慌てて姿勢を正し、ぎこちなく挨拶をした。

だがその直後、彼の顔色は見る見るうちに青ざめていく。

証票を受け取ったその瞬間から、彼の腕はぶるぶると震え、恐る恐るクロードの表情をうかがった。

「ひ、ひぃっ……!」

――そこにいたのは、クロード・ボルドウィンという名の温厚な神父ではなかった。

嫉妬の炎に燃え立つ、黒い悪魔そのものだった。

 



 

馬車に揺られながらベルホルドへと向かう途中、

クロードはイサヤを叱りつけることはなかった。

よく考えれば、あれだけ気を使って場を和ませようとしたイサヤを責める理由などない。

それでも、クロードはときおり黙ったまま、イサヤの手首を無言で見つめていた。

――あの証票を受け取った手を、まるで何かの罪の証のように。

やがて時間が過ぎ、馬車が外郭の道へと入ったころ、クロードはようやくその沈黙を破った。

彼は馬車の扉を開け、イサヤに向かって静かに言った。

「……少し、風にあたってくる。」

イサヤは慌てて帽子を押さえながら、彼の後を追って馬車の中に戻っていった。

中へ入っていくのも妙な感じがして、とりあえず二人は並んで馬車の座席に腰を下ろした。

長い旅路のあいだ、互いに手綱を握り合うようにして、クロードはイサヤに少しずつ語り始めた――公爵家とメロディが抱えてきた“秘密”の数々を。

もちろん、イサヤがそのすべてを理解して、納得するまでには相当な時間がかかった。

「信じがたい話であることはわかります。……正直、俺自身も未だに整理がついていないくらいで」

すべての説明を終え、クロードが慎重に言葉を選びながら切り出すと、イサヤは小さくうなずいた。

「いえ、むしろ……そう聞くと納得できる部分もあります。確かに、そういうことなら筋が通りますね」

メロディがロレッタを人一倍心配していたこと。

そして突然家を飛び出したのも、彼女なりの理由があったということ。

イサヤはようやく腑に落ちたように表情を和らげた。

「――つまり、これから会いに行く少年は、メロディの協力によって見つけ出された、サムエル公爵の息子……というわけですね?」

「ええ。定期的に様子を見に行かなくてはなりませんし、そのついでにこうしてお伺いすることになりました。それに、サミュエル公爵からの手紙も子どもに渡さなければならなくて。」

サミュエル公爵は、ほとんど毎日のように息子へ手紙を送っていた。

馬車に積まれた封筒の束の多さが、それを物語っている。

クロードは思い出した。

彼が公務から退く前、日々の楽しみとして手紙を書くことを何より愛していたという記録を、どこかで目にしたことがあったのだ。

「では、坊ちゃまが昨日魔塔へ向かわれたのは……メロディ嬢を屋敷に戻す手段を探すため、ということですか?」

「まだ確実とは言えませんが……。ですが、陛下がサミュエル公に対する誤解を完全に解かれない限り、メロディ嬢が屋敷に戻ることはないでしょう。」

クロードの声は静かだったが、その奥にかすかな痛みが滲んでいた。

――彼女の存在が、屋敷にとって害を及ぼすかもしれないと誰かが考えているのだ。

「……それほどまでに、断絶が深いのですね。」

イサヤの声には、どこか疑いの色が滲んでいた。

彼が幼い頃、首都では頻繁に――誰かが命を落としている、という話が耳に入ってきたという。

暗黒の時代、人々はサムエル公爵やその一派に関わるものを徹底的に排除しようと必死だった。

たとえ大したものではなくとも、書状一枚燃やそうとしただけで「裏切り者」の烙印を押され、命を落とす者も少なくなかったという。

「……それでも、きっと……約束は、まだ残っているはずだ」

クロードが小さく呟いた言葉はあまりにかすかで、隣に座るイサヤには届かなかった。

 



 

クロードとイサヤが邸宅を出たあと、ロレッタはいつも通り――いえ、少しばかり静かに時間を過ごしていた。

とはいえ、時折玄関の前にちょこんと座っては、じっと外を見つめる姿があった。

屋敷の片隅で、まるで誰かを待っているかのように――ロレッタはいつも、寂しげな姿を見せていた。

公爵は、娘がメロディを恋しく思う気持ちが日に日に深まっていくのを案じていた。

時間を見つけては、舞台や展覧会などへ連れて行く。

その間だけは、ロレッタも微笑みを見せてくれた。

だが屋敷に戻れば、彼女の瞳はまた遠くを見つめ、メロディの帰りをただひたすらに待つばかり。

――どうすれば、あの子の寂しさを癒せるのだろう。

公爵は何度も思い悩んだ。

そんなある日、皇室の使いが慌ただしく訪れた。

「殿下がお話ししたいとのことです。至急、宮殿までお越しください。」

突然の伝言に、公爵は小さく息をついた。

用件の重さは、言葉を聞かずとも察せられる。

外出の支度をしていると、ロレッタが不安げな顔で近づいた。

「お父さま……まさか、入宮なさるのですか?」

その小さな手が震えているのを見て、公爵は胸の奥にかすかな痛みを覚えた。

――この子はきっと、何かを頼みたかったのだ。せめて自分にできることを伝えたかったに違いない。

もちろん、公爵はそんな娘の気持ちを誰よりも理解していた。

すぐに事情を察したロレッタは、こくりとうなずいた。

「じゃあ、一緒に行くか?私が皇太子殿下と話しているあいだは、執務室か庭園の外くらいしか見て回れないと思うけど」

ロレッタは顔を引き締めると、急いで身支度を整え始めた。

 



 

皇宮に到着したロレッタは、王室庭園の湖畔をゆっくりと歩きながら、鞄の中に入れてきたお菓子の瓶を指先で軽くなでた。

実を言えば、皇宮へ来たところでエヴァンに会えるとは思っていなかった。

魔塔主が倒れて以来、ジェレミアとエヴァンはまるで入れ替わるように動かなくなってしまっていたからだ。

――それでも、皇宮に来るのは好き。

ロレッタはきらきらと揺れる湖面を見つめながら、ふと昔のことを思い出した。

そう、かつてここで――偶然、彼と出会ったあの日のことを。

自然と彼女の足取りはその場所へと向かっていた。

ロレッタの足は、自然と神殿へ向かっていた。

その日も、神殿の中には誰の姿もなかった。

彼女はエヴァンと一緒に隠れていたときのことを思い出しながら、像の後ろに腰を下ろし、鞄から小さなガラス瓶を取り出した。

瓶の中では、新しく作った薄緑色の飴玉がころころと音を立てて転がった。

ロレッタはそれを両手で包み込むように握りしめる。

「……エヴァン。」

その名を、そっと呼んだ。

すると瓶の中で、飴玉の隙間に隠れていた小さな魔力石がふわりと光を帯び始めた。

「わあ……」

淡く輝く半透明の飴が光を吸い込み、まるで瓶全体が瞬いているように見える。

「やっぱりエヴァンは天才だわ。」

ロレッタは輝くガラス瓶を胸に抱いたまま、その場でくるりと一回転した。

頬には、懐かしい春の陽射しのような笑みが浮かんでいた。

「……早く会いたいな。」

ぽつりと漏らしたその言葉の直後――

「誰に会いたいって?」

不意に背後から声がした。

ロレッタはびくりと目を見開き、振り向いた先を息を呑んで見つめた。

視線の先――彫像の向こう側から、こちらを覗き込んでいる一人の男と目が合ったのだ。

その男は険しく彫りの深い顔立ちをしていたが、硬い表情を和らげようと、どこかぎこちなく微笑もうとしていた。

相手が子どもだと察しているようだった。

「ぺ、ぺはっ……!」

その不器用な笑顔にロレッタは思わず変な声を上げてしまい、真っ赤な顔で立ち上がった。

「それ、瓶の中に入ってるのは魔力石だな?子どもに持たせた覚えはないが……?」

男――皇帝は周囲を軽く見回したあと、彫像と壁の間の狭い隙間を無理やり通り抜け、ロレッタの隣に腰を下ろした。

とはいえ、大人の身体でその狭い場所に座るのは至難の業で、彼は膝を抱えるようにしてぎゅっと体を縮こませた。

「……公女は、こんな窮屈なところによくまぁ平然と座っていたものだな」

「へ、陛下、これはその……!」

ロレッタは慌てて飴の瓶を背中に隠し、必死に弁明しようとした。

けれど、皇帝は彼女の動きを見逃さなかった。

伸ばされた両手がすばやく瓶を取り上げる。

「あっ!」

ロレッタは思わず声を上げたが、皇帝の手からそれを取り戻すことはできなかった。

普段、陛下は彼女に対して穏やかで優しい。

だが――幼い娘が魔力石を所持していると知った今、その穏やかさがどんな表情に変わるか、ロレッタには想像もつかなかった。

(どうしよう……!)

胸の奥で鼓動が跳ねる。

もしこのことが父や家の耳に入ったら、ただの遊びでは済まされない――そう思った。

だが皇帝は、意外にも笑みを浮かべながら瓶を手の中で転がした。

「ふむ。なかなか見事な仕上がりだ。こうしてみると、装飾品としても十分通用しそうだな。」

「…………」

「私も公女と同じものを作ってみようか。この中に入っているのは……人工の宝石か?」

ロレッタは凍りついたまま言葉を失った。

彼女の小さな秘密は、思いがけず皇帝の興味を引いてしまったのだ。

皇帝が瓶を軽く振りながら問いかけると、ロレッタは少し緊張した面持ちで答えた。

「さ、砂糖菓子です!」

「ほう?」

「本当ですよ!ご覧になります?」

ロレッタは皇帝の手から瓶を受け取り、ふたを開けた。

一番上にあった砂糖菓子をひとつつまみ上げ、自分の口に放り込み、もう一つを取り出して皇帝の前に差し出す。

その仕草がよほど面白かったのか、皇帝は思わず声を上げて笑った。

「公女が先に口にしたのは、毒ではないと証明するためかな?」

ロレッタが砂糖菓子をもぐもぐと噛みながらこくりとうなずくと、皇帝はそのまま差し出された菓子を口に放り込んだ。

「……これは、なかなか美味いな。昔、兄弟たちと庭園で遊んでいるとき、年老いた侍従がこっそりこういうものを分けてくれたものだ。乳母たちは、そりゃあもう烈火のごとく怒っていたがね」

ロレッタは彼の表情を注意深く見つめた。

皇帝はロレッタに叱責の言葉を投げるでもなく、魔力石について詮索する気配も見せなかった。

「兄弟たち……というと、魔塔主のことですか?」

おそるおそる問いかけると、皇帝はゆっくりと目を細め、自分の隣を軽く叩いてみせた。

ロレッタは少し迷った末に、その隣へ腰を下ろした。

彼女が落ち着くのを見届けてから、皇帝の話が続く。

「そうだ。オーウェンは甘いものが好きでね。」

「仲良く分けて召し上がっていたんですか?」

「そうだな。だが、末の弟が生まれてからは――すっかりその子に甘くなってしまってな。」

その声に、どこか懐かしさと寂しさが混じっていた。

今度は、皇帝がロレッタの目線に合わせて微笑む。

「わかるかい?」

「ええ、わかります。」

「……わかると?」

「私も末っ子なんです、陛下。だから、お兄さまたちはいつも私を甘やかしてくれます。どんなことでも、です。」

「なるほど。」

皇帝はわずかに笑みを深めた。

「公爵のご兄弟たちも、きっと君のことを何よりも大切に思っているのだろうね。」

その言葉はやさしく響き、ロレッタの胸に、少し遅れて温かさが広がっていった。

「……だから、可愛くて仕方なかったんだ」

「陛下も……末の弟君を、とても可愛がっていらしたんですね……あっ」

口にしてから、ロレッタは自分がとんでもなく危うい発言をしてしまったことに気づいた。

皇帝とその弟たちに関する話は、彼女もある程度は知っていたのだ。

「……し、失礼しました……!」

慌てて謝罪しようとしたそのとき、皇帝は軽く肩をすくめて穏やかに言った。

「ああ、可愛がっていたよ」

「……陛下……」

「人懐っこくて、誰にでもよく懐く子だった。皆から好かれていたけど――一番愛していたのは、間違いなく私だ」

長い時間を越えて思い出を辿るようなその表情に、ロレッタは胸の奥がざわめくような、不思議な感情を覚えた。

今まで、皇帝と末弟の仲は悪いと教えられてきた。

だから――

「……その方を、愛していらしたなんて……知りませんでした」

「――昔の感情に過ぎないさ。」

「……ということは、今はもう愛していない、という意味ですか?」

控えめに問いかけたロレッタに、彼はすぐには答えなかった。

静寂がふたりのあいだに降りる。

ロレッタは飴の瓶を両手に抱えたまま、その答えをただじっと待った。

やがて、皇帝は深く息を吐き、低く呟くように言った。

「……では、こうしよう。」

言葉を選ぶように間を置き、彼はゆっくりと口を開いた。

「私は皇帝として、この出会いを永遠に沈黙の中に留めよう。その代わり、公女も――私のことを、そうして胸の奥にしまっておいてくれ。」

ロレッタは驚きに目を瞬かせた。

魔力石の件を咎めるどころか、秘密を守るという申し出――それは、彼女にとって思いがけないほど優しい提案だった。

「……サミュエル。」

皇帝はその名を、まるで大切な宝を撫でるようにゆっくりと口にした。

その声音には、遠い日の懐かしさがにじんでいた。

「サミュエルは――傍にいるものを大切にする人だった。まるで、それが世界のすべてだと思っているかのように。乳母たちよりも、私と一緒に遊んだり寝たりするのが好きだったんだ」

「それくらい懐いてたなら……少し可愛かったでしょうね」

「まあ、たまに面倒だとは思ったさ。でも、いつも後ろをちょこちょこ付いてくるあの小さな子を、本気で可愛がるのは……それほど難しいことじゃなかった」

その言葉はまるで、ロレッタの問い――「今でも愛しているのですか?」への遠回しな答えのようだった。

つまり、今でも――愛している、と。

ほんの少し言葉を濁したようにも聞こえたが、確かにそう言っている。

「……きっと、私が正気を失ったように見えるんだろうな?」

「そんなこと、ありません」

ロレッタは瓶を指先でくるくると弄びながら答えた。

瓶と砂糖菓子がぶつかるたび、星が砕けるような小さな音が鳴った。

「誰かをひそかに想うことは、悪いことじゃないですよ。……私にも、密かに好きな人がいますから」

「……公女、が?!」

驚きに目を見開いた皇帝が思わず身を乗り出す。

ロレッタは慌ててその口元に指を当て、小さな声で囁いた。

「しっ……内緒です。」

「なるほど、秘密か。」

皇帝はいたずらっぽく微笑むと、彼女に倣って自分の唇にも指を当てた。

「秘密だとしても――もし公爵が知ったら、一体どんな顔をするのか……ぜひこの目で見てみたいものだ。」

「陛下が秘密を守ってくださるなら、いずれお父さまにお話しするとき、証人として陛下のお名前をお借りしますね。」

ロレッタの思いがけない提案に、皇帝は声を立てて笑った。

「いいだろう。その代わり――公女の心を射止めたその“幸運な少年”を、私も応援してやらねばな。公女が幸せになれるよう、祈っているよ。」

「……でも陛下、本当に秘密は守ってくださるんですよね?」

「私がか?ああ、もちろん。この口から漏れるようなことは、決してない。」

にやりと笑う皇帝の表情には、どこか少年のような無邪気さが戻っていた。

「……そんな気がします」

「……どうして?」

「うーん……」

皇帝は腕を組んだまま、しばし沈黙に沈んだ。

ロレッタは彼が考えをまとめる時間を静かに待った。

「俺たちの間には、あまりにも多くのことがあった。何より……俺が熱心に愛していたという事実そのものが、あの子にとっては――それほど大きな意味を持たなかったのかもしれない」

その言葉を聞いたロレッタは、かつて学んだ歴史の一節を思い出した。

サムエル公爵の外戚であるグラハムス伯爵が反逆を企て、皇帝の命を狙った――そんな事件の記述だった。

「……なるほど」

「だからこそ、私の外戚の甘い言葉に乗って、あの子は私を裏切った……ということになるな。まあ、幼い公女には荷が重い話だったんだろう。――何にせよ、もう過去のことだ」

話を切り上げようとした皇帝の腕を、ロレッタは思わずそっと掴んだ。

どうしてそんなことをしたのか、自分でもよくわからなかったけれど――。

ロレッタはもう少し話を聞きたいという気持ちを抑えきれず、静かに口を開いた。

「その方って……つまり、陛下の末のごきょうだいのことですか?」

「……ふむ?」

「お祖母さまの甘い言葉に惑わされて、陛下に対してよからぬ思いを抱いてしまった……とか?」

「まさか。」

皇帝は苦笑をこぼし、首を横に振った。

「その子は私に“何も知らない”と言った。だがな、それこそが一番信じられない言葉だ。」

「どうしてですか?」

ロレッタが身を乗り出して尋ねる。

皇帝は少し居心地悪そうに目を伏せたが、好奇心に満ちた公女の瞳を前にしては、否定もできなかった。

「……サミュエルを皇位に就かせようとした争いがあってな。あの子は――その渦中で、私を裏切ったのだ。」

その声には、怒りではなく、どこか寂しさが滲んでいた。

だが、ロレッタにはその言葉の奥にまだ語られない真実があるように思えてならなかった。

皇帝の顔には、どこか言いにくそうな、複雑な表情が浮かんでいた。

「何より……あの子が本当に何も知らなかった、という証拠はどこにもなかったんだ」

「……そういう調査は、なさったんですか?」

「いや」

皇帝は即座に答えた。

あの日以来、彼はサムエルと内通していた周囲の人間を全員捕らえ、皇宮へと連れてこさせた。

だが――目の前に並ぶ捕縛された者たちに、彼は何一つ問いただすことができなかった。

『……正確には、問いただせなかった』

もしかしたら、愛する末弟の本心を知るのが怖かったのかもしれない。

「サムエルはあなたを殺そうとしました」と、その口から聞かされることを――。

結局、彼は誰にもまともな尋問をせず、関係者を一斉に処刑してしまったのだ。

「……陛下、泣かないでください」

ロレッタの心配そうな声に、皇帝はそのとき初めて――自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。

「……そうか。すまなかったな。」

「平気です。」

ロレッタは瓶の中からもう一粒、淡い緑色の飴を取り出して、皇帝の手のひらにそっと置いた。

「本当に大丈夫です、陛下。」

そう言って微笑むと、彼女はまた瓶を抱きしめるようにして膝の上に置き、ころころと指先で転がしながら、静かに音を聞いていた。

「…………」

皇帝は手のひらの上で輝く飴を、じっと見つめた。

透き通った緑の光が、まるで遠い昔の記憶を映し出すようにきらめいている。

――愛していた。それは確かに真実だった。

だが、その弟が王座を狙っていたという事実が、長いあいだ彼の心を縛っていたのだ。

恐れと疑いが、愛の記憶を覆い隠してしまっていた。

けれど今は違う。

「……あのときは、仕方がなかったのかもしれんな。」

彼の声には、どこか穏やかな響きがあった。

思い出すのは、病に伏せるオーウェンの姿。

皇帝といえども、永遠ではいられない――そのことを痛感していたのだ。

彼は静かに目を閉じ、飴の光を手の中でそっと包み込んだ。

そのとき、皇帝ははっきりと気づいた。――自分は、まだすべてを終わらせたいわけではないのだと。

けれど、どうすればいい?

これまでにあまりにも多くの人々を処刑してきた。末弟も、きっと今さら自分を許すことなど――。

証拠になるものがあるとすれば……

それは、かつて彼の名で魔塔へと使者を送ったときのことだった。

本当は、末弟のオーウェンが皇宮へ戻ってくるなどとは、これっぽっちも期待していなかった。

ただ――手紙の一通くらいは届くだろう。

幼い頃、兄弟たちが離れ離れになるたびに交わした、あの懐かしい書簡のように。

だが、オーウェンからは何の返事もなかった。

「……今さら、もう遅いんだ」

皇帝はロレッタが差し出した砂糖菓子を口に入れた。

幼い頃を思い出させるような、甘くやさしい味が口の中に広がっていく。

――死ぬ前に一度だけ、サム…いや、末弟に会えたなら。

そんな想いが、ふと胸の奥からこみ上げてきた。

彼が自分を裏切ってなどいなかった――その証を、どうしても見つけたかった。

だが、どこからどう辿ればいいのか。

関わった者たちは、皆彼の手によって葬られていた。

ごく最近に至るまで。

『……クリステンソン邸から逃げ出した娘がひとりいた、とか。』

 



 

 

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