こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
123話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 崩壊
翌朝。
出発の準備をすべて整えたドフィンが、朝早くからノアを訪ねてきた。
ノアもまた、彼が来ることを知っていたかのように、すでにすべての準備を終えた状態で待ち受けていた。
「呼んでくだされば、私が参ったのに。」
「時間がないので、直接来ました。」
無愛想な態度を崩さぬまま、しかし一瞬の視線でノアを支持し、彼の決意を理解した。
「神殿を打ち壊すことにしました。」
ノアは、エステルとの会話の時点からドフィンの心はすでに決まっていると察していたが、実際にその言葉を聞くと、胸の奥に深い感慨を覚えた。
「早い決断をありがとうございます。本当に大きな助けになります。」
「皇室のためではありません。私自身の必要のためです。」
ドフィンは礼を言うこともなく、きっぱりと皇宮との線を引いた。
「私も皇室のために働いてほしいのではありません。神殿を打ち壊すという目的は同じでしょう?」
神殿に強い拒絶を示すノアをじっと見つめながら、ドフィンは深く腕を組んで尋ねた。
「今まさに神殿へ行く予定です。一緒に行きませんか?」
風ひとつない室内なのに、彼の周囲だけ冷たい風が吹き抜けるような錯覚を覚えた。
まさか一緒に行こうと誘われるとは思っていなかったノアは、ぱっと明るく笑みを浮かべ、急いで答えた。
「はい、参ります!」
ドフィンがそのまま体をひるがえすと、ノアは彼が気が変わらないうちにと、慌てて後を追った。
ドフィンは心の中でつぶやいた。
『これでいいだろう。』
実のところ、昨夜エステルとノアが二人きりで会ったと聞いた時、ドフィンの胸には少しざわつく思いがあった。
それで、家を留守にしている間は二人がまた会えないようにと、わざわざ連れ出そうとしたのだ。
『どうやら大公が私に少し心を開いたようだな。ありがたい。このまましっかり信頼を得なければ。』
ノアはこれを前向きな兆しと捉え、心の中で密かに歓喜した。
外へ出てみると、すでにノアのために用意された馬が、磨き込まれた鞍を光らせながら立っていた。
「馬に乗れるのですよね?」
手綱も取らずに優雅に馬へ跨ったドフィンは、ノアを見下ろしながら当然のように尋ねた。
「落ちないくらいには。」
幼い頃から乗馬術を学んできたノアは、軽やかに馬上に身を預けた。
「騎士団舎へ向かいます。」
駆け出すように一息で馬を走らせ遠ざかるドフィンを追うため、ノアも慌てて愛馬のたてがみを握った。
ドフィンの黒馬とノアの栗毛馬では力の差が歴然だった。
力でも劣るノアは、彼に追いつくため必死に馬を駆らなければならなかった。
懸命に食らいついて騎士団舎へ辿り着くと、すでに整列して待っていた騎士団の姿が目に飛び込んできた。
「……。」
ノアは一瞬、言葉を失いごくりと唾を飲み込んだ。
常に勝利のみをもたらすと噂される無敗の騎士団。
その名声を遥かに超える圧迫感が全身にのしかかってきた。
全体の中から精鋭中の精鋭だけを集めたというのに、その威容は壮観だった。
ドフィンと同じ黒の甲冑を身にまとった騎士団が、なぜ「帝国最強」と呼ばれるのかが一目で理解できた。
それはまさに身の引き締まる瞬間だった。
「今から神殿へ向けて出発する。我らには正義があるのだ、疑うな。」
荒々しくも力強いドフィンの声に、ノアの背筋がぞくりと震えた。
ドフィンのひと言に、騎士団の士気が燃え上がり、その熱が隣にいたノアの肌にまで伝わってきた。
「行くぞ!」
ドフィンはそのまま馬を走らせ、ノアに目で「ついて来い」と合図した。
ノアは歯を食いしばり、ドフィンを追うべく馬の腹を蹴った。
そして走り出すと同時に、ほんの一瞬だけ後ろを振り返った。
そこは、エステルがいる大公邸の方向だった。
『エステル、ついに始まるんだ。』
まだようやく馬を操れる程度で、ラビエンヌに追いつくには乗り越えるべき壁が数えきれないほどある。
それでも――。
エステルが長く待ち望んでいたこと、そしてノアにとっても待ちに待った復讐の幕が開く瞬間だった。
一度も止まらず全速力で走った結果、40分かかる距離を20分で到着することができた。
遅れまいと全力を振り絞ったノアは、馬が止まった後になってようやく緊張を解き、大きく息を吐いた。
久しぶりにたてがみを強く握った手は火に焼けたように熱を帯びていた。
「馬の扱いがずいぶんお上手ですね。」
「……ありがとうございます。」
ドフィンは感心したような眼差しでノアを見た。
途中で落ちると思っていたのに、よく訓練された大人たちの後ろを最後まで離れずについてきたことに内心驚いていた。
口先ばかりの学者風の少年だと思っていたが、予想を裏切られたのだ。
どうやら話し合いで済む状況ではなさそうだった。
「このまま押し入るぞ。」
ドフィンは馬から飛び降り、重々しく叫んだ。
騎士団も次々と馬を降り、彼の背後に整列する。
巨大な中央神殿へと歩みを進めるドフィンの背中には、いささかの迷いも感じられなかった。
彼は妨げる者があればすべて薙ぎ払うつもりなのか、腰に差していた剣を抜き、力強く握りしめた。
まだ神殿が開くには早い時間帯で、扉は固く閉ざされていた。
門を守っていた門番は、のんびりと欠伸をしていたが、異様な気配を察知して慌てて立ち上がった。
「な、なんですか一体!?朝っぱらからどういうことです!そんな予定があるなんて聞いてませんが……!」
「退け。」
ドフィンの鋭い眼光を正面から浴びた門番は、膝が震え、ガクガクと音を立てながらその場に崩れ落ちた。
「そ、その……ひとまず私が中へ伺って参ります。そして武装した騎士の方々は中へお入りいただくことができませんので……」
そう言いかけた門番は、圧迫感に喉を締めつけられるように感じて、じりじりと後ずさった。
しかし背後は壁で、もう下がる場所はなかった。
彼は両手で壁を支えながら涙を浮かべた。
「わ、私がすぐに入って参りますので、少しだけお待ちいただけませんか?いえ、殿下ご自身がご一緒に入られても構いません。」
門番が何を言おうと、ドフィンの表情は微塵も揺らがず、まるで虫けらでも見るように冷淡だった。
「今、私の前を塞ぐつもりか?」
その視線に怯え、門番の顔色はますます青ざめていった。
「ぜ、絶対にそんなことはございません!ただ、その……武装した騎士の方々だけは少し下がっていただければと……」
道をふさがれるのを嫌うドフィンは、不快な気配を隠そうともせず眉間にしわを寄せた。
そして余計な言葉は一切なく、手にしていた剣の鞘をカチリと外す。
シュルン、と金属が擦れる音とともに、鋭く研がれた剣先が朝日の下でまばゆい光を放った。
顔が映り込むほどに磨き上げられた刃を目にした門番は、ヒッと息を呑み、声を上げることすらできずに口をぱくぱくさせる。
「どけないなら、どかすまでだ。」
ドフィンが剣を振り上げた瞬間、門番はガタガタと震えながら合鍵を引き抜き、転げるように扉へと駆け寄った。
いかに門番といえど、鋭い刃に貫かれる恐怖には抗えなかった。
「ど、どうぞ!お入りください!」
重い扉が両側に開かれる。
ドフィンはそのまま堂々と足を踏み入れ、神殿の奥へと歩を進めた。
もちろん、その背後には彼の騎士団も続いていった。
そのまま真っ直ぐ奥へ進んだドフィンは、すぐに階段を上って二階へ向かった。
一階は誰でも出入りできる場所だが、二階から先は神殿の関係者だけが立ち入れる空間だった。
ドフィンを止めようと近づいた聖騎士たちも、やはり威圧に押されて足がすくみ、阻むことができなかった。
二階の広間に集まって朝の祈りを捧げていた神官たちの視線が一斉に揺らいだ。
「今、私の目にしか映らないとでも思うのか?」
「い、いえ……ひとりやふたりではございません。」
ドフィンは怯えた神官たちを無視して、堂々と歩みを進めた。
そして最前列にいた一人の神官を立たせ、問いかけた。
「神官長はどこにいる?」
「な、何事でございますか?無断で押し入られた方に、神官長様のお居場所をお伝えするわけには参りません!」
「すぐに言わぬなら——」
冷ややかに目を細めたドフィンが、剣を高く掲げた。
その気迫に、たとえ何があっても口を割るまいと思っていた神官もガタガタと震え、結局は居場所を白状してしまった。
「い、今……会議室におられます……!」
「案内しろ。」
ドフィンはその神官を前に立たせ、無理やり会議室へと向かわせた。
その途中、反対側から歩いてきた別の神官が、ドフィンと捕まった神官の姿を見て、驚愕のあまり声を上げる。
「ひっ、ひぃぃ!」
そして慌てふためいた神官は、会議室にいる神官長のもとへ、狂ったように駆け込んでいった。
「し、神官長!一大事です!いま大公殿下が武装したまま騎士団を率いてここに乱入してきています!」
その時、神官長は数名の神官と共に朝の会議を行っている最中だった。
「なぜでございましょう?」
「私にも分かりません。ただ、状況が深刻なのは確かです。どこかへ逃げる準備でもしておくべきでは……」
「私が出ていこう。」
パラスは何が起きているのか理解できないという表情のまま、ひとまず従者を連れて外へ出た。
ちょうどその頃、彼を探していたドフィンと鉢合わせし、二人は回廊で向かい合った。
無防備なドフィンの姿を見て、パラスの顔には一瞬暗い影が走ったが、それでも平静を失わぬよう努めながら彼に近づいた。
「殿下、一体これはどういう状況なのか、ご説明いただけますか?」
「唐突で申し訳ないが、本日をもって神殿を閉鎖する。」
「は……?閉鎖、ですと?」
ドフィンが簡潔に核心だけを告げるとパラスはその意味を理解できず、呆然と立ち尽くした。
「ベン。」
「ここにおります。」
秘書のベンが抱えてきた書類を差し出す。
ドフィンはそれを受け取り、再びパラスの前に突きつけるように置いた。
「開いてみればわかる。お前たちの不正が書かれている書類だ。」
ドフィンは、ざわめき始めた周囲の神官たちに「見逃さないぞ」という鋭い視線を送った。
「私は女神様に対して、恥ずべき行いなど一切しておりません!」
パラスは足元に置かれた書類を拾い上げながらも、必死に言い張った。
だが、その目にはまるで確信がない。
しかし、一人が潔白を叫んだところで、事態は終わらない。
彼の背後には、数十人もの神官たちがずらりと並んでいた。
「知らなかった、では許されぬということだ。人を納得させられぬのも、結局はそなたの責任だ。」
「大公殿下……我らに問題があると言うのなら潔く受け入れます。ですが、無条件の閉鎖をお命じになるのは、あまりに過酷なお裁きではございませんか。」
必死に訴えるパラスの声を耳にしながらも、ドフィンの冷徹な眼差しは一切揺らがなかった。
「これは陛下のご命令でもある。そなたらと議論する余地はない。本日をもって神殿を閉鎖する。ひとり残らずテレシアを去れ。」
パラスとドフィンのやり取りを聞いていた神官たちが、後方から声を荒げ反発した。
「閉鎖など、認められるはずがない!」
「これは弾圧であり横暴です!我らは決して神殿を離れません!」
ドフィンは深く息を吐いた。
予想していたことではあったが、やはり穏やかな言葉で従うような者たちではなかった。
「やむを得んな。仕方がない。」
ドフィンは騎士団を振り返り、次の指示を下した。
「神殿の中にいる者を一人残らず集めろ。」
「はい、承知しました!」
命令を受けた騎士団は一斉に神殿の至る所へ散っていった。
同時に、あちこちから悲鳴が上がる。
悲鳴のせいで騎士団の行動は乱暴に見えたが、実際に誰かを傷つけたり荒々しく扱ったりすることはなかった。
人々は驚き、声を張り上げるだけで、怯えた顔で騎士団に促され、従者や神官たちは次々と集まっていった。
「もう全員そろったか?」
神殿に入ってから二十分も経たないうちに、祈祷の場は人でぎっしりと埋め尽くされた。
適当に連れてきたとしても、動員された騎士団員の数が多かったため、神殿関係者の大部分はすでに集められていた。
「殿下、どうしてこのようなことをなさるのですか。これは間違っています。女神様が恐ろしくはないのですか?」
誰かが背後から声を張り上げた。
ドフィンの視線がゆっくりとその者へ向けられる。
「間違いだと?それを決めるのは誰だ?お前たちは果たして本当に果たすべき義務を果たしたのか?」
――沈黙。
ドフィンが持参した書類には、多くの名前が記されていた。
皆が不当だと憤り、怒声を上げながらも、その中に自分の名があるのではと恐れて口を閉ざした。
集められた者の中には本来なら神殿を守るべき聖騎士もいたが、彼らはすでにドフィンの騎士団の威圧の前に戦意を失っていた。
もはや引き返すことのできない状況を見て、絶望したパラスが気の毒そうに口を開いた。
「このままでは、神殿を敵に回すことになりかねません。……本当にそれでよろしいのですか?」
「偽物が何だって怖いものか。」
ドフィンの答えを聞いたパラスが一瞬たじろいだ。
内に迷いのないその眼差しに、思わず息を呑んだのだ。
「まさか……何かご存じなのですか?」
「何のことだ?」
パラスは眉間にしわを寄せて考え込むドフィンを見つめていたが、やがて、まるで覆っていた外套を脱ぎ捨てるように、長く隠してきた本心をさらけ出した。
「神官長!!」
周囲から驚愕の声が上がったが、パラスは気にせず唇を固く結んだ。
「殿下は正義を追い求めておられるのですか?」
「少なくとも神殿よりはな。」
「……では、私もお力をお貸しします。」
ドフィンとノアが一瞬視線を交わし、互いに「意外だ」という眼差しを見せ合った。
神官長の座にあるパラスが、こうもあっさりと神殿を裏切るとは、誰も予想できなかったのだ。
「神殿を出るつもりか?」
「はい。すでに命じられた通り従いました。私もまた、自分が信じる正義のために働きたいのです。」
ドフィンはパラスが嘘をついていないか確かめるようにじっと目を凝らしたが、そこにあるのは真心だけだと感じられた。
神殿の廃止に不安を抱く領民を納得させるためには、神官長であるパラスが直接助力してくれるなら大きな支えとなる。
「よかろう。」
ドフィンはパラスに手を差し出した。
パラスは両手でその手をしっかりと握り返し、二人の間に取引が成立した。
「パラス神官長!本当に我らを見捨てるおつもりですか?」
「聖女様は天罰をお受けになるでしょう。お一人でそのようなことをしてはなりません!そ、そんな……裏切り者!」
信徒たちがどれほど叫ぼうとも、パラスはまるで耳を塞いだ人のように静かに黙していた。
ドフィンはすべてを聞き入れたかのように、冷ややかな目で彼らを見据えた。
「今から、パラスを除いた全員を余すことなく外へ追い出せ。」
神官たちはどうにかしてドフィンにもう一言食い下がろうとしたが、騎士団に口を塞がれ、そのまま引きずられていった。
しばらくして、一瞬にして空っぽになった室内をドフィンがゆっくりと見回した。
欄干から一階を見下ろしてみても、その壮麗さは揺るがない。
「これから、どうなさるおつもりですか?」
今まで黙っていたノアが、初めてドフィンに問いかけた。
「神殿を開放するつもりだ。」
神殿が人を選んで受け入れるということを、ノアは一族から聞いて知っていた。
名目上は「万人に開かれた神殿」だが、実際には選ばれし者しか中に入ることができなかったのだ。
ドフィンは腕を組んだまま、神殿の中央にそびえ立つ女神像をじっと見つめ、大きく叫んだ。
「今この時をもって、テレシアから神殿は消え去った。ここはもはや神殿ではない。」
そして目を見開き、さらに深く力強い声で続けた。
「今日からここは誰でも入れる場として開放する。すべての扉を開け放て!」
ドフィンの命令が下るや否や、脇で待機していた騎士たちが一斉に駆け出し、1階へ向かった。
ノアは壇上の前に立ち尽くし、なおも像を見つめているドフィンの傍らへ静かに歩み寄り、尋ねた。
「ここを今後も利用されるお考えですか?」
「はい。このまま閉鎖してしまえば、民衆の反発はむしろ大きくなるでしょう。だから領民のための空間として使うべきです。完全な廃止ではありません。ご不満ですか?」
「いいえ。神殿勢力を打ち破るのが本来の目的なのですから、これで十分です。」
その後、この場所をどう使うかはドフィンの自由だ。
そこまで干渉するつもりはノアにはなかった。
「誰も傷つかずに済んでよかったです。規模が大きいだけに、流血沙汰になるのではと心配していましたから。」
「まさか、私が神官たちを無惨に殺すのではと心配していたのではないか?」
ドフィンが何気なく放った一言も、真顔で言われると冗談なのか本気なのか判別がつかなかった。
ノアはどう返すべきか迷った末、正直に打ち明けた。
「……もちろん、それも心配していました。多少の犠牲が出ても仕方ないかもしれないと覚悟もしていましたし。ですが……結果的にきれいに収まりましたね。」
もし他の神殿の聖騎士だったなら、簡単に屈することなく戦っていただろう。
それほどに、ドフィンとその騎士団の力が圧倒的だということだった。
「宮殿に戻ったら、今日私が見たこと、聞いたことをすべてそのままお伝えください。これから帝国は大きな混乱に見舞われるでしょう。怖がらず、信じて進めと、この言葉も伝えてください。」
「必ずお伝えします。またすぐにお会いしましょう、大公閣下。」
ノアはドフィンと別れの挨拶を交わした後、先に神殿を後にした。
外はまるで地獄のような有様だった。
「お願いです、せめて荷物だけでも持ち出させてください、これはあまりに酷すぎます!」
「聖女様がご存知になれば、決して黙っていらっしゃらないはずです!いくら大公の命令でも、これは行き過ぎです!」
ドフィンの前では一言も言えなかった神官たちが、外で騎士たちに遮られながら必死に叫んでいた。
どうしても神殿を離れられずに嘆き悲しむ彼らと、何事かと様子を見に来た群衆が入り乱れ―人々は雲のように群れ集まっていた。
『安定するには時間がかかるだろうな。』
ノアは馬に乗り、その光景を目に焼き付けながら心の中でつぶやいた。
どう見てもドフィンが神殿を圧迫している状況に、人々がそう簡単に慣れるはずはない。
だが、赤いマントを翻すドフィンとパラスが一緒にいるので、大きな心配は不要だとノアは判断した。
そしてそのまま馬を走らせ、皇宮へと向かった。
一方、まだ神殿に残っていたドフィンは、すべてを諦めたかのように茫然と立ち尽くしているパラスへと視線を向けた。
「お前が祭服を脱いでくれたおかげで、大きな混乱もなく収められたが……本当の理由は何だ?」
神官たちの前では、パラスがすぐに従ったように見えた。
しかし、ドフィンが神官長にまで上り詰めた彼をそのまま信じるはずがなかった。
パラスは、じりじりと迫ってくるドフィンの圧迫感を受け止めながら目を伏せて震える息を吐き出した。
「今の神殿は正義ではないとおっしゃったでしょう。その言葉が、私には何より大事でした。」
ドフィンが目を細め、パラスを正面から見据えて答えた。
「先代の聖女であったセスピア様は、私の親しい友人でした。健やかだったセスピアが急に体調を崩した頃から、何かがおかしいと感じていました。そして最後に二人で会ったとき……セスピアは私にこう言ったのです。」
「何と言った?」
「ラビエンヌ、つまり今の聖女を決して信じるなと。そして、悪に染まったその顔が崩れ落ちるのを見たいと……そう仰いました。」
そう語るパラスの瞳には深い悲しみが宿っていた。
それはまるで、愛する者を喪った人間のもののような切ない光だった。
――ラビエンヌ。
ここでその名を耳にするとは思っていなかった。
だが、その瞬間、ドフィンはパラスの言葉を信じることにした。
神官長が現聖女を否定するなど、ただの「演技」で済むことではない。
確かに、代々の聖女にそんな話を聞かされたことなどなかった。
「神官長にまでなったあんたが、本当に神殿を捨てるつもりか?」
「すでに捨てました。祭服を脱いだ瞬間から、私は神官ではありません。」
パラスは一片の未練もないとでも言うように、足元に置いていた祭服を払いのけた。
「いいだろう。なら俺を助けろ。」
「私に何をさせたいのですか?」
「まずは神殿に留まれ。押し寄せる信者たちが、この状況を受け入れるように導け。」
「……どんな方法で?」
「簡単なことだ。お前も言ったじゃないか。今の神殿が正義ではないと気づいた者は皆、利用する価値はある。今後どう動くか見極めてみよう。」
「やってみます。」
パラスは固い決意を示すようにうなずいた。
そして少し躊躇いながらも、ドフィンを見上げておそるおそる問いかけた。
「その……ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
ドフィンは答えの代わりに、わずかに表情を動かした。
「殿下は一体、何を望んでおられるのですか?まさか王になろうと……?」
「そんなはずがあるか。私はただ、娘を守ろうとしているだけだ。」
パラスにはその意味が理解できなかったが、ドフィンは説明するつもりもなく、すぐに話題を変えた。
「神殿の財政状況はどうだ?」
「……申し訳ありません。床のように、底をつきました。」
面目を失ったパラスは深くうつむいた。
ドフィンが送った救護資金を、神官たちが食い物にしていたからだ。
「お前がやったんじゃないことは知っている。だが、他の神官どもはその間ずっと貪っていたらしいな。そして、その目を閉じていたのだろう。――まずは俺が持ってきた書類を神殿の掲示板に貼り出して、公にするんだ。」
誰もが目にする掲示板に、積み上がった不正の証拠をさらすことは、すなわちこの神殿の崩壊を意味していた。
神殿を捨てる覚悟を固めていたとはいえ、まだどこかに未練を抱えていたパラスは、思わず息をのんだ。
自分が神官長であった間に起きた不祥事なのだから、当然すべての批判は自分に向かう。
それでも、その責任と無能さの汚名を背負うのは、他でもない元神官長であるパラス自身だった。
「……承知しました。」
パラスは目を固く閉じたまま、床に崩れ落ちるようにはならなかった。
膝が床にぶつかると、冷気がその膝から全身へと伝わっていった。
「守ってみせます。」
呆然とした様子のパラスを一瞥したドフィンは、そのまま体を翻し、階段を下りていった。
激しい嵐が過ぎ去ったあとのように、神殿は静まり返っていた。
そして、テレシアで数百年にわたり続いてきた中央神殿の歴史も、この日で終わりを告げた。
広大な空虚だけが残った神殿に、一人残されたパラスの瞳には涙が溢れた。
「セスピア……今からでも、私がよくやったと言ってくれないか?私は……私は、君に会いたくて仕方ない。」
パラスは押し寄せる波のように溢れる感情に呑まれ、耐えきれず涙を流し続け、ひとり嗚咽を漏らした。







