こんにちは、ちゃむです。
「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

112話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 勇敢な歩み
幸いなことに、ヒギンス家はリンゴを買い足さねばならなかった。
床に落ちた林檎の中にも、見事に艶やかな赤を保った実がいくつもあった。
ヒギンス家の人々はそれらをいくつかテーブルに並べ、家の伝統に使うのに最も相応しいものを慎重に選び出した。
メロディは林檎を洗い、程よい大きさに切っていく。
ヒギンス夫人が休ませておいた生地を再びこねる間に、ヒギンスは食糧庫から大きな砂糖壺を抱えて戻ってきた。
何年も繰り返されてきたこの作業は、言葉を交わさずとも息がぴたりと合うほどになっていた。
メロディは大鍋に切った林檎を次々と入れる。
ヒギンスが砂糖を振り入れ、やがて大きな杓文字で鍋の中身を静かにかき混ぜた。
かすかな炎に温められた鍋の中では、角ばった砂糖の粒が徐々に溶け、甘やかな香りが立ちのぼる。
「お父様、次は私が混ぜてもよろしいですか?」
「まだ大丈夫だよ。」
「でも、腕が痛むでしょう?」
心配そうに言うメロディに、ヒギンスは使っていた長い杓子をそっと差し出した。
「ありがとう。」
「いえ、とんでもないです。私はこういう作業、好きなんです。」
メロディは煮え立つ鍋の中で、崩れないようにリンゴや砂糖を丁寧にかき混ぜていった。
「上手だな。」
「あなたが教えてくださったおかげです。」
「いや、我が妻から学んだのだろう。」
ヒギンスは杓子を使っていた腕をゆっくりとさすりながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「その才覚を、我々が誇りに思っていることを、どうか知っておいてほしい。」
「ただリンゴの煮込みが上手いくらいで才覚だなんて……恐縮です。」
「そうか?私は十分だと思うがな。ひとつを見れば全体が分かるものだ。」
そう言って、彼は食器棚から二つのカップを取り出し、茶を注ぎ始めた。
ヒギンス夫人は煮込みを見守りながら、メロディには簡単に飲めるものを用意させていた。
娘に無理をさせまいとする心遣いだった。
「気立てがいいだけでなく、誠実でもあるな。」
そんな誉め言葉が絶えず飛び、メロディは思わず頬を染める。
まるで煮込みの中に溶けた砂糖のように、自分まで甘く溶けてしまいそうだった。
両親に褒められることほど嬉しいことはない。
――だが。
不意に続いた一言に、メロディは思わず手を止めた。
「あとでまた持ってきてくれ。お茶は食事の前に飲むのがちょうどいい。」
茶の支度を終えたヒギンスが、再び杓文字を手に取る。
メロディは温かな茶碗を手にしたまま、父の背中をじっと見つめていた。
先ほどの話の続きを、心待ちにしながら。
「……メロディ。」
「……え?」
「娘にヒギンスの名を与えた理由を、覚えているか?」
「はい。」
メロディは一歩近づきながら答えた。
「ロレンタと共に生きていけるようにするためでした。」
「ほかに、何か言われたことを覚えているか?」
「お父様は、私がこの邸で大切な存在になったとおっしゃってくださいました。そして、それにふさわしい守りが必要だと。」
メロディはそっと母に視線を向けた。
母は小さくうなずき、まるで『もっと話してごらん』と言っているようだった。
「だから、私はお二人に誓ったんです。――ヒギンスとアイネズ、この二つの名に恥じない人間になりますと。もちろん今も、その気持ちは変わりません。」
「娘がそう思ってくれているのなら、私たちも誇らしい。」
すぐに返ってきたヒギンスの声には、わずかに怒気が混じっていた。
「……すみません、お父様。私が……何か間違えましたか?」
「その日、言ったはずだ。」
何の話かを示したのは、ヒギンス夫人だった。
「私たちがどうして、あの日まで子を持たなかったのか――あなたには全て説明したでしょう?」
彼女もまた、悲しげな瞳でメロディを見つめていた。
「そ、それは……。」
メロディは震える手で茶碗を置き、両手を握りしめた。指先が冷たくなっていく。
「『ヒギンス』という名は、私の肩に栄誉を背負わせられないから……そうおっしゃいました。」
ボルドウィン公爵家に完璧に属さなければならない――まるで影のように寄り添うべき宿命。
夫妻は、その重荷を誰かに押しつけることなど考えもしなかったのだ。
「……はい、承知しています。」
ヒギンスは小さくうなずきながら口を開いた。
「正確に言えば……私は、自分の子どもが“その名”に縛られて苦しむ姿を見たくなかったのです。」
「……」
メロディは言葉を失い、ヒギンス夫人もまた静かにその言葉を受け止めていた。
「名前に命を懸けるなんて、古い貴族たちの愚かしいやり方だ。」
「それでも……」
メロディは目元を潤ませながら、二人を交互に見つめた。
二人がなぜこんなことを口にするのか、うすうす分かる気がした。
――もしかして、“ヒギンス”という名を掲げることでクロード様との縁談を断ったから?
でも、それは誰にも知られていないはず……。
クロードがそんな話を周囲に漏らすはずはない。
では、一体どうして。
「どうやって知ったんですか……?あんなにこっそりと済ませたことを。私が……軽々しく振る舞ったとおっしゃるのですか?」
メロディは、自分は比較的おとなしく過ごしてきたはずだと胸を張ることができた。
――少なくとも、彼女自身の感覚では。
けれど、この屋敷で過ごす者なら皆、メロディとクロードの様子に何かしら違和感を覚えていただろう。
二人がふと視線を交わすたびに、互いに慌てて逸らす仕草を見れば、誰の目にも怪しく映るはずだった。
「私は、何もしていません……。」
彼女の答えに、夫妻は同時に大きくため息をついた。
「本当に鈍い子ね。」
「だが、それが……。それがヒギンス家の娘なのだ。」
二つの家を結ぶ大切な絆を、メロディ自身の手で台無しにするわけにはいかない。
「何よりも重大な約束を……忘れてしまっているのだよ。」
ヒギンスは鍋を丸ごと持ち上げ、調理台の上に移した。
表面には溶けた砂糖の泡がふつふつと立ち上っていた。
「メロディ・アイネズ・ヒギンス。」
「……」
「大切にすべきなのは“名前”ではなく、その名を持つメロディ嬢、君自身だ。」
その言葉に、メロディの脳裏にある記憶がよみがえった。
書斎に飾られた黄色い花の絵。
その前で彼女が口を開いたとき、ヒギンスが告げてくれた言葉。
――あのとき、自分が問いかけたこと。
『……それは、私がこの名前にふさわしい“良い子”でいなければならない、という意味ですか?』
『耳ざわりの良い言葉に縛られ、心にもない態度を取ることこそ、不幸なことです。』
その忠告が胸に響き、メロディは思わず、今にも真心に近い言葉を紡ぎ出しそうになっていた。
そう――必ず幸せになると誓ったはずだ。
あの日、確かにそう約束したのに。
どうして今まで忘れていたのだろう。
他のことはすべて覚えていたのに。
「……申し訳ありません。」
メロディは俯き、かすかに唇を震わせて謝った。
(本当は……名前を授けてくださったのは、その名を使って幸せになれという意味だったのに。私は――その名にすがって、心をよそに向けてしまっていた……。)
「もういい。」
「わかればそれで十分だ。」
夫妻はそれ以上メロディを責めることなく、再び平常の顔つきに戻った。
そして何事もなかったかのように、再び林檎パイ作りへと取りかかったのだった。
一緒にアップルパイを作り、皆で分け合って食べる。
ヒギンス家に伝わる美しい秋の恒例行事も、名残惜しくも終わりを迎え、テーブルの上には最後の一切れだけが残っていた。
執事は特別な皿を用意し、その最後の一切れを丁寧に盛り付け、飾り用のハーブまで添えて差し出した。
――どうして最後のひと切れに、ここまで心を込めるのだろう?
不思議に思ったメロディが見上げると、ヒギンスは微笑を浮かべながらその皿を差し出した。
「どうか、このパイを坊ちゃまにお届けいただけますか?」
「えっ……?」
「彼は、幸せになると約束なさったでしょう?」
以前も聞いたことのある言葉。
あのとき――メロディが黄色い花の絵を受け取るべきか迷っていたとき、ヒギンスは同じように言ったのだ。
“幸せになるためにこそ、正直な言葉と行動を選びなさい” と。
その想いが、メロディの胸にもう一度静かに刻まれていった。
――しっかりせねばならない。そう自分に言い聞かせながらも、メロディの胸にはまだ拭いきれない罪悪感が残っていた。
彼女はヒギンス夫妻を見つめ、心の奥で問いかける。
「……もっと愛されたい、そう願ったことがありましたよね?」
「・・・」
「それでいいのです。今まで以上に。どうか、娘のそばを愛で満たしてください。」
ヒギンスはゆっくりと妻の方へ目を向けた。
その瞬間、夫人はばね仕掛けのように立ち上がり、潤んだ瞳をこちらに向けて叫んだ。
「この子を甘やかしてばかりで、どこが良いって言うの!」
「はい、その通りです。」
メロディは静かにうなずいた。
「ですが、私は……ご両親が夜も眠れなくなるほど気を揉まれるのは望みません。」
彼の手から茶碗を受け取り、メロディは再び唇をきゅっと引き結んだ。
「……あの。」
パイの断面を見つめていた彼女は、思わず顔を上げた。
二人の大人が、慈しみに満ちた眼差しで彼女だけを見つめていたからだ。
「私は……お二人がどれほど私を大切に、そして楽にしてくださっていたのか、忘れていたみたいです。」
メロディにとって両親は、“ヒギンス”という名よりも、彼女の心そのものを大事にしてくれる存在だった。
それなのに、なぜかその事実をしばらく忘れていた――。
(……私はきっと、心のどこかで逃げ場を探していたのかもしれない。)
「すみません。」
小さな謝罪に、ヒギンス夫妻は同時に微笑み、静かにうなずいた。
「もうよい。さあ、行ってきなさい。」
「でも、後片付けが……。まだ私のやることが残っています。」
「……まさか、私に任せられないとでも?」
「でも最後まで分担してやるのが、この家の決まりでしょう?」
メロディが戸惑いを口にすると、ヒギンスが柔らかい声で取りなした。
「では来年は、すべてをあなたに任せましょう。それで安心できるでしょう?」
それでもメロディの胸には小さな不安が残った。
けれど、両親の言葉を否定することはできなかった。
「そ、それじゃあ……私、パイを届けてきますね!」
「気をつけて行きなさい。」
「決して走るんじゃないぞ、この落ち着きのない娘め。」
二人の言葉に軽く返事をし、メロディは小さな足音を残して、少し急ぎ足で応接間へ向かった。
その背を見送るヒギンス夫人の瞳には、どこか寂しげな光が浮かんでいた。
「……いつになったら、この足は少しは落ち着きを覚えるのかしら。」
「落ち着かなくてもいいさ。わが娘の勇敢な歩みは、それだけで十分に誇らしいものだから。」
ヒギンスが夫人のカップに茶を注ぎ足しながら、やわらかな笑みを浮かべた。
メロディは皿を手に、階段を上がっていった。
胸の奥で、なぜだか歩みが軽くなっていた。
――ただ「逃げない」と心に決めただけで、こんなにも気持ちが晴れるとは。
彼女はクロードの部屋の前に立ち、深く息を吸ってからノックした。
まもなく返事があり、メロディは迷わず扉を押し開ける。
窓が開け放たれていたのか、冷たい風が一気に流れ込み、彼女の髪をふわりと揺らした。
「すみません。」
クロードは林檎を受け取り、立ち上がった。
どうやら窓を閉めに行くつもりらしい。
メロディは慌てて彼を制した。
「秋ですよ。少しくらい開けておいても大丈夫です。私が風に吹き飛ばされるわけでもありませんし。」
そう言いながら、メロディは彼の机の前に歩み寄った。
そこには赤いタグのついた書類綴りが五冊も積まれている。
それは、絶対に後回しにできない案件が五つあるという証だった。
机の横に置かれたトロリーには、緑や黄色のタグが貼られた書類綴りがさらにいくつも積まれている。
さらにその隣には、床から膝の高さまで様々な記録の束が山のように積まれていた。
きっとクロードが確認すべき資料を別に分けて置いてあるのだろう。
「……どうして、私を呼んでくださらなかったんですか?」
思わず口にした言葉に、メロディ自身も驚いた。
けれど、それは間違いなく本心だった。
「昼夜を問わず私を呼び寄せてくださったのに、どうして今回は……?」
「……こういうときに、助けを受けるためじゃなかったんですか?」
「その通りだ。」
彼は窓を閉めると、再びメロディの前へ戻ってきた。
メロディはひとまず胸を撫で下ろす。
彼の表情も、穏やかな所作も、整った服装も――すべて普段通りで、乱れたところは微塵もない。
きっと分刻みの予定を守りながら、仕事と休息を両立させているのだろう。
「……あります。」
メロディは彼の時間を奪ってはいけないと感じ、手にしていたパイを差し出した。
「これを……お持ちしました。」
だが、皿に盛られたアップルパイを見つめた瞬間、彼女はふと動きを止める。
――アップルパイを分け合うのは、ヒギンス家の伝統なのに。
そんな思いが、不意に胸をよぎったからだ。
(ヒギンス家の伝統なのに……どうして坊ちゃまにも分けて差し上げるのだろう?)
まるで自分が「どうか家族になってください」と懇願しているみたいではないか――メロディはそんな不安を覚えた。
もちろんそんな意図はこれっぽっちもなかった。
ただ、彼とのぎこちなさを少しでも解きほぐし、ヘトフィールドの演奏会に一緒に行けるようになればと思っただけ。
本当に、それだけだった。
「メロディ嬢が、わざわざヒギンス家のアップルパイを届けに来てくださったのですね。」
クロードが差し出した皿を受け取りながらそう言うと、メロディは慌てて首を振った。
「ち、違います!」
「違うと?」
「はい、その……ですから……。」
彼女は皿を両手でしっかり抱えたまま、どうにもぎこちない笑みを浮かべた。
「これは私ではなく……父が、坊ちゃまに渡してほしいって、そうおっしゃったんです。」
少し言葉が震えたけれど、それは嘘ではなかった。
実際、ヒギンスは皿を差し出しながら「坊ちゃまに届けてくれるか」と頼んでいたのだから。
「それは……またしても驚かされる話ですね。」
クロードは軽く皿を引き寄せた。
メロディもつられるように一歩踏み出す。
けれど彼女の顔にはまだ強ばった表情が残っていて、その様子がおかしかったのか、クロードは小さく笑い声を漏らした。
「くっ……。」
「坊ちゃま、まさか別の意味に取っているのではありませんか?」
メロディの問いかけに、クロードは肩をすくめて「さてね」と答える。
「別の意味で確信しているところです。」
「確信しないでください!絶対に!ぜったいに、そんなはずありませんから!」
思わず大声をあげてしまったメロディに、クロードは目を細め、手にしていた皿をわずかに揺らした。
「……絶対に違います!」
クロードの含みのある言葉に、メロディは思わず胸が詰まった。
この部屋に来る前に、もっと正直に振る舞おうと決意したはずなのに――。
「全くの的外れというわけでもなさそうだ。」
「なっ……違うってば!」
「違うのですか?」
「ち、違います!違いますけど……!」
勢い余って口走った否定の言葉は、ただ空回りするばかり。
余計に取り乱しているように聞こえるのは分かっていた。
「と、とにかく!これは坊ちゃまに差し上げるために持ってきたんです。受け取ってください!」
そう言って、メロディは両手で必死に抱えていた皿を差し出した。
「ありがとう。そして……?」
クロードはパイの皿を机の上に置き、なおも彼女の続きを待っている。
「そして……。」
メロディは自然と視線を逸らし、頬を赤らめながら言葉を探した。
メロディは指先でそっと膝の上の布をいじり、ぎゅっと手を握りしめた。
掌が熱を帯びる。
「……行きたいんです。」
途切れ途切れの言葉が落ちるたびに、彼女の勇気は少しずつ削れていった。
「ヘットフィルドの演奏会に。」
そして、今度は声を絞り出すように言い切った。
「坊ちゃまと……一緒に。」
最後の一言は、自分でも耳に届いたかどうか分からないほど小さかった。
沈黙が流れる。
クロードは何も言わず、ただ彼女を見つめていた。
返事がないことが、逆に胸を締め付ける。
期待していた分だけ、その静けさは耐えがたかった。
メロディは顔を上げることもできず、ただ心臓の鼓動に押し潰されそうになる。
けれど、表情を確かめる勇気も持てなかった。
「……そうですか。」
ようやく返ってきた答えに、メロディは困惑したように彼を見上げた。
(その淡白な反応はいったい何なの……?)と問いかけるような目で。
「い、いえ……そういう意味じゃありません。違うんです。」
クロードは先ほどのメロディと同じように、言葉を探しながら否定を重ねる。
「ですから……。」
そう言うと、彼は急に胸へと手を当て、深々と優雅に一礼した。
「心から感謝します。メロディ嬢。」
「…………。」
クロードはぎこちない笑みを浮かべ、頭をかきながらこちらの様子を伺った。
「やっぱり、こんなに堅苦しい挨拶は似合わない気がしますね。」
「……坊ちゃまって、本当におバカです。」
その言葉に、クロードは思わず目を瞬かせた。
「バカ」と呼ばれたのは、きっと初めてのことだったのだろう。
彼は思わず持っていた皿を落としそうになり、慌てて受け止めた。
だが、彼女の言う通り――こんな大事な場面でまともな反応すらできない自分は、確かに「バカ」に違いなかった。
自分でも、馬鹿みたいだとわかっていた。
「失望させてしまってごめんなさい。でも初めてだから……許してください。もう一度、勇気を出してみますから。」
メロディのこわばった表情から、少しずつ緊張が解けていく。
けれど、それはほんの一瞬のこと。
視線が合った瞬間、また全身が熱くなり、ぎこちなくなってしまう。
「……お互いに緊張してばかりですね。だからこそ、最近あなたが私を避けていたのも気づきました。」
「でも、坊ちゃまも同じように避けていましたよね?」
彼女の言葉に、クロードは苦笑を浮かべ、そっと両手を差し出した。
「そうでしょう。好きな女性と目が合えば、誰だって緊張するものです。私も普通の人間ですから。――だから、その手を貸していただけますか?」
「……え?」
「少し、肩の力を抜いてみましょう。」
緊張を解すことと、手を取ることがどう関係しているのかは分からなかった。
けれどメロディは、彼の掌の上に自分の指先をそっと重ねた。
「もう少し……近くに来てください。」
「も、もっと……ですか?」
メロディはおずおずと手を少し前へと差し出す。
「このくらいで……?」
「……まるで、人をからかう方法をわざと教えているみたいですね。」
クロードは深く息をつき、そして彼女の手をしっかりと握り締めた。
「さあ、今度はあなたが持ってください、メロディ嬢。」
彼は、メロディがまた曖昧にごまかそうとするのを恐れたのか、あえて具体的に言葉を重ねた。
「えっ、な、なぜですか?」
メロディはただただ視線を落とし、困惑するばかりだった。
「お互いに、こうして少しずつ緊張を解き合うためですよ。」
「でも……全然効き目がないみたいです。本当に……!」
言葉とは裏腹に、彼に握られた手は熱を帯び、鼓動はさらに速くなるばかりだった。
「まだ、ちゃんと試してもいないでしょう? ね?」
甘い声で宥めるように言いながらも、彼の仕草は次第に大胆になっていく。
指先を一本ずつ絡め取り、逃げ場のないように強く握りしめて――互いの手が完全に重なり合った。
「本当に……私のこと、見てくれないんですか?」
その低い囁きとともに、彼の腕が腰を引き寄せ、二人の距離を強引に縮めていく。
「っ……!」
「可愛い声を出さないでください。――私の好みは、あなたの顔立ちそのものなんですから。だから、ちゃんとこちらを見て。」
言葉に込められた熱に、メロディはただ必死に顔を背けるしかなかった。
すると、彼は少し違う提案をしてきた。
「分かりました。では十数える間だけ……いえ、五つでいい。ほんの少しの間なら大丈夫でしょう?」
「……本当に、ほんの少しだけですか?」
「もちろんです。」
メロディは恐る恐る皿を持ち上げた。
彼の顔があまりにも近くにあるせいで、思わず視線を逸らしたくなる。
「一。」
だが、彼が数を数え始めると、その声に導かれるように目を逸らせなくなった。
メロディはぎゅっと唇を結び、彼の澄んだ青い瞳を正面から見つめ返した。
まるで吸い込まれそうに。
「二。」
彼の声が再び落ち着いて響く。
からかわれているのでは、と最初は思った。
だが、そうではなかった。
本気でメロディの緊張を解き、心を和ませてやろうとしているのだと気づいた。
「……三。」
その声に合わせるように、メロディの表情から強張りが消えていった。
唇はきつく結ばれておらず、瞳も固く閉ざされてはいない。
「四。」
最後の数を告げると、彼はゆっくりと指先の力を緩めた。
そこには未練を隠しきれない気配が漂っていた。
「もう……緊張は解けましたか?」
「……はい、だいぶ。」
「よかった。ずっと強ばったままでは、これからお話しすることが言いにくくなりますから。」
「え……?それって……」
彼は握った手をそっとさらに引き寄せ、低く告げた。
「メロディ。私は、あなたが好きです。」
「……っ、え……?」
「そうです。今、私が言ったのは、その意味の“好き”ですよ。」
「だって、恥ずかしいじゃないですか!」
「私も同じです。その気持ちを……一緒に乗り越えてみませんか?」
クロードの穏やかな声に、メロディは大きな瞳を瞬かせ、やがて小さくうなずいた。
「……わかりました。」
「ありがとう。」
にっこりと微笑んだクロードは、彼女の手の甲にそっと皿を添えた。
「甘い匂いがしますね。……これは砂糖の香りでしょうか、それとも。」
パイに使われた砂糖煮の林檎の香りが、確かにメロディの指先に染みついていた。
その手に、彼の唇がふわりと触れる。
(これが……一緒に恥ずかしさを乗り越える、ということ……?)
どうにか約束を守ろうと、メロディはぎゅっと目を閉じて耐えた。
けれど次の瞬間――手の甲に口づけを落としたクロードが、細めた瞳で微笑みかけてきたとき。
彼と真正面から視線が交わってしまった瞬間。
メロディの心臓は大きく跳ね、努力も虚しく顔が真っ赤に染まってしまった。
決意は、あっけなく崩れ落ちた。
「……っ!」
結局メロディは耐えきれず、妙な声を漏らしてしまい、慌てて視線を逸らした。









