こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

122話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 大きな決断④
ノアが大公邸を訪れた日、ノアはエスターの招待を受け、晩餐の席に現れた。
この日の食卓は、事前に厨房へ通達があったため、ひときわ力を入れて準備されていた。
普段から料理の質は高かったが、この日ばかりは特別に豪華だった
「まるでパーティー料理みたいですね。」
「本当だな。これ全部食べきれるのか。」
ジュディとデニスが感嘆しながらつぶやいた。それほど料理の量は圧倒的だった。
ドフィンと双子、エスターはノアが来る前にすでに食堂に到着して席についていた。
「私、遅れてないですよね?」
「いいえ、ちょうど時間通りです。」
客人として最後に入ってきたノアは、どこに座ればいいか少し戸惑った。
エスターの隣に座りたかったが、空いているのはジュディの隣だけだった。
ジュディは気に入らないという素振りを隠さず、椅子をぐいっと引いた。
「ここに座ってください。」
「ありがとう。」
ドフィンはノアが席につくのを待ってから、テーブルの向こう側を軽く隠すようにして、申し訳なさそうに言った。
「たいしたものは用意していません。」
しかし、誰が見てもご馳走が並んでいる食卓だった。
テーブルが壊れそうなほど料理が並んでいるのに、“たいしたものではない”とは。
もちろん社交辞令だとわかって、ノアは最大限のにこやかな笑みを浮かべて答えた。
「そんなことありませんよ、こんなにたくさん。どれも私の大好物ばかりです。一晩泊めていただけるだけでもありがたいのに、こんな豪華なお食事まで……本当に幸せです。」
ドフィンは、そんなノアを理解できないという表情で見つめながらも、口元を引き結んで杯を掲げた。
「では、いただきましょう。」
「いただきます。」
ノアは対面に座るエスターにさりげなく微笑みかけ、器用に食器を使い始めた。
テーブルの上には次々とメイン料理が運ばれてきた。
ジュディが料理を運ぶたび、エスターのほうを意識してちらりと視線を送るのだった。
料理がノアの席から少し離れた場所に置かれていて、まるで意図的に遠ざけられているように見えた。
「ジュディ。」
ジュディがわざとそうしていることに気づいたドフィンが、鋭く名前を呼んで注意を促した。
「大丈夫ですよ。私、背の割に腕が長いのでちゃんと届きますから。」
ノアは気にしていないと笑顔で言い、実際に腕を伸ばしてみせた。
本当に腕が長く、ほとんどの料理に問題なく手が届いた。
エスターは、むっつりした表情のジュディが思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
ノアにひとこと言ってやりたかったが、ドフィンがいるせいで何も言えず、どうにも身動きが取れないことがジュディにはもどかしかった。
『ノアって本当に性格がいいな。』
二人きりのときにも感じていたが、ドフィンや双子と一緒にいても、気後れすることなく自然に溶け込んでいた。
不機嫌そうでよそよそしい態度を見せても、ノアが軽く受け流してしまうので、妙に空気が和らいだ。
もう気にしなくてもよさそうだと思ったのか、エスターも料理をおいしそうに食べることに集中した。
「エスター、水。」
いつものようにデニスは隣でエスターの水を絶え間なく注いでやった。
ジュディは自分が「これはおいしい」と思う料理を、次々とエスターの近くへと押しやった。
ドフィンは無関心を装いながらも、エスターが何を食べているのか細かく確認し、注意を払っていた。
(いい家族だな。)
第三者の立場でこの光景を見守っていたノアは、思わず微笑んだ。
食卓の中心は、自然とエスターへと戻っていっていた。
エスターもまた、家族が送ってくる気遣いを、今では水の流れのように自然に受け入れていた。
温かい愛情だった。
ノアは安心しているように見えた。
最初に城に絵を描きに来たときには、こんな様子ではなかった。
顔に影を落としていた翳りはすっかり消え、愛されることを知っている子供のように変わっていた。
『よかった。』
エスターが牢獄でどう過ごし、どれほど辛い生活を繰り返してきたかを知るノアにとって、この変化を見守れるのは大きな喜びだった。
人々の中に自然に溶け込んでいるエスターの姿を見ているのも楽しく、明るくなった様子も嬉しかった。
こんな温かい家で幸せそうに笑うエスターを見て、ノアは胸がいっぱいになり、思わず鼻の奥がつんとした。
「ふん。」
すると、ジュディがふいに食事の手を止めた。
エスターだけをじっと見つめているノアの視線に気づき、神経を逆撫でされたようにイライラしてしまったのだ。
そのせいで、エスターを見続けられないようにノアをけん制した。
ノアの皿の上に、大きなステーキが丸ごと一枚どんと置かれた。
「料理が届きました。」
「わあ、ありがとうございます。」
ノアは気を遣ってくれたことに感謝し、感動した表情で答えた。
そして、あまりにもエスターばかり見ていたせいか、少し熱くなってしまい、食事に集中することにした。
(本気なんだな…)
ドフィンは、食事をしているエスターと、さらにノアの様子を観察した。
彼が出した結論は、エスターは気づいていないにせよ、ノアは確かに本気だということだった。
ノアはエスターから一瞬たりとも視線を外せず、彼女を見つめる目はどうしようもなく切なさを帯びていた。
一体いつからこんなに深くのめり込んでしまったのか。
そこはまだ分からないが、とりあえず状況は把握した。
これからの対応策は、じっくりと練ることにしよう。
「デザートもご用意していますので、お子さまたちと一緒にゆっくりどうぞ。私はまだ会議が残っているので、先に失礼します。」
神殿に関する会議だと察したノアは軽くまばたきをした。
「承知しました。」
エスターは、ドフィンが丁寧に断って先に出ていったのを見て、無事に済んだのだと安心した。
ところが──
「皇太子殿下。」
突然、ジュディが水をゴクゴク飲んでからノアを呼んだ。
「私たちだけのときは、お互い気楽に話すのはどうでしょう?エスターとももう敬語じゃなく話してますし。」
ノアは返事をする前にまず呼び方を整理した。
年齢ではジュディのほうが上だが、ノアは皇太子なので、どちらかが合わせればお互いに気まずい。
「そうかな?」
先ほどから敬語を崩して話したくてうずうずしていたが、遠慮して言い出せなかったジュディは、この提案に胸を弾ませた。
そしてすぐにノアの方へ体を向けて、いたずらっぽく笑みを浮かべる。
「この前ひどく怪我をしたって聞いたけど、運動はしてるの?剣術は習ったことある?」
「怪我する前までは習ってたけど、もう長いこと休んでたから全部忘れちゃったよ。」
「じゃあ、俺が教えてあげるから、外に出て試合してみない?」
「ジュディお兄ちゃん!それはちょっと……」
「試合」という言葉に、エスターが思わずぎょっとして言葉を詰まらせた。
どう見ても、体が弱そうなノアと筋肉質のジュディでは、試合になるはずがない。
誰が勝つかなんて明らかだった。
エステルがノアを心配するほど、ジュディの挑発的な笑みはさらに活気づいた。
「心配すんなよ。俺が加減するからさ。ただ一緒に体を動かそうってだけだよ。」
「うん。食後の運動は体にいいからね。」
普通なら止めに入る理性的なデニスまで、今回ばかりはむしろ対戦をあおった。
「いいよ。本当に運動っていうなら。」
ノアまでジュディが仕掛けた勝負を避けず、余裕の笑みを浮かべた。
(どうするつもりなの……?)
ジュディの実力を知っているエスターは、ノアが怪我をしないか心配だった。
結局、デザートは後回しにして、三人はジュディが日課のように走っている訓練場の裏庭へ出ていった。
怪我をしてはいけないので、真剣な剣ではなく木剣を手にし、二人は円の中でぐるぐると動き始めた。
「せっかく美味しく夕食を食べたのに、どうしてこんなことになったのかしら……。」
エスターは二人の様子がよく見える席に座り、心配そうに足をバタバタさせた。
すでにお互い乗り気で了承した状況なので、もはや止められる雰囲気ではなかった。
エスターが一人でおろおろしている間に、いつの間にか対戦が始まっていた。
「ふんぬっ!」
ジュディが大きな声をあげながら木剣を振り下ろす。
ノアがすぐに直撃を受けるだろうと、エスターは思わず目をつむった。
だが意外にも、ノアは軽々とその攻撃をかわしていた。
「おお、思ったより身軽じゃないか?」
ちょうどそのとき、道中で「ちょっと眼鏡を持ってくる」と言って離れていたデニスが、試合が始まる瞬間に戻ってきた。
エスターは隣に座ったデニスをちらりと見て、小さく眉をひそめた。
「それ、何ですか?」
「これ?救急用のお菓子だよ。」
デニスはにこっと笑って、丸い缶を取り出して見せた。
中にはポップコーンのように炒ったトウモロコシのお菓子がぎっしり詰まっている。
「一緒に食べながら見よう。」
エスターがその日なぜかデニスの銀縁眼鏡がやけに輝いて見えると思っていた頃、いつの間にか手にはトウモロコシ菓子を一口かじっていた。
その間にもノアとジュディは木剣を打ち合わせ続けていた。
ジュディが一方的に攻め立て、ノアは慌てて避けているように見えたが、不思議なことにまだ一度も当たっていなかった。
「どうしてそんなに上手く避けるの?」
ノアの脇腹を狙って突き込んだ木剣もまた防がれ、ジュディは少しずつ苛立ちを募らせていった。
だが、焦れば焦るほど木剣はノアに当たらなくなった。
攻撃力はなくとも、回避能力だけで十分に持ちこたえられていたのだ。
圧倒的な実力差を見せつけて終わらせようと思っていたジュディの作戦は、思い通りに進まず、焦りが募っていった。
やがてジュディが必死に木剣を振り回す姿を、エスターは息を呑んで見守った。
「エスター!お前は誰の味方なんだ!」
「え?」
実はエスターは、デニスが持ってきたトウモロコシ菓子が思った以上に美味しくて、つい夢中になって食べていたため、試合の様子をほとんど見ていなかった。
ところが、ジュディに突然名前を呼ばれ、慌てて目をパチパチさせる。
「当然、私の味方よね?」
「そ、そんな……」
ついノアの方に目を向けるエスター。
誰がどう見ても、この勝負はジュディが勝つと思われた。
全身にしっかりと筋肉のついたジュディと、細身のノアでは、とても釣り合いが取れているとは言えない。
しかも、1年前から運動と剣術に没頭してきたジュディの実力は、他の誰よりも群を抜いていた。
だから心の中ではノアを応援していたエスターだったが、隣のデニスがどう答えればいいのかと促すようにしてくるので、返答に迷ってしまった。
「『ジュディお兄ちゃん、勝って!』って言って。」
エスターはとりあえずデニスの言う通り、一字一句違えずそのまま口にした。
「ジュディお兄ちゃん、勝って!」
するとジュディの口元がにやりと持ち上がった。
「聞いた?うちのエスターは俺のことが一番好きなんだ。」
エスターが自分に味方していることを誇らしげに言い、得意げに笑った。
「……いいな。」
口実だと分かっていても、ノアはエスターの応援を受けるジュディが心底うらやましかった。
二人の表情が大きく対照的な中、ジュディは不思議なほど攻撃をかわし続けるノアに次第に疲れてきた。
まともにぶつかれば分からないが、こうした体力勝負の小競り合いは面白みに欠け、結局ジュディは退屈そうに剣を下ろした。
「うちのエステルの前で恥をかきたくないなら、ここで終わりにしてあげようか?」
「そうしてくれる?実力差がありすぎて、もう少しきつくなってきたんだ。息も切れてるし。」
ノアがにっこり笑って自ら実力差を認めると、ジュディは耳まで裂けそうなほど大きな笑みを浮かべた。
「そうだ、実力差は大きいね。いいわ。最後にもう一度剣を交えて、それで負けを認めたら終わりにしてあげる。」
二人は互いに牽制し合いながら、慎重に距離を取った。
そして再び木剣を構える。
最後だからこそ、別の場所を狙わず、正面から思い切り打ち込むつもりだった。
ところが――
「え?」
これまで避けるばかりだったノアが、今回はジュディの木剣をまともに受け止め、しかも見事に防ぎ切ったのだ。
見ようによってはただの偶然に思えたが、ジュディの力を確かに押さえ込んでいた。
振り下ろした拍子に木剣を握っていたノアの手のひらが強く擦れてしまった。
「えっ、大丈夫?血が出てる!」
傷をつけるつもりがなかったジュディは慌ててノアの手のひらを覆った。
見ていたエスターもノアが怪我をしたと聞いて胸がドキリとした。
「うん、軽い傷だから痛くないよ。それより本当に君はすごいね。」
ノアは平然と答え、木剣を下ろしてジュディにお辞儀をした。
それは普通、大会などで敗れた者が勝者に示す敬意の仕草だった。
「俺の完敗だ。」
「そう?うん、俺の勝ちだな。」
ジュディは少し気まずそうにしながらも、ノアを慰めるように言った。
負けても言い訳せず、すぐに認めるその姿勢はむしろ潔く、セバスチャンよりも立派に見えた。
大口を開けて息を荒げるジュディを見ながら、ノアがにっこり笑った。
「これくらいの実力なら、剣術アカデミーに入っても上位クラスに入れるだろうね。授業は別に受けてないの?」
「いや、この前の短期アカデミーで兄たちを全部倒して1位になったんだ。みんな驚いてたよ。」
「すごいね。大公の才能が全部君に受け継がれたみたいだ。」
「うん、そうみたい。」
ジュディはノアの褒め言葉が嫌ではなく、むしろ鼻を少しこすりながら照れ笑いをした。
どう見てもおだてて持ち上げている言葉なのに、ジュディだけがそれに気づいていない様子が可笑しくて、エスターとデニスは目を合わせて笑いをこらえなければならなかった。
完全に気分を良くしたジュディは、得意げに声を張り上げた。
「特別に教えてあげるけど……実は僕には特別訓練のスケジュールがあるんだ。知りたい?」
「特別訓練?」
ジュディはノアに近づいて手招きし、小声で囁いた。
「体を鍛えるんだよ。俺の友達にもすごく太ってた奴がいたんだけど、これで全然別人みたいになったんだ。それにエスターは筋肉が好きなんだ。」
セバスチャンを釣り上げたときのように、ノアも釣ってやろうと冗談めかして目配せした。
「本当?どのくらいの期間で?」
エスターが筋肉好きだと聞いて、ノアは思わず耳をピンと立てた。
知らなかった事実に目がキラキラしてきた。
「興味あるだろ?じゃああっちで二人だけで少し話そうぜ。」
すっかり打ち解けたように楽しげに誘う二人を見て、エスターは肩をすくめて笑った。
「これで終わりなんですか?」
「うん、ジュディはもう落ちたよ。本当に単純なんだから。」
あまりにもあっさり終わってしまったので、二人の間に割って入る言葉も出てこなかった。
缶の中に最後に残ったお菓子をエスターに渡したデニスは、手を払いながら言った。
「僕はもう図書館に行くよ。エスターも休んで。」
デニスは本当に図書館へ行ってしまい、ジュディにはノアに伝えることがあると肩をすくめて消えてしまった。
急に親友同士になったかのように一緒に去っていく二人を見て、エスタは一人取り残され、途方に暮れてしまった。
「手を治療してあげようと思ったのに……」
ジュディに連れられてしまったせいで、傷ついた手のひらを治してやる隙もなかった。
結局エスタは一人で部屋に戻り、ベッドに横たわった。
ノアのことを考えないように、ウサギの耳を撫でたり、シュルランと遊んだりもしてみたが……どうしても落ち着かず、我慢できなくなってベッドから起き上がった。
「ノアは体が弱いんだから……」
他の人なら心配しなかっただろうけれど、万が一のことがあるかもしれないと思うと――病気が悪化しているのではないかと心配になった。
「ドロシー、ちょっとノアに会ってこないと。」
「今ですか?私も一緒に行きます。」
足早に出て行くエスターの後を、ドロシーとビクターが同時に小走りで追いかけてきた。
「ビクターも一緒に行くんですか?ドロシーだけで十分なんですけど。」
「これからはどこへ行かれるにしても一緒に行きます。お嬢様を決して一人にするなと仰せつかっていますので。」
エスターは、最近とみに護衛たちの警戒が強まっていることを感じていた。
どうやらカリードの件が原因だろうと思いながら、ノアが宿泊している客間のある建物へと向かった。
だが、そこまで行くまでもなく、道の途中でノアの姿が目に入った。
「ノア殿下ではありませんか?」
「そうみたいだな。なぜあそこに?」
今ごろは当然部屋で休んでいるだろうと思っていたのに、ノアは少し前に大連をした後、庭に戻ってきていた。
しかも正確に、さっきエスターが座っていたその席に腰掛けて。
ただ一人、ぼんやりと空を見上げているノアの姿は、まるで現実ではないかのようで、エスターは一瞬言葉を失った。
いつの間にか夜の闇とそっくりな黒い髪と、その色と同じ黒い瞳が周囲に溶け込んでいた。
どうしても邪魔できない雰囲気に包まれていて、エスターは慎重に近づいた。
数歩進んだところで、ノアが空から視線を外し、エスターを見た。そして驚くこともなく、むしろ自然に迎え入れた。
「来たの?」
「私が来るって、わかってたの?」
エスターが不思議そうに問いかけると、ノアの瞳がやわらかく揺れた。
「そんな気がしたんだ。君なら、怪我をしたら治してくれるだろうと思って。」
「時々、本当に私のことをよくわかってる気がするわ。」
心の内を見透かされたようで、エスターはなんとなく気恥ずかしくなり、そっとノアの隣に腰を下ろした。
すると、これまで別々にあった二人の姿が重なり合い、大きな一枚の絵のように見えた。
「そうだろうね。」
ノアの眼差しはどこか甘く変わった。
この世界で自分以上にエスターのことをよく知っている人間はいない――そう自負できるのだから。
エスターはノアが冗談を言っているのかと思い、深く取り合わなかった。
「ほら、怪我を見せて。」
「ここだよ。さっき、すごく痛かったんだ。」
まるで急に痛みが襲ってきたかのように、ノアは声を漏らした。
ノアが少し眉をひそめながら、傷ついた手のひらを差し出した。
擦り傷は残っていたが、今は血も出ておらず塞がっていた。大きな怪我ではなかった。
「……これがそんなに痛かったの?本当に?」
「うん。気絶するかと思ったよ。」
眉をしかめていたノアが、エスターが治療しようと手を取った瞬間、びくっとして慌てて手を引っ込めた。
「どうして?治してあげようと思ったのに。」
「僕の怪我、心配してたって言ったよね?」
「うん。」
「僕が痛いと心配する?」
なんだか突拍子もない質問に思えて、エスターは思わず苦笑した。
「だから治してあげに来たんじゃない。」
「友達だから?」
「そうだよ。」
エスターにとってノアは、もうすでに大切な友達だった。
他の関係など考える余地もない。
何度問いただしても変わらない答えに、ノアは少し拗ねたように微笑んだ。
「じゃあ、治療は受けない。」
「え?」
「君が心配してくれるんだろ。この傷がある間は、ずっと僕のことを考えてくれるじゃないか。」
「なんでそうなるの?」
呆れたように言うエスターに、ノアは本気でそう願っているようだった。
少しでも自分のことを思ってくれたら――そんな気持ちは、エスターには想像もできないものだった。
「変なこと言わないで、早く手を出して。そんなことばかり言うなら治療してあげない。」
「わかったよ、わかった。でも代わりに、一日に一度だけでいい。僕のことを思い出してくれるって約束して。その約束をしてくれたら、手を出すよ。」
堂々としているのか、拗ねているのか分からない、ノアの真剣な表情だった。
薬壺を手にしたエスターが細めた目で言った。
「ノア、私が今あなたのために治そうとしてるんじゃないの。いい?治さないならあなたの損よ。」
エスターが全く引く気がないとわかると、ノアは渋々とした顔で手を差し出した。
「一度くらいなのに、大げさだな……手のひら。」
擦り傷はごく軽く、エスターが力を込めるまでもなく、すぐにきれいに癒えてしまった。
「はい、治療完了。こんな簡単なものよ。」
エスターはノアの手のひらを軽く押して返そうとしたが、突然ノアがにやりと笑い、エスターの手をぎゅっと握って離さなかった。
何度かこうしてふざけられた経験があったため、今のエスターは慌てず、もう片方の手でしっかりとこじ開けてさっと手を取り戻した。
ノアの視線が名残惜しそうに下を向いたが、エスターは何事もなかったかのように、別の話題へと話を移した。
「そういえば、うちにシンジョンが来たのって神殿の用事のせいだって聞いたよ。父様から聞いたんだ。」
その瞬間まで冗談めかしていたノアの目が真剣な色に変わった。
思わずエスターも緊張する。
「皇宮はずっと神殿と親しくしてきただろ?急に何か変わったことでもあったのか?」
「仕方なく親しいふりをしていただけで、本当に親しくしたことなんてなかったわ。」
そう言いながら、ノアはすっかり身をエスターの方へと預けた。
「エスター、僕は神殿がなくなってくれたらいいのにって思うんだ。君はどう?」
「え?」
予想もしなかった問いかけに、エスターは驚いて瞬きを繰り返した。
――神殿を憎んでいるの?
ノアがそんな言葉を口にするとは思わなかったが、その瞳には確かに憎悪の色が宿っていた。
宮殿から追い出されたノアだからこそ、そのことへの怒りがまだ残っているのだろうと理解できた。
「神殿に復讐したい?」
エスターはノアに、なぜか自分と似た感情を感じ、慎重に尋ねた。
「うん、復讐したい。そんなの間違ってると思う?」
「いや、神殿のせいで宮殿を出なきゃならなかったんでしょ。それなら十分ありえる話よ。」
死を待ち望んでいたノアが神殿を憎むのも、全く不思議ではなかった。
エスターから期待していた答えを聞けると、ノアの目が輝いた。
「俺はさ、何かされたらその分返すべきだと思うんだ。それも同じ分だけじゃなく、最低でも二倍以上でね。」
ノアはエスターの前に拳を突き出した。
そして強調するように、指を一本一本ゆっくりと開いていった。
「やられた分返すのは当然さ。それ以上でなきゃ。だから僕は神殿を潰したいんだ。」
ノアの率直な言葉に、エスターの瞳が大きく揺れた。
心の奥底に深く押し込めていた欲望が、今にも溢れ出しそうになる。
――打ち倒すのは当然のことじゃない……?
実際、神殿に、そしてラビエンヌに復讐したいという思いは誰にも負けない自信があった。
だが最初は復讐の手立てもなく、また軽率に動けば家族にまで被害が及ぶかもしれないと考えて、抑え込んできた。
何よりも幸せを手に入れたばかりなのに、さらに復讐まで望めば欲深すぎるのではないか。
ようやく掴んだ平穏まで壊れてしまうのではないかと恐れて、無理に心を押し殺してきたのだ。
だが、ノアがそう口にしてくれたことで、再び神殿への純粋な復讐心が勢いよく込み上げてきた。
「だからエスターも、誰かにやられっぱなしでいる必要なんてないんだ。もしそうなら、必ずやり返してほしい。僕と約束して。」
ノアがにっこり笑いながらエスターに小さな手を差し出した。
エスターはその手をじっと見つめながら、思わず口を開いた。
「……もし、そんな力がなかったら?」
「なんで力がないなんて言うのさ。僕もいるし、頼りになる双子のお兄さんたちもいる。それに帝国で一番強いドフィン大公だって、君の味方じゃないか。」
自分の味方になってくれる人々を一人ずつ挙げながら、ノアは当然のように宣言した。
「だから約束して。誰も君を傷つけたり、裏切ったりすることは許さないって。」
その言葉に勇気づけられ、エスターの唇にも寂しさを帯びた笑みが浮かんだ。
これまでは神殿に復讐するのなら、自分ひとりでやらなければならないと思っていた。
自分の問題なのだから、と。
けれどノアの言うように、兄たちや――そして……ラビエンヌに何をされたのかを知れば、決して黙っていられる人間などいない。
「そうね。ありがとう。」
エスターはノアの手に自分の小指を絡ませた。
宙に浮いたまま繋がった二人の小指が、かすかに震える。
「それと、私も言いたいことがあるの。」
真剣に話すべきことだったので手を離そうとしたが、ノアが強く握っていて抜けなかった。
「なに?」
全く警戒心のなさそうなノアの顔に、エスターは思わず笑みをこぼした。
そのまま手を返し、ノアの目に自分の手の甲が見えるように向きを変えた。
「これ、見える?」
心の奥で押さえつけていた力を解き放つと決めた瞬間、すぐに手の甲に紋章が浮かび上がった。
「わたし……だから、わたしが本物の聖女なの。」
少し言葉がもつれたが、いつも自分にすべてを話してくれるノアにこれ以上隠したくなかった。
大きな覚悟を決めて告げたのに、ノアは驚くどころか落ち着き払っていた。
「知ってたよ。いつ話してくれるのか待ってたけど、やっと言ってくれたね?」
そう言いながら、ノアは嬉しそうにエスターの頭を優しく撫でた。
あまりに平然とした反応に、逆にエスターの方が驚いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「知ってたって?どうやって?」
「だって、僕の病気を治してくれたじゃない。君の力が特別だってことは、その時から分かってたよ。それに、君の手の甲にそれが浮かんでいるのを見たこともあるんだ。」
あっさりとした説明だったが、妙に納得できてしまい、エスターは呆気にとられてしまった。
「そうだったんだ……。無駄に心配して損しちゃった。」
信じやすいエスターの様子に、ノアは可愛らしいと思ったのか、くすっと笑った。
「じゃあ、君が本物の聖女で、今聖女のふりをしているラビエンヌは偽物なんだろ?」
「……そうよ。私が本物。」
そう口にしたエスターの胸の奥で、長い間固く縛られていたものが解けていくのを感じた。
ラビエンヌが偽物だと、エスターの前で断言してくれた人は、今までノアが初めてだった。
思いが溢れているように見えるエスターに、ノアはそっと顔を近づけ、力を込めて言った。
「一緒に神殿を壊そう。手伝ってくれるだろ?」
子どもの戯れのような言葉に聞こえるかもしれない。
だが聖女であるエスターと、皇太子であるノアには、それを実現できるだけの力があった。
むしろ自分が願っていたことをノアの口から告げられ、エスターの胸は強く締めつけられた。
「うん。ぼくも神殿が崩れるところを絶対見たい。」
二人はもう一度、小指を絡めて約束を交わした。
エスターは不思議な感覚に包まれ、思わず考え込む。
『どうすればラビエンヌに仕返しできるだろう。』
どんな方法であれ、ラビエンヌに復讐できたなら、前世の恨みも少しは晴らせるような気がした。
「どうして神殿はここまで荒れ果てたんだろう。」
「本当だね。」
考えが重たくなり、二人はしばし口を閉じ、夜空を見上げた。
無数の星がぎっしりと瞬く、とても美しい夜だった。
「ねえ、エスター。話してる間に君の隣に花が咲いたよ。」
ノアが指差した先には、さっきまではなかったはずの白い花が一輪、そっと芽吹いていた。
神聖力に反応して育つという「聖花」だった。
種がなくても、聖女の神力に触れればどこにでも芽吹くとされている。
ただ、本来は努力してようやく咲く花であるのに、最近ではエスターのいる場所ごとに、当たり前のように花が咲き誇っていた。
「これ、聖花だよね?」
どこか見覚えがある花に記憶を探りながら、ノアは問いかけた。
かつて病を治療してもらったとき、聖水の代わりに何度か聖花を受け取ったことを思い出したからだ。
「そうよ。」
「神殿では聖水よりも貴重だって大騒ぎしてたのに、君のそばでは自然に育つんだな。」
ノアの言葉に、エスター自身も不思議に感じながら、そっと咲いたばかりの花びらを指先で撫でた。
本当はもっとこのまま時間を過ごしたかったが、あまりにも時刻が遅くなってしまったため、同行していたドロシーが「そろそろ帰りましょう」と促しに来た。
「ノア、明日帰るの?」
「そうだね。」
「じゃあ、私たちまたいつ会える?」
「すぐ戻ってくるよ。僕の考えでは、この場所が神殿を崩す拠点になると思うんだ。」
そう言ってノアは視線をエスターに向けた。
漆黒の瞳に、エスターはまた強く心を奪われた。
「次も一緒にやろう。」
「うん。」
二人は顔を見合わせて微笑み、同時に草原から立ち上がった。
そして今日一日を後悔のない気持ちで終えることができた。
部屋へ戻ったエスターはベッドに倒れ込むように横たわり、ノアとの会話を思い返した。
「復讐か……。」
ぼんやりと手を伸ばして掌を見つめるエスターの隣に、シュルがすっと近寄り、そっと身体を寄せてきた。
「シュル、私……復讐するよ。それでもいいんだよね?」
ノアが言った「受けたものは何倍にもして返す」という言葉を思い出しながら、エスターは静かに目を閉じた。
――「ラビエンヌが崩れ落ちる姿を必ず見たい。」
かつて当然のように自分の座としていた「聖女」の地位から引きずり下ろされたラビエンヌが、どんな顔をするのか。
その表情が無性に気になって仕方がなかった。





