こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
51話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 狩猟大会
そして時は流れ、ついに狩猟大会の日が訪れた。
もともと狩猟大会は人気の高い催しだったが、今回はプリムローズ公爵家が主催ということで、例年よりも多くの人々が参加の意思を示していた。
「まさかプリムローズ公爵家が狩猟大会を開くなんて思いませんでした。もともと、こういう大規模な催しにはあまり関心を示さない家門じゃありませんでしたっけ?」
「プリムローズ令嬢、つまり……リリカが望んだのではないでしょうか?」
人々はひそひそと囁き合いながらも、公爵家が主催する催しである以上、礼を尽くさないわけにはいかなかった。
公爵へ挨拶する際、その隣にいるリリカへも自然と視線と挨拶が向かう。
「うちのリリカは弓の腕がなかなかのものなんですよ。」
「はは……そうなんですか。」
公爵はリリカの隣に立ちながら、まるでそれが当然であるかのように誇らしげに一言添えた。
年配の貴族の何人かは、若者の間で起こる出来事には関心がなく、ただ明るく快活なリリカを微笑ましく見ているだけのようだった。
だが、それだけのこと。
リリカはどの令息にも手を差し伸べることなく、静かにしていた。
新しく連れてきた召使いをそばに置き、誰かに先に声をかけたり、会話に混ざる気配もなかった。
「どうせ受け入れてもらえるような令息はいませんよ。前回も大きな騒ぎを起こしたじゃないですか。」
そして、リリカが静かにしている理由を、人々は簡単に推測した。
――プリムローズ公爵が何かと揉めたせいで、表立って話はできなくなったが、リリカが関わったのは相当大きな事件だったのだろう、と。
そのせいで、誰もが声をひそめて話していた。
リリカが、自分を見てどこか嘲るような空気を感じ取らないはずがなかった。
「ごめんね、ジャコブ。私のせいで、いろいろ気を遣わせちゃってるみたい。」
貴族たちの嘲笑混じりの視線に、ジャコブは拳をぎゅっと握りしめた。
リリカはそんな彼の様子に気づきながらも、口をつぐんだまま何も言わなかった。
「……お嬢様、ずっとこんな雰囲気の中で過ごしてきたんですか?」
「……」
「俺、そんなことも知らずに……お気楽に話しかけてたなんて……ちくしょう!」
ジャコブは特別鋭い感覚を持っているわけではなかった。
ただ、リリカが“私生児”という身分のために、こうした空気の中に置かれている――その事実を、肌で感じ取っただけだった。
「私は本当に大丈夫……だから、怒らないで。」
「……ジャコブ。」
リリカは、最初から自分が特別扱いを受けていたわけではないこと、そして今回の騒動が自分の意志によるものではないこと――そんな弁明を一切、ジャコブにはしなかった。
「しかし!」
リリカを一方的に誤解して責めようとしたその瞬間、会場にいた貴族たちの視線が一斉に別の方向へ向いた。
「まあ!ヴィエイラ卿がいらしたわ!」
「リリカ嬢と結婚したいって言ってた方よね!」
ざわめきが広がる。
遠くから、堂々と歩いてくるヴィエイラ卿の姿が見えた。
その姿を見つけたリリカの眉が、ぴくりと動いた。
彼女のこめかみに、緊張の影が走る。
狩猟大会の招待状――それは、上流貴族たちにとって社交の場であり、噂と策略が入り混じる危うい舞台でもあった。
すべての連絡は伝えられていたが、最近ではビエイラ令息は姿を見せることもなく、本人も考えた末に、プリムローズ公爵主催の狩猟大会には来ないだろうと予想していた。
『歓迎する人もいないのに、わざわざやって来たのか。』
リリカにとって、彼を歓迎する理由は一つもなかった。
『あいつが今ここに来たら、正直めんどくさいんだけど。』
誕生日パーティー以降、ビエイラ令息からの連絡はすべて無視していた。
何度もしつこく軍の後ろ盾を頼んでようやく引き下がった、あの男。
「リリカ・プリムローズ嬢に会いに来たのか?」
幸いなことに、ビエイラ令息の視線は自分とは合わなかった。
ヴィエイラ卿は、リリカを見ても特に表情を変えなかった。
まるで――興味がないかのように。
(……まあ、そっちのほうがマシね。)
リリカは小さく息をついた。
顔立ちは整っているし、礼儀作法も身についているけれど、どこか人間味に欠ける男――それが彼への印象だった。
彼女がそのまま静かに通り過ぎようとしたその瞬間、ざわめきがまた広がった。
「まあっ!」
「見て、彼女が来たわ!」
ヴィエイラ卿の視線が、リリカのすぐ横を通り過ぎた。
彼が向かって歩いていった先――そこにいたのは、彼のかつての婚約者、ユリアだった。
周囲の空気が凍りつく。
リリカは反射的に背筋を伸ばし、内心でただ一言、つぶやいた。
(……最悪の再会、ね。)
社交界から姿を消していたビエイラ令息は、その間「体調が優れない」という理由で、自家領に引きこもっていた。
もっとも、それも一時的な口実にすぎず、健康上の深刻な問題があるわけでもない。
結局、婚約の話が一時的に止まっただけだった。
『あいつの結婚……。』
好きな女性に求婚しただけの話だ。
だが、その相手があまりにも分不相応だった。
『……でも父上の言う通りだ。ユリア・プリムローズとの婚約は続けるべきだった。』
ユリアとの婚約破棄以降、自分を見る周囲の視線はどれも好意的ではなかった。
――公爵令嬢が先に手を差し伸べたのに、その恩を仇で返すとは何事だ。
――それに、妹のリリカ令嬢と再び婚約したわけでもない。まったく、あの人は……。
彼女が“公爵家の婚約者”という肩書きを失った瞬間、周囲の人々の態度は驚くほど冷たくなった。
あれほど笑顔で挨拶してきた人々が、今では視線すら合わせようとしない。
(――やっぱり、私は“公爵令息の婚約者”として扱われていただけだったのね。)
リリカはようやくその事実を悟った。
剣術を学び、若い頃にはいくつかの大会で成果も残した。
だが、年齢を重ねるにつれ、表舞台からは遠ざかっていった。
マルセル・ヴィエイラという男――彼が本当に“理想の男性”だったのか。
そう思うたび、胸の奥に小さな苦味が広がる。
かつて、彼の妹たちが嫉妬の目でリリカを見たこともあった。
そのとき感じた優越感さえ、今ではどこか虚しい。
(……でも、私が彼と結婚しないと決めたのは、私自身だもの。)
リリカは静かにまぶたを閉じた。
冷たい風が頬を撫で、もう戻れない日々の終わりを告げていた。
そうは言っても、内心では気に入らなかったものの、ユリアに自分へ手を差し伸べる機会を与えるつもりだった。
聞くところによれば、その間リリカは非難を浴び、ユリア側は少しは態度が軟化したらしい。
とにかく、父の言う通り、かつての婚約者ユリアと再び婚約を結ぶのが得策のように思われた。
『それにリリカ……あの女は、今の俺を見て後悔すればいい。』
ビエイラ令息は自信満々にユリアのもとへ歩み寄った。
だが、片方の口元は不満げに引きつっていた。
まるで自分なしでは成り立たないかのように好きだったくせに、今さら……。
少し離れた場所で皇女と話しているユリアは、まったく気にしていない様子だった。
そして、妹のリリカもまた、先ほど視線が合ったにもかかわらず、近づいてくる気配すら見せなかった。
彼女は、まったく表情を変えなかった。
まるで――何の感情も抱いていないかのように。
(プリムローズの連中って、本当に……。)
そう内心で毒づきながらも、ユリアに先に声をかけたことをすぐに後悔した。
「お手をどうぞ。」
ヴィエイラ卿が穏やかに言い、軽く身をかがめた。
その声にユリアがようやくこちらを見上げる。
彼女は座っていて、彼は立っている。
差し込む光の影が、まるで二人を隔てる幕のようだった。
「……あら。ヴィエイラ卿?」
「プリムローズ公爵家の方に?」
その名が出た瞬間、周囲がざわめいた。
いつも上品ぶっている令嬢たちの顔が、好奇心と驚きで少し歪む。
(まったく、これだから社交界は……。)
そう思いながらも、リリカは目を逸らせなかった。
――その場の誰よりも冷静で、そして堂々としていたユリアの横顔から。
『今まであいつの方から近づいてきたことなんて、一度もなかったのに?』
こみ上げる笑いを心の中で必死に押し殺した。
申し訳ないが、今の彼は“いい男”ではなかった。
素直に受け止めるつもりも、真剣に対応するつもりもなかった。
『俺が領地に滞在している間、あいつの方から連絡してきたこともないんだ。少しは鼻を折ってやらないとな。』
今、優しくするのはほんの一時だけだ。
ビエイラ令息はもう一度、わざと力を込めて言った。
「……もう、他の誰のものにもならないでください。」
その言葉に、今まで微動だにしなかったユリアの眉がぴくりと動いた。
そしてその瞬間、彼女よりも先に、横から反応が返ってきた――。
「ヴィエイラ卿、久しぶりにお会いできて嬉しいわ。……もしかして、しばらく見ないうちに頭でも打たれたの?」
――場の空気が一瞬、止まった。
あまりに率直すぎるユリアの言葉に、誰もが息を呑む。
そして次の瞬間、抑えきれない笑いがあちこちから漏れた。
「ぷっ……ふふっ……!」
「今の聞いた?ユリア嬢のあの言葉!」
貴婦人たちが口元を手で隠しながらも、その笑いを隠しきれない。
リリカは思わず目を見張った。
まさか――ユリアがこんな風に場をひっくり返すとは。
「……」
一方のヴィエイラ卿は、完全に想定外の反応に固まっていた。
彼の頭の中では、ユリアが静かに手を差し伸べ、和やかに微笑むはずだったのだ。
(黄爵夫人は、どうして余計なことを……!)
彼の内心の叫びなど露知らず、周囲の笑い声はますます大きくなっていった。
ビエイラ令息の顔が赤くなったあと、ようやく主人公のユリアが口を開いた。
「ハンカチをくださいって……令息がですか?」
「はい。」
「どうしてですか?」
少しの戸惑いもない声に、彼は思わずたじろいだ。
周囲の皆が彼を見てクスクスと笑っており……自分の言葉に皆が感動すると思っていたユリアは、冷たい笑みを浮かべていた。
――これじゃ、悪い意味で主人公になってるじゃないか!
「な、なぜって……。今回の狩猟大会はプリムローズ公爵家で行われる……のでは?なのに、なぜ私の領地で……大会の……基本的な……規則とか……知らないんですか?」
ビエイラ令息は、言葉がうまく出てこないまま、口をパクパクとさせた。
しかし、その場の空気を完全に支配したのは――ユリアの一言だった。
「……それが“公爵家のやり方”ですの?」
「え?」
「手を差し出すのがそんなに名誉なことのように仰るから。私、てっきり何か特別な理由でもおありかと思いましたわ。」
淡々とした声に、周囲の笑いが再び弾ける。
「ユリア嬢ったら……!」
「まったく、痛快だわ。」
笑い混じりの囁きが広がる中、ヴィエイラ卿の顔色はみるみる青ざめていった。
「ヴィエイラ卿こそ、プリムローズ公爵令嬢のもとへ行かれた方がよろしいのでは?」
「……っ、そ、そんなつもりでは――」
「まぁ、思いつきもしなかったのですね。私も、黙って見ていた方がよかったようです。」
ユリアは静かに微笑んだ。
その笑みは挑発でも皮肉でもなく、完璧な礼儀の仮面。
だが、その裏にある冷ややかな光に気づいた者は――ヴィエイラ卿ただ一人だった。
思いがけない様子のビエイラ令息を見て、ユリアは冷ややかに思った。
長年の付き合いの中でいくつもあった出来事を思えば、久しぶりに会って挨拶もなしにいきなり「ハンカチをください」なんて言う態度は本当に……。
『どうしてこんな人を好きになってしまったんだろう』
当時、少し寂しくて親切にしてくれたからといって、ほだされてしまった自分を思い返し、可笑しくなった。
エノク皇太子と会って、改めて気づいたのだ。
相手を尊重し、心を尽くして接することと、口先だけの「優しさ」はまったく違うということを。
― プリムローズ令息、正式なやり方も知らないなんて。さっき奥様方が「ロマンチック」と言っていた贈り物って何かしら?
― 今回結婚したセロティン侯爵夫人に、サファイアのネックレスを贈ったんですって。すごいわよね。
― その程度で……。私にそんなお金があるとでも?
──「彼女の方が、もっと似合っていたかもしれませんね。」
「え?」
「公爵令嬢の瞳は赤いのでしたね。ルビーのような宝石がぴったりでしょう。名のある宝石商をいくつも訪ね歩いて、きっと満足いくものを選ばれたでしょう。」
ヴィエイラ卿のその言葉に、ユリアはただ静かに耳を傾けていただけだった。
彼にとっては社交辞令の一つにすぎなかったのだ。
けれど、当時の彼女にはそれがまるで違う意味を持って響いた。――初めて、誰かが自分の姿を褒めてくれた。
その錯覚が、淡い恋心の種を植えつけた。
(……私は、勘違いしていたのね。)
ユリアは唇をかすかに動かしながら、過去の記憶を噛みしめた。
「私は元々、こういう性格なんです。無口で……不器用で。」
そう言って笑っていたヴィエイラ卿の声が、今も耳の奥でかすかに響く。
たしかに、彼は誰にでもそうだった。
だが――それを理解するには、あの頃のユリアはあまりにも若すぎた。
相手に誤解されるような言葉は決して口にしなかったはずだ。
『本当に相手のことを思っていたなら、誤解を招くようなことは言わなかったはず』
けれど、それは過去の出来事にすぎなかった。
恥ずかしく、気恥ずかしい記憶ではあるけれど……ユリアは過去の自分を明確に否定したりはしなかった。
「つまり、渡さないということですか?」
「はい」
ユリアはビエイラ令息の要求をはっきりと拒絶した。
だが、彼はしつこく食い下がった。
「さ、狩猟大会にご令息たちを応援しに来たからには、ハンカチを贈るのが慣例だとご存じでしょう?」
「他の方に差し上げるつもりですので」
「その一件で、あなたの気持ちが冷めたのは理解しています。ですが、ありもしないことを言うのはやめてください。私でなければ、一体誰にそのハンカチを渡すというのです?」
ヴィエイラ卿の声は、抑えた怒りを含んでいた。
だがユリアには、それがあまりにも滑稽に聞こえた。
(“冷めた”ですって?そんな軽い言葉で片付けられるとでも?)
ユリアは息を吐き、淡々と返した。
「通りすがりの方にでも差し上げたのでしょう?お得意の社交辞令で。」
その言葉に、彼の顔が見る間に歪んだ。
「まさか、あなたがそんな――!」
「ええ。あなたより立派な方に差し上げたの。あなたのように、自分を誇示するための“贈り物”ではなく、真心を見せることのできる方に。」
ヴィエイラ卿の拳がわずかに震える。
ユリアはその様子を見て、静かに笑った。
――あの頃の彼女なら、怯えて言葉を失っていただろう。けれど今は違う。
彼の怒りも、悔しさも、もうユリアの心を揺らすことはできなかった。
周囲からは時おり、くすくすと笑い声が漏れていた。
場の空気は、思ったほど険悪にはならずに戻りつつあった。
「ここに集まっている男たちをご覧なさい。この中で狩りが得意なのは、私か、あなたの伯父であるプリムローズ小公爵くらいのものです。でも、彼があなたに狩猟大会の栄誉を譲ると思いますか?」
しかし、ビエイラ令息は周囲が目に入っていないようだった。
声の調子はますます強くなっていった。
「狩りの腕もろくにない男に、あなたがハンカチを渡すつもりですか?」
「……」
「エノク皇太子殿下があなたのハンカチを受け取るわけでもないのに。ただ私に渡す方が、よほど無難で名誉なことですよ」
女性からハンカチを受け取った令息が、狩猟大会で大した成果も上げられなければ――それは貴族の間では非常に恥ずかしいことだった。
ユリアは観客席の最前列で、静かに戦場を見つめていた。
陽光を反射してきらめく剣の軌跡が、まるで舞のように流れる。
――やはり、彼の動きは美しい。
かつての感情が胸の奥をかすめたが、すぐに振り払う。
今の彼女の視線は、ただ冷静な観察者のそれだった。
(……ジキセン様の様子がおかしいわね。)
いつもなら挑発的に笑いながら剣を振るう彼が、今日は妙に静かだった。
その理由はすぐに耳に入ってくる。
「体調が優れぬようですな。」
「昨日から高熱だとか……。」
ざわめきの中で、ヴィエイラ卿の表情がわずかに緩むのをユリアは見逃さなかった。
(勝利を確信している顔……。)
胸の奥に、わずかな苛立ちが芽生える。
彼の傲慢さを、これ以上見過ごす気にはなれなかった。
ユリアは扇を閉じ、軽く唇を動かす。
「……この試合、面白くなりそうね。」
彼女の視線の先、風が吹き抜けた瞬間――剣を構え直したジキセンの瞳が、はっきりとヴィエイラ卿を射抜いた。
以前に比べると、かなり見違えるほど評判は良くなっていた。
前回の夜会のときにも感じたことだが、彼女に控えめな視線を送ってくる男性はそれなりにいた。
『でも……ビエイラ令息の言う通りだ。』
その中で、狩猟の腕前をもってユリアの顔を立ててくれそうな令息は一人もいなかった。
『みんなの前で、こんなに恥をかかせるなんて……!』
まるで一撃を食らったように、ぎゅっと口を結ぶユリアの姿に、ビエイラ令息は嘲るように口角を上げた。
ビエイラ令息の知る限り、ユリアは彼と距離を置いて以来、ほかの男性と打ち解けて話すようなことはなかった。
『あのとき長く話したのは、せいぜいエノク皇太子くらいだな。妹と仲が良いおかげで、同情されていたのかもしれない。』
以前よりもずっと落ち着いて見えた。
周囲の評価も上々で、彼の名は再び貴族の間で囁かれていた。
――だが、ユリアの胸中は静かに波立っていた。
(……ヴィエイラ卿の言う通りなのかもしれないわね。)
あの頃の自分を思い返す。
会場の誰もが自分を見下ろす中、彼だけが優しくしてくれた――そう思い込んでいた。
だが今、群衆の視線の中で堂々と彼女を無視する彼の姿は、かつて感じた“優しさ”を無残に打ち砕いた。
(人前で、これほどまでに恥をかかせるなんて……。)
胸の奥が焼けるように痛んだ。
ぎゅっと唇を噛みしめるユリアの様子を見て、ヴィエイラ卿は薄く笑った。
まるで、「やはりお前にはその程度の価値しかない」とでも言いたげに。
だが――その嘲りの笑みを、ユリアはもう怯えではなく、冷たい怒りで受け止めていた。
(あのときとは違う。もう、私はあなたの影に怯えたりしない。)
『話したのは、ほんの数言くらいだったか?』
そうだ、思い返してみればそうだった。
エノク皇太子は誰に対しても親切だった。
そして彼に心を寄せる貴族の令息も多くいた。
ついさっきも、歩いてくるエノク皇太子にハンカチを渡したくて仕方がないといった様子の貴族令嬢たちが大勢いた。
『きっと、他の子たちと同じように丁重に断るだろう。』
一度もハンカチを受け取ったことがないエノク皇太子が、急に気が変わってユリアのハンカチを受け取るはずがない。
『この狩猟大会の場で、誰かに渡すくらいなら、誇りを守るために嘘をついて“渡す相手がいる”なんて言ってるだけだ。』
ユリアに他の男ができたということなら、こんなに余裕の態度を見せるはずがない。
貴族の宴で顔を合わせても、ヴィエイラ卿は決して長く言葉を交わそうとはしなかった。
けれど――その冷たい沈黙の裏で、彼の心の奥には確かな苛立ちが渦巻いていた。
(……ユリアがああ言ったのは、まだ俺を意識している証拠だ。)
彼女の拒絶の言葉すら、彼には勝手な都合のいい解釈に変わっていた。
「まだ俺を忘れられない。だからあんなふうに、強がって……。」
そう思い込むことでしか、彼は自尊心を保てなかった。
――自分を拒んだ女を、いまだに忘れられないのはむしろ自分の方なのに。
かつて婚約を破棄された屈辱。
そのときに、彼の中で「愛」は「所有」へと変わっていた。
(もう一度、俺を選ばせてやる……。)
ヴィエイラ卿の瞳に、静かに執念の炎が宿る。
だがその炎の向かう先に、もはやかつての無垢なユリアはいなかった。
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