公爵邸の囚われ王女様【８６話】ネタバレ

その一言の衝撃は計り知れなかった。

「本当……ですか？」

ノアは、それまで胸の奥にわだかまっていた奇妙な不快感がすべて溶けていくように感じた。

彼は初めて、仮面の存在に感謝した。

これがなかったら、薄笑いを浮かべてしまう彼の表情をすべて隠しきれなかっただろう。

「うん、ないと落ち着かないみたいで。うん……。」

話を止めたクラリスは、ノアの前をくるりと回りながら、じっと彼を見つめ始めた。

髪の毛がちゃんと結ばれているか確認しているようだった。

『顔が近いな。』

ふと見つめるその視線と目が合うと、胸のあたりにじんわりとした感覚が走った。

「きれい。」

満足そうにクラリスが笑うと、ノアの心臓がどくどくと速くなり始めた。

『一体どうして？』

ノアは制御できないほど速く鼓動する心臓をどうすることもできず、完全に身動きが取れなくなっていた。

しばらくすると、息まで苦しくなり、彼は「誰でもいいから助けてほしい」と思った。

このままでは心臓が破裂してしまいそうだった。

「何をしている？」

そんな時、助けが現れた。

バレンタインだった。

ノアを見つめていたかぼちゃ色の瞳がついに彼を離れ、扉の方へ向かうと、不思議なほどにノアの心臓は落ち着きを取り戻した。

『助かった……』

なんとも奇妙な出来事だ。

クラリスの視線には何か特別な魔法がかかっているわけでもないのに、なぜ彼の体調がこんなにも変化したのか？

『もしかして自律神経系に何か異常が生じたのか？』

そう考えながら、ノアは再びバレンタインを見つめ直した。

正確にその原因を突き止めようとするものの、明確な答えは出なかった。

「はぁ、今調べないといけない人って誰？朝から俺の部屋で何してたんだ！」

ノアはその場で立ち上がり、椅子を元の位置に戻しながら答えた。

「礼拝堂の掃除に遅れないように、あなたを起こしに来ただけです。」

「それを起こしてくれたっていうのか？」

バレンタインは信じられない様子でノアを見つめたが、ノアは彼の前に近づいて、そっと肩に触れた。

「感謝の言葉は必要ありませんよ。」

「言わねぇよ。おい、こいつ朝から俺に何をしたのか聞いたのか？」

「もちろんです！ アが気を利かせて起こしたって言ってたじゃないですか？」

クラリスは二人の間に割って入り、彼らの手を取って強引に繋げた。

「だからいつも言ってるじゃないですか。この二人、本当に相性がいいって。」

手を握られたまま、嫌そうにしながらもなんとか納得させた後、クラリスは再び時間を確認した。

もう本当に出発しなければならない時間だ。

「掃除の時間に遅れてしまいますよ。」

扉を閉めたクラリスが先に立ち、バレンタインはポケットにしっかりと手を突っ込んだまま、彼女のそばをゆっくりと歩き続けた。

ノアはクラリスの扉がちゃんと閉まっているか確認した後、適切な距離を保ちながら彼らの後を追った。

どれだけ罰を受けるためとはいえ、司祭たちは広い礼拝堂の掃除を受験生の四人に全て任せきりにはしなかった。

何より彼らの勉強時間と体力を奪いすぎないための配慮だったのだろう。

彼らが担当するのは二つのことだけだった。

壁にかかった装飾品や額の埃を払うこと。

礼拝用椅子の掃除。

そのほか、床を掃き拭きする仕事や、祭壇と燭台を整える作業は、その後に修行中の司祭たちが行う予定だった。

これだけの人数がいれば、どれだけでもやれるだろうと喜んでいたところに、予想外の人物が加わった。

「私も手伝います。」

ユジェニが声を上げた。

彼女はこれまで掃除に関わることはほとんどなく、こうした面倒な作業に参加する理由も見当たらなかった。

「ありがたいけれど……」

クラリスが申し訳なさそうに言いかけたところ、ユジェニは埃払いを手に取って答えた。

「それで十分です。借りを作る性格ではないので。」

クラリスも彼女に続いて、梯子と埃払いを持った。

「それは……少しでも私に感謝する気持ちがあるという意味ですか？」

「そう見えましたか？」

「うん。」

クラリスはユジェニの状況を一緒に解釈してみせた。

それでも、彼女が全くの無関心だったと言うわけではない。

ユジェニは、見ているだけで気分が良くなるようなさわやかな美貌を持っていたからだ。

さらに、公平で誠実な性格。誰もが彼女と親しくなりたいと思うのは当然のことだろう。

「正直に言うと、マクレードさんを手伝うべきだと思ったとき……私も知らず知らずのうちにその気になったんです。」

クラリスは勇気を振り絞って少しの正直さを表に出してみせた。

「私の感謝を……受け入れてもらえますか？」

ユジェニの眉が微かに動いた。

「……遠慮します。」

「うん。」

やっぱりそうか、と悟りつつ、失望を隠せないクラリスに、ユジェニは再び冷たく外した。

「そんなに感謝の表情を浮かべてもお断りです！昔から親しくしたいと言いながら、突然近寄ってくる人間なんて詐欺師か営業マンくらいですよ。それ以外でも普通の人々は目標を持つものに違いありません！」

「ユジェニの顔が好きだからずっと見ていたいという目標です！美しいからです！」

理由はわからないが、クラリスがこう言っているとき、遠くからバケツを持っていたノアが驚いた顔でこちらを見つめていた。

再びユジェニが言った。

「美しい顔が好きなら鏡を見ればいいじゃないですか！」

「え？でも私には顔以外が見えないので……。」

「だから……。」

何かを説明しようとしたユジェニは深いため息をつき、それ以上話すのをやめた。

「まあ、もういいです。掃除でも早く済ませましょう。」

彼女はのんびりしているアビントンの背中を掴み、礼拝堂の隅へ行ってしまった。

「ちょっと押し付けがましかったかな。」

クラリスはユジェニの後ろ姿を静かに見つめ、軽くため息をついた。

彼女もいつの間にか15歳になっていた。

同性の友人への憧れは年々強くなるばかりだが、数年後には友人を作る機会さえ失うだろうと思うと、自然と少し急かすような言葉が口から出た。

「……顔が好きというのが、通俗的に良い意味だとは限らないのですよ、少女。」

ノアが雑巾を手渡すと、クラリスは彼の隣に梯子を置き、壁にかけられた大きな額縁の埃をそっと拭き取った。

「うん、わかる。自分でもわからずに言った言葉だった。ノアの顔を見るときの気持ちに近いんだと思う。とにかく私は……美しいものにすごく弱いみたい。」

いや、それは明らかに違った。少なくとも世間の基準とは異なるのは明白だった。

誰かが特定の何かに執着していると、ノアの顔を好きだと感じることで確認できることがある。

「少女は友情や愛情を感じると、相手を良い方向に見ようとするものです。」

「そうなの？」

「そうですよ。」

「でも、ユジェニに対して特に感情がないときでも、すごく美しいと感じたんだ。ノアもそう思わない？」

「客観的な美しさを語るなら、僕の考えでは、少女以上に美しい人は……。」

「私が？」

埃を払っていたクラリスが、ノアをちらりと見上げた。

まるで梯子の上に立っているからなのか、視線が正面でぶつかった。

『………。』

瞬間、ノアの思考が止まった。

さらに、クラリスの部屋で感じた自律神経の異常が再び始まった。

どうやら、彼の健康状態があまり良くない兆候である。

「ノア、大丈夫？」

「……大したことはありません。清掃を急ぐべきです。」

「うん。」

ノアは少し薬草を買って飲まなければと考えた。