余命僅かな皇帝の主治医になりました【３１話】ネタバレ

寝室へ向かうアジェイドの顔は真っ赤だった。

セリーナのハンカチに触れた頬は、火照ったように熱かった。

ハンカチからはセリーナがよく使っている香水の匂いがした。

彼女自身の体の香りとは少し違う、洗練された香りだった。

しかし、アジェイドにはすでに慣れた感覚だった。

『この心臓はどうしてこんなにドキドキするんだ。』

アジェイドは混乱しながらも激しく打ち鳴る心臓をなだめようと深呼吸した。

とはいえ、心臓が本来の速度を超えて速く打つわけでもなく、まるで錯乱したような行動だった。

最近アジェイドは、セリーナと向かい合うたびに少しぎこちない気持ちになっていた。

彼女の前に立つだけで胸が締め付けられるように感じ、心臓が大きく跳ねた。

ときには胸の中がもつれて、食べ物が口に入っているのか鼻に入っているのかすら分からなくなることも。

「病気だ、間違いなく病気だ。」

アジェイドはまだ落ち着かない息を必死で抑えようとしながら、独り言をつぶやいた。

すれ違った侍従たちは、その気配にびくっと震えながら道を譲ったが、アジェイドはまったく気づいていなかった。

そんなふうに一人で悶々としながら寝室にたどり着いたのだった。

「陛下、ちょうどお探しに行こうと思っていたところでした。」

アジェイドが部屋にいないのを確認して出てきたレオナルドが、アジェイドに気づいて話しかけた。

「どうした？何かあったのか？」

アジェイドはまだどきどきする心臓を押さえながら無愛想に応じた。

するとレオナルドが言った。

「グリーンウッド公爵が陛下にお目通りするため応接室にお越しです。」

グリーンウッド公爵が来たと聞き、アジェイドは顔をしかめた。

ついさっきまで胸をときめかせていたのに、急に心が重たくなった。

沈んでいた心臓がいつの間にか安定したリズムを取り戻した。

公爵と対面することを思うだけで、すでに疲れを感じていた。

「またあの件で来たのか？」

あの件とは、皇太子の座を意味していた。

数年間、グリーンウッド公爵が継続して皇太子の座を狙い、密かに圧力をかけていた。

特にオフィーリアとグリーンウッドの婚約を進めようとしていた。

しばらくオフィーリアが大人しくしていたが、また動き始めたようだ。

大貴族たちはまだ意見が分かれており、それぞれ自分の子を皇太子の座に推薦している状態だったのは幸いだった。

もしグリーンウッドに同調して力を貸す者がいたなら、断るのは容易ではなかっただろう。

レオナルドが苦々しく口を開いた。

「わかったよ。とにかく狩猟祭の件で濁しておこう」

「赤ちゃんがいると言いました。」

「それは聞いてみないと分からないな。」

アジェイドはクスッと笑いながら低くつぶやいた。

グリーンウッド公爵は温厚な人柄だが、意外と中身は違っていた。

一度口先だけの言葉に騙されたと思うと、すぐに見捨てる冷徹さがあった。

穏やかな学者の顔の裏で何を企んでいるのか、アジェイドには分からなかった。

アジェイドが応接室に到着すると、公爵は席から立ち上がった。

「帝国の太陽にお目にかかります。」

「久しぶりだな、グリーンウッド公爵。」

アジェイドが堂々と中央の席に座ると、公爵も続いて腰を下ろした。

「今日は何の用だ？」

「狩猟祭の前に再度承認を受ける部分がありまして伺いました。」

公爵がやわらかく微笑みながら決裁書類を差し出した。

アジェイドが軽く書類に目を通した。

ポータル使用を承認してほしいという内容だ。

ポータルはビスカス公爵家と王室の承認が必要な長距離移動手段。

本来はビスカス公爵家で開発された移動手段だが、先代皇后が皇室に嫁いだことで、その使用権が皇室にも与えられていた。

つまり、ポータルを使用するたびにビスカス家門と王室の承認を受けなければならないのだ。

契約期間は1年単位で延長されており、ちょうどその期限が来たようだった。

「もう延長する時期が来たのか。」

「はい。ビスカス家門と手数料を調整していたため、承認が遅れました。」

「ビスカス家門がまた手数料を上げようとしたようだな。」

「昨年、魔石流通権を我が家門が引き受けたので、それをお知らせする次第です。」

公爵は大したことではないというふうに肩をすくめた。

皇帝の混乱で空席となっていた家門の持ついくつかの権利はすべて皇室に戻されていた。

しかし、その多くの権限を皇帝が全て持っていると経済の回転が鈍くなる。

そこで、有力な家門にいくつかの権限を委任していた。

その中の一つだった魔石流通権が昨年グリーンウッドのもとに渡ったので、ビスカスがそれを報告するのは当然だった。

「手数料が過度に高いのは困るな。適正な価格にするよう指示しよう。」

「ご恩に感謝いたします、陛下。」

グリーンウッド公爵が恭しく頭を下げて感謝を示した。

アジェイドが軽く会釈すると、隣にいたレオナルドが皇帝の印章を持って来た。

アジェイドが印章を取り出して書類に押し、公爵に差し出した。

公爵は礼儀正しく書類を受け取った。そのとき一瞬だけだが、二人の指先が触れた。

アジェイドは誰かと触れることを嫌っていたため、すぐに手を引っ込めた。

だが、公爵はそのままその手を握った。

アジェイドは驚いて固まったままの彼に尋ねた。

「用事はこれで終わりか？」

「……。」

「グリーンウッド公爵？」

「……あ、はい。それ以外は私の方で処理するようにします。」

公爵の表情が微かに歪んだかと思うと、すぐに笑みを浮かべた。

アジェイドは疲れた様子で手をひらひらさせて、公爵に下がるよう指示した。

公爵はゆっくりと彼を見つめると、席を立った。

「では次はグリーンウッド領でお会いしましょう。」

「そうだな。そこで見守るといい。」

アジェイドは記者たちを振り返りながら軽くうなずいた。

公爵は早すぎもせず、かといって遅すぎることもなく、さわやかに歩き始めた。

先ほどと違い、表情は少し硬くなっていた。

何か気に入らないことがあるのか、歯ぎしりをしていた。

『間違いなくうまくいったと思ったのに。いったいなぜ？』

公爵は他のことに気を取られていた。

そのせいで、ちょうど反対側から来たセリーナに気づかず、そのまま肩がぶつかった。

「きゃっ。」

セリーナは強い衝撃で肩に掛けていた医療バッグを落とした。

公爵は遅れて我に返った。

ぶつかった相手を見上げた。

濃い紫色の髪に金色の瞳。

公爵は一目見ただけで彼女をセリーナと見分けた。

やわらかく表情を整えて言った。

「すみません。私が不注意で前が見えていませんでした。」

「大丈夫です。私も前を見ていなかったのでぶつかったんです。ごめんなさい。」

セリーナはにっこり笑って、落ちた医療用カバンの周りのほこりを払った。

同時に壊れていないか確認するためにバッグの中を点検することも忘れなかった。

その間、公爵はセリーナを興味深そうに観察していた。

すでに多くの貴族たちは彼女に注目していた。

警戒心の強い皇帝が彼女を気に入っていたため、当然のことであった。

『それに狩猟祭の行列名簿にも入っていたしな。』

皇帝が外出する際は、常に少数の皇宮医を同行させていた。

彼女の名前がそのリストの一番上にあったことから、最初から予定されていたメンバーだった。

グリーンウッド公爵は彼女の登場に特に驚いてはいなかった。

彼女のせいでオフィーリアを皇后にする計画に狂いが生じた様子だった。

セリーナは公爵の執拗な視線に火照って落ち着かない気持ちになった。

一番不思議だったのは、彼の視線がいつの間にか彼女のバッジの方を向いていたことだった。

『そういえば、あの灰色の髪と琥珀色の瞳は……。』

セリーナは遅れて彼の外見がオフィーリア・グリーンウッドと非常によく似ていることに気づいた。

『まさか、グリーンウッド公爵？』

セリーナは目の前の相手がグリーンウッド公爵であることに気づいて目を見開いた。

公爵は優しく笑いながら言った。

「気をつけた方がいいのではないか。」

「え？」

セリーナは聞き間違えたのかと思い、彼を見つめた。

何を気をつけろというのか分からなかった。

公爵の口調はやわらかかったが、目つきは鋭かった。

その意図が分からず、彼女は言葉を失った。

「目立つ蝶は、標的になるだけだ。」

「……」

「では。」

公爵は礼儀正しく優雅に挨拶し、その場を去った。

セリナは彼の言葉の意味を後になって理解し、思わず顔をしかめた。

『なんなのよ、あの年寄り。』

不愉快になるほど気分の悪い警告だった。

つまり、私の目につかないように行動しろという意味だったのだ。

狂ってる。

『私、グリーンウッド公爵に目をつけられたの？』

セリーナは目をしばたたきながら、すでに消えてしまったグリーンウッド公爵のいた場所を見つめた。

まあ、オフィーリア・グリーンウッドをあんな風にしつこく困らせたのだから、公爵が彼女をじっと見ていたのも当然だった。

『私があの皇帝のせいで、なんて苦労してるのよ。』

今や大貴族にまで「お前は俺の目に留まるな」と言われる始末。

出しゃばったなら出しゃばった結果だ。

セリーナは顔の火照りが冷めるのを感じながら、さっさと道を歩き出した。